彼の母親の命日に、私は浮気相手の誕生日を祝っていた。彼は雨の中、一日中私を待っていた
蓮との婚約披露パーティーの日、私は会場へ行かなかった。
ホテルの宴会場には、両家の親族や友人、仕事関係者まで大勢集まっていた。蓮は一人でそこに残り、私の代わりに招待客へ頭を下げて回った。
「奈緒は体調を崩しておりまして、本日は出席できなくなりました。せっかくお越しいただいたのに、申し訳ありません」
後になって、藤原由衣から会場の動画が送られてきた。画面の中の蓮は最後まで穏やかに笑い、一人ひとりに事情を説明している。
私は、蓮が私を愛していることを知っていた。だから、彼が私の前からいなくなる日など考えたこともなかった。
それからしばらくして、何年も一緒に暮らした部屋から蓮のものが一つ残らず消えた。
あの日、私は初めて怖くなった。
1
「行かないの?」
隣のソファに座っていた相沢陽翔が、私のスマホを覗き込んできた。
私はエステサロンの個室で施術を受けながら、由衣から送られてきた動画を眺めていた。会場の入口では、蓮がまだ最後の招待客に頭を下げている。
「行かない。こんなことで蓮が私から離れるわけないでしょ」
動画を閉じ、スマホをベッド脇へ置いた。
蓮とは六年付き合っている。
家で食べるものも、出かけるときに必要なものも、私が一度口にしただけのブランドも覚えていた。生理が近づく頃には、私より先に温めるものや鎮痛薬を用意している。
それが当たり前になりすぎていた。
そもそも私は、蓮と結婚するつもりで付き合い始めたわけではない。
両親は私が幼い頃に交通事故で亡くなり、祖父が一人で育ててくれた。
蓮と祖父が出会ったのも交通事故がきっかけだった。二十代前半だった蓮は、その頃まだ自動車整備工場で働いていた。事故現場の近くにいた彼が、潰れた車から祖父を助け出したのだ。
祖父はそんな蓮をずいぶん気に入り、小さな整備工場を持てるよう資金まで出した。何かにつけて神谷家へ呼び、食事をさせていた。
亡くなる直前、祖父は私の手を握った。
「奈緒。蓮なら、お前を簡単に放り出したりしない。お前があいつと一緒になってくれたら、じいちゃんも安心なんだけどな」
当時の私は祖父に逆らえなかった。
スマホがまた震えた。
蓮からだ。
画面を一度見ただけで、裏返してしまう。
「全身のコース、追加できます? 髪もお願いします」
「かしこまりました」
スタッフが部屋を出ていった。
蓮は昔から、なんでも連絡してくる。どこに着いたとか、昼に何を食べたとか、何時に会議が終わるとか。
付き合い始めた頃は、そんなところさえかわいいと思っていた。
今では、返事をすることすら面倒だった。
目を覚ました頃には、外はすっかり暗くなっていた。
陽翔はまだ待っていた。
「奈緒ちゃん、このあと飯行かない?」
私は彼を見る。
「奈緒ちゃんはやめて。奈緒さんでいいから」
「分かった。奈緒さん」
陽翔はそれ以上何も聞かなかった。
上着を手に取る。
「今日は帰る。婚約披露パーティーに行かなかったんだから、一応、蓮の顔くらい見ておかないと」
陽翔は少し驚いた顔をしたものの、それ以上は踏み込まない。
「送ろうか?」
「大丈夫」
私は、そういうところが気に入っていた。
私の周りには陽翔以外にも若い男が何人かいたけれど、長く残ったのは彼だった。余計なところへ踏み込まない。
少なくとも、あの頃までは。
2
家へ戻ると、蓮はキッチンに立っていた。
暖色の照明の下で、慣れた手つきで野菜を切り、鍋の火加減を見ている。ドアのところから眺めながら、昔とはずいぶん変わったと思った。
若い頃の蓮には、どこか抑えきれない荒っぽさがあった。事業を始め、投資家や取引先と会うようになってから、その鋭さは少しずつ表へ出なくなった。
今では部屋着で料理をしている姿から、油まみれで車の下に潜っていた青年を想像するほうが難しい。
物音に気づいた蓮が振り返った。
私の顔を見ると、表情が少し緩む。
「おかえり。もう少しでできるから」
「うん」
今日のことには触れなかった。
食事も終わりかけた頃、蓮が何度目かの視線をこちらへ向けた。
「奈緒」
「なに?」
「今日……何か急な用事でも入った?」
「別に」
料理を口に運ぶ。
「エステ行ってた」
箸が止まった。
