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         ○○





 僕は、恋をしていた。

 そのときの翼はとても軽かった。

 ひとめぼれだった。恋をして、僕は毎日が楽しかった。彼女のことを思うと自然と翼がはばたいて、普通に歩こうとしても身体が浮き上がってしまってだめだった。翼は僕の心そのものだと、そのとき強く思った。

 楽しいときや嬉しいとき。僕の翼は動きが活発になり、思うままに高く空を飛ぶことができた。逆に気分の良くない、悲しいときや辛いとき、怒ったときは、翼はしゅんと背中にはりついたまま決して風をまとおうとしなかった。

 僕が楽しいときは翼も軽く、よく空を飛ぶ。翼が気持ちよく風を切るときは、僕もとても嬉しい。恋は僕の身体を軽くした。

 けれど恋は楽しいことばかりではなくて、翼も軽いばかりではなかった。彼女が他の男子と話をしているのを見たとき、僕の中をもやもやとしたものが渦巻いてなかなか消えてくれなかった。その嫉妬心は、彼女と言葉を交わせばすぐに消えるぐらいのものだったけれど。消えない間はとても身体が重かった。翼もぴったりと背中にくっついたままで、飛ぶことはおろか、つま先ひとつ浮くこともできなかった。

 


 万引きとその恋がどう関係あるのか。とてもばからしい理由だけど、そのふたつは密接に関係していた。

 僕は失恋をしたのだ。

「……なんか、むしゃくしゃしてさ」

 笑えるような話ではないのに。僕の口調は軽くてどこか他人事だった。僕の虚しい嘲笑に、中村はただ「ふぅん」と呟いて翳ることのない月を見上げるだけだった。

 僕の好きな人には、想い人がいた。ふとした会話の流れで、彼女の口から直接、その話を聞いてしまった。表面上は何事もないように話を続けていたけれど、そのときの会話の後半部をさっぱり覚えていないことから、僕はかなり打撃を受けていたのだろうと思う。

 いつか告白しようと思っていた。けれどその機会もなく砕け散ってしまった恋心を、どう処理していいのか僕にはわからなかった。

 そしてその衝撃も覚めやらぬ日の放課後。何気なく立ち寄ったコンビニで、僕は好きな人の姿を見つけた。

 隣には、彼女が僕に頬を染めながら話していた想い人の姿があった。ふたりは仲良く、なにやら談笑をしていた。はたから見ればそれは、とてもほほえましい光景だった。

 それを見てからの僕のとった行動は、衝動としか言いようがない。

 歯ブラシ一本。そんなもの、欲しいともなんとも思わなかった。ただたまたま目に付いたものを、発作的に、僕は学ランのポケットにしまっていた。

 背中に猛烈な熱さを感じたのはそのときだった。

 僕は忘れていた。翼が僕の心そのものだということを。心が翳ったときは翼も翳るということを。汚れたことをして心が汚れると、翼も共に汚れてしまうということを。

 翼は綺麗でいないと姿を保てないということを。

 あわてて翼を見たときはもう、遅かった。一点のくもりもない白さが自慢だった翼は見る間にどす黒く変色していき、かたちを変えていった。まるで熱した鉄が溶けるかのように、羽根の先をほのかに赤く染めながら、翼はどろどろと崩れて地面に落ちる前に消えてしまった。

 いつもそばにあった、大事な宝物の存在を、僕は痛みを感じるまでの間すっかり忘れてしまっていたのだった。

 あまりにもあっさりと翼をなくしてしまったことに呆然としていた僕は、焦点のあわない視線の先に、中村がいることに気づいた。

 そしてそのまま、店を飛び出したのだった。

 だから僕は、中村に会うのが怖かった。気が動転して逃げ出した僕のことを、彼女は問い詰めてくるに違いないと思っていたから。

「むしゃくしゃしたから万引きしたの?」

「……そう」

 責めるでも呆れるでもなく、ただ疑問を投げかけてくる中村を、僕はこわくて見ることができなかった。彼女が誰にも告げ口していないことは、いつもと変わらない穏やかな学校生活が静かに物語っていた。

 それでも、僕が万引きしたことは変わらない事実だった。盗んだ歯ブラシはもう捨てた。捨てたところで事実が消えるわけがなかった。

「なんで、むしゃくしゃしたわけ?」

「それは……」

 言えない。言えるわけがない。あまりにもばかばかしい理由を口にすることができなくて、僕は前歯でスチール缶の端を噛んだ。

 僕はしてはいけないことをした。だから翼は消えてなくなってしまった。罪が消えないのと同じように、僕の背中には決して、翼は戻ってこないのだろう。

 僕は翼を失った。

 僕は飛べなくなったのだ。

「……失恋、したんだ」

「ばかだね」

 間髪入れない鋭い言葉に、僕はうなだれるしかなかった。直球すぎる中村の言葉はかわすこともできず懐に入り込んできて、悔しさなのか恥ずかしさなのかわからないもので胸がいっぱいになった。

 なぜか僕は、中村には洗いざらいすべてを話してみたくなった。きっと厳しいことを言われるであろうことも覚悟していた。けれど、僕の中で消えることのないわだかまりのようなものを唯一打ち明けることができるのは、偶然にも僕のあさましい行為を目撃してしまった、中村以外に誰もいなかった。


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