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「その傷、大丈夫なの?」

「うん、平気。たいしたことないよ」

 濡らしたハンカチを顔にあてながら、僕はできるだけ、中村の顔を見ないように意識しながら微笑んだ。

 思ってもみなかったことが起きて一瞬頭が真っ白になったけれど。僕はすぐに起き上がって、さよならと逃げ帰ろうとした。けれど中村は僕の心中など察することなく、さも当たり前のようにひきとめてきたのだった。

 傷口を洗うためにとハンカチを水のみ場まで濡らしに行って、呆然と立ち尽くす僕をベンチではなくなぜかブランコに座らせて。傷口に入り込んだ砂をぬぐっているうちに自販機で買ってきたのかジュースを手渡してきて、僕は彼女のペースにのまれてすっかり逃げだす機会を失ってしまっていた。

「阿部。こんなところで、いったいなにしてたの?」

「……ちょっと、いろいろ」

 空を飛ぶ練習をしていた、なんて口が裂けても言えるわけがない。言ったところで信じてもらえないだろうし、寝ぼけているのかと思われるかもしれない。中村だってなぜこんな時間にひとりで出歩いているのだろう。僕だって疑問に思ったけど、あえてそれを口にすることはしなかった。

 中村は、僕が中学に入学して最初に仲良くなった女子だった。短く切ったやわらかいくせ毛とよく動くまるい瞳が小動物のような愛らしい印象を与えるのだけど、実際話してみるとかなりくだけた口調で喋る、ざっくばらんとした飾らない子だった。

 ちらりと横目で見やると、彼女はコーラを片手につま先で地面を蹴ってブランコをゆらしていた。端正な横顔をしているなと、見るたびにいつも思う。目があうのを避けたくて、僕は視線をそらしながら言い訳を考えた。

「眠れないんだ」

「そっか。あたしと一緒だ」

 ジャングルジムから飛び降りたことには触れることなく、中村はそれで納得したのかコーラを一気に飲み干した。遠慮のない大きなげっぷをしながら缶を置くと、ブランコの上に立ち上がって勢いよくこぎ始める。

「あたしもさ、眠れないことがあると夜に自転車でうろつくんだよ。親にばれたら危ないからやめろって言われるだろうから、内緒にしてるんだけど」

 制服を着ているのは、誰かに呼び止められたときに塾の帰りだと言い訳することができるから。はからずしも僕と同じ理由だった。ただしこの時間ではもう、そんな言い訳は通用しないのだけど。

 華奢な膝をくの字に曲げて、中村はブランコをこぐ勢いをどんどん増していく。動きにあわせて甘い香りが漂ってきて、僕は中村がお風呂あがりであることを知った。

「星が綺麗に見える日はさ、寝ちゃうのがもったいないんだよね。今日はほら、おいしそうな満月だしさ」

 中村が、こぐのをやめずに空を仰ぐ。鎖の鳴る乾いた音と、すこし乱れた呼吸が聞こえてくる。膝を曲げて、伸ばし、今にも飛び立とうとするその姿に、僕は彼女の背中に翼のまぼろしを見た気がした。

 中村に翼があったら、とてもよく似合うと思う。喋らなければかなりの美少女なのだ、そこに白い翼があったらとても絵になると思う。大福のようにまんまるな満月を追って翼を広げる中村の姿を思い浮かべると、僕の背中の火傷のような痛みがぶり返してきた。しこりに溶けた蝋をたらされているような、じんわりと尾を引く熱が肩や腰にまで広がってゆく。

 苦悶の息をつく僕に気づくことなく、彼女はあきもせずブランコをこぎ続ける。風になびくプリーツの間からむきだしになった太ももはとても細く、さらにその奥が見えそうになって、僕は一瞬、痛みを忘れた。

「……ねぇ、阿部」

 あとすこしで、見える。寸前のところで、中村はこぐのをやめた。鎖を両腕に抱いて勢いを殺すと、たわんだ鎖がじゃらじゃらと鳴る。乱れた髪が彼女の顔を隠した。

 早くなった呼吸を整えながら、中村は言った。その瞳は僕ではなく、月を見上げていた。

「なんで、万引きなんてしたの?」



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