さすがの蓮も、私が言い訳すらしないとは思っていなかったらしい。
やがて視線を落とす。傷ついたのは分かったけれど、わざわざ時間をかけて機嫌を取ろうと思うほどではなかった。
蓮なら大丈夫。
どれだけ突き放しても、最後には戻ってくる。
そう信じていた。
夜、ベッドに入ると、いつものように後ろから抱きしめられた。
「奈緒」
「ん?」
「明日の『エリザベート』、チケット取れたんだ。水城芸術劇場。かなりいい席」
声が少し弾んでいる。
「一緒に行かない?」
私はミュージカルが好きだ。
行こうか迷った。
けれどその日の午後、陽翔も同じ公演のチケットを持ってきていた。
最近の陽翔は、Mercedes-AMG G 63に夢中だった。乗り出しで三千万円近くする車だ。
欲しいとは直接言わないくせに、会うたびに動画を見せてくる。
「奈緒さん、明日一緒に行こうよ。せっかく取れたんだから」
陽翔は私より年下で、笑うと明るい。
年上の女に甘えるのも上手かった。
私が頷くと、子どもみたいに喜んだ。
「やっぱ奈緒さん最高」
以前、ゲーミングPCが欲しいと言い出したときには、二人で二泊のクルーズにも出かけた。
蓮には女友達と旅行すると言った。
寝ている時間以外、ほとんど陽翔と過ごしていた。海を見て、食事をして、次はどこへ行こうかと話した。
だから蓮には、こう答えた。
「また今度。明日は別の人と約束してるから」
腰に回っていた腕が離れた。
蓮は相手が誰かも聞かなかった。
私も、気づかないふりをした。
翌日、公演が終わって劇場を出ると、陽翔は私の手を握っていた。
「足りないなら、また来ようよ。時間なんていくらでもあるし」
返事をしようとして、足が止まった。
少し離れたところに蓮が立っている。
「……なんでここにいるの?」
口にしたあとで、自分でもおかしいと思った。
元々その公演に誘ってきたのは蓮だ。
私が驚いたのは、断られたあとでも一人で観に来たことだった。
蓮は答えない。
視線だけが、私と陽翔の手に落ちている。
妙に苛立って、陽翔の手を振りほどいた。
外で何人と遊ぼうが、蓮と別れるつもりなど一度もなかった。六年という時間は長い。
恋人というより、もう生活の一部だった。
陽翔が何か言おうとしたので、目で黙らせる。
彼は何も言わず離れていった。
蓮の前まで歩いていく。
見つかったことへの後ろめたさはあった。
けれど、黙られるほど苛立ってくる。
「何か言えば?」
蓮はほんの少しだけ笑った。
陽翔が触れていたほうの手には触れず、反対側を握る。
「帰ろう」
それだけで、私は安心した。
蓮が見なかったことにしてくれるなら、何も壊れない。
まだ大丈夫だと思った。
帰りの車で、蓮はしばらくスマホを見ていた。
G 63の購入手続きは、いつものように蓮の秘書へ回していた。隠せるはずもない。
しばらくして、蓮が口を開く。
「奈緒。今日の車、誰に買ったの?」
もう知っているのだろう。
今の蓮は、昔の貧乏な整備士ではない。
祖父が用意してくれた小さな整備工場を足がかりに事業を広げ、車両管理システムへ進出し、Kurokawa Mobilityを立ち上げた。
今では、水城でも名前を知られた若手経営者だ。
「俺が稼いだ金、奈緒が使う分には何も言わない」
窓の外を見たまま続ける。
「でも、それでほかの男に車を買うのはやめてくれ」
眉をひそめた。
「何? 今さらお金の話するの?」
「違う」
少し間を置いて、声が弱くなる。
「俺だって普通に腹は立つし……男としての意地くらいあるよ」
その言葉で、初めて会った日のことを思い出した。
病院だった。
祖父が事故に遭い、私は病室へ駆け込んだ。
ベッドの近くには、作業着を油で汚した若い男が座っていた。てっきり加害者だと思い、散々怒鳴りつけた。
蓮は背が高く、病院の小さな椅子では膝の置き場もない。それなのに、私に罵倒されながら笑っていた。
「何笑ってるの?」
あの頃の私は、今よりもっと我慢がなかった。
「うちがどういう家か分かってる? おじいちゃんに何かあったら、絶対許さないから!」
蓮は眉を上げた。
「俺があの車乗ってたように見える?」
そこで初めて、まともに見た。
古い服に乱れた髪。手も袖口も油で汚れている。
