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「……先生に、言わなかったんだね」
「まぁね。幸い、他に誰も見てなかったし。あたしだってわざわざチクったりしないよ。まさか阿部があんなことするとは思わなかったけど」
自分だってまさか、してはいけないとわかりきっていることを、するとは思わなかった。お金を出せば簡単に買えるものなのに、なぜあの一時の感情で、盗むなんて事をしてしまったんだろう。
「失恋してむしゃくしゃとか。阿部、ばかじゃん」
「わかってる」
あのとき僕の中で噴き出したのは、密かに心の中で溜め込んでいた彼女への嫉妬心と、行き場のないやるせなさだったのだと思う。それを自分の中で抑えることができなくて、なにかで発散しようとして、とってしまった行動が万引きだったのだ。
「ばか」
「うん」
「ばーか」
「わかってる」
「辛いのは阿部だけじゃないだろ」
「……うん」
顔をあげると、中村は鎖を抱いていた腕を緩めて、小さな板の上にしゃがみこんでいた。むきだしになったふとももに月の光が降りそそいで、その肌は陶器のように真っ白だった。
膝と膝の間にあごをうずめて、彼女は小さく身体を揺らす。公園の木々と、ブランコの背中を押す風の音と、鎖のきしむかすかな音が、僕たちの沈黙を埋めた。
中村だって、そうだ。僕は知っている。彼女の恋が、決して実らないものだということを。
彼女の好きな人は担任の先生だった。
毎日顔をあわせる、自分たちの悩みを親身に聞いてくれる、親のようであり兄のようである彼に、中村は学校以上でのつながりを求めることはできなかった。生徒は生徒であり、中村はただの女子生徒のひとりにすぎない。先生は中村に、僕に向けるまなざしと同じものしか与えなかった。
「阿部は、逃げてるだけ」
中村の言葉が、みぞおち深くに響く。どんなに息を吐いてみても、その重いもやもやは僕の中から出て行こうとしなかった。
「……そうだね」
僕は立ち上がり、ブランコをこぎはじめた。
板の上に座り込んだ中村が、垂らしたつま先で地面に字を書いている。その細いうなじをそっと見下ろして、僕はさっきまで彼女がそうしていたように、強く強くブランコをこいだ。
風を切る。この感覚は、なにも飛び降りなくても得ることができるのだと、僕はいまさらながら気がついた。
僕はわかっていた。この翼がいつか、なくなってしまうことを。
翼は僕の心そのものだった。自由な翼だった。なににもとらわれることなく、縛られずに、自分の思い通りに空をはばたくことができる翼だった。
この世界は、すべて僕の思い通りになんていくわけがない。
我慢しなきゃいけないことがたくさんある。あきらめなきゃいけないことがたくさんある。振り向いてもらいたい人の気持ちが、僕の思うままに得られるわけなんてない。
今までは、自分の望むものがそのまま手にはいることが多かったけれど。これからは、そんな簡単に手に入ったりしない。欲しいものがなかなか手に入らなくなってくる。あきらめなきゃいけない。我慢しなきゃいけないし、楽しいことだけじゃなく悲しいことももっともっと増えるはずだ。
僕は、いつまでも自由ではいられないのだ。
こぐ勢いを増せば増すほど、ブランコのきしむ音が大きくなる。大きめに買ったはずの制服に追いつき始めている身体が、幼いころはびくともしなかったブランコの支柱に悲鳴をあげさせていた。
「阿部……?」
無心でブランコをこぐ僕の勢いに驚いたのか、中村が声をかけてくる。けれど僕はそれを無視して、身体を低くかがめ、がむしゃらにこぎ続けた。
いずれ、翼は僕の背中から消えてしまうものだったのだろう。
僕はそれを、とても愚かな行為で失ってしまったけれど。一時の感情に流されさえしなければ、まだ一緒にいることができたかもしれないけれど。
それでも僕の身体が大きくなるにつれ、翼はきっと、僕の背中から離れていったのだろう。いつまでも、綺麗な心でい続けることはとても難しいことだ。
「中村。僕さ……」
僕は自由なままではいられない。
世界は思いどおりになんてならない。
「僕さ……」
けれど僕は、できることなら、もう一度自分の翼で空を飛びたいと思う。
「――阿部!?」
ブランコがひときわ大きく前に揺れたとき。僕は手を離して、宙に身体を踊らせた。