高そうなのは顔くらいだった。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「整備工場で働いてるから。事故が店の近くだった。おじいさんを車から出したの、俺」
当時の蓮は、新聞配達や居酒屋の皿洗い、倉庫作業、コンビニの夜勤まで、できる仕事は何でもしていた。
その中では、自動車整備は技術も身につく安定した仕事だったという。
祖父が亡くなったあと、神谷家の会社は一気に揉め始めた。
役員をしていた親族たちが経営権を争い、資産売却やブランド分割を進めようとした。
経営のことなど何も知らなかった私の代わりに、株主や弁護士、親族と交渉したのは蓮だった。
結果として、私はいくつかの直営店と安定した持ち株を残すことができた。
けれど、自分に年間いくら配当があるのかさえ、きちんと把握したことはない。普段の生活費のほとんどを、蓮が出していたからだ。
そこまで考えて、なぜか余計に腹が立った。
「そもそも、おじいちゃんがあんなに気に入ってなかったら、こんなに早く蓮と付き合ってないから」
自分でも嫌な言い方だと思った。
「私だって、ほかにいくらでも男いるし」
蓮はしばらく黙っていた。
「……うん」
薄く笑う。
「知ってる」
3
それから蓮は、前より口数が減った。
以前なら何でも話してきたのに、今では私のそばにいても黙っている時間のほうが長い。
陽翔は逆だ。よく喋り、よく笑い、私がどうすれば気分よくなるかを分かっている。
だから余計に、蓮の沈黙が鬱陶しかった。
ある夜、生理痛で目が覚めた。
半分眠ったまま、隣の温かい身体へ寄る。
「痛い……」
私の声で蓮が目を覚ました。
明かりをつけ、服の上から使えるカイロを腹に当ててくれる。
「何か温かいの作る」
「いらない」
「じゃあ何がいい?」
昼間、SNSで見た店を思い出した。
「いちご飴」
「今?」
「うん。最近流行ってる店のやつ」
時計は午前四時を過ぎていた。
当然、店は閉まっている。
それでも蓮は服を着て出ていった。
後から知ったことだが、店が開くまで車で待ち、朝一番の列に並んだらしい。
雨の中を帰ってきた頃には、髪も上着も濡れていた。
私が目を覚ましたとき、テーブルには丁寧に包装された箱が置かれていた。
「買ってきた」
蓮は少し得意そうに箱を差し出した。
中には、昨夜口にしたいちご飴が並んでいた。
「行ったんだ」
笑いながら、勢いで頬にキスをした。
蓮が目を丸くする。
私からキスをしたのは久しぶりだった。
一度こちらへ手を伸ばしかけたが、自分の服が濡れていることに気づいて止める。
「先にシャワー浴びてくる」
「うん」
何時間かけて買ってきたのかなんて、そのときは考えもしなかった。
ただ、安心していた。
たった一言で雨の中を走り、店が開くまで待ってくれる。
蓮はまだ、今までと同じだ。
私の中では、それだけで十分だった。
蓮は普段からLINEも多い。
【奈緒、今日早く終わった。帰りに海の近く通ったから写真送る】
【ちゃんと食べた?】
【今日は会議多すぎ。昼ほとんど食べられなかった】
【何か買って帰ろうか?】
【飲みすぎた】
【ちょっと会いたい】
【今から帰る】
私の返事は「うん」とか、スタンプ一個程度だった。
数日開かないこともある。
最近、自分から連絡したのは、水城で見つけた小さなカフェが気に入ったときくらいだ。
何気なく、
「この店、かわいい」
と言っただけだった。
しばらくすると、その店は私名義になっていた。
シャワーから戻った蓮が聞いた。
「奈緒、明後日って空いてる?」
「たぶん」
予定はなかった。
蓮の表情が少し緩む。
「じゃあ、一緒に出かけよう」
どこへ行くのかは聞かなかった。
蓮は昔から、こうして突然デートやプレゼントを用意する人だった。
その日、蓮はいつも通り会社へ行った。
私は暇だったので、陽翔を呼んで映画を観に行く。
百貨店を歩いている途中、陽翔がメンズのブレスレットに目を止めた。
百二十万円。
迷わず店員に包んでもらう。
「こちらのブレスレットをご購入の場合、同シリーズのネックレスがキャンペーン価格で三万九千円になります」
店員がシンプルな銀色のネックレスを見せた。
男女どちらでも使えそうだ。
「それも一緒に」
映画のあと、陽翔は食事にも行きたがったけれど、断った。
私は意外と家で食べるのが好きだった。
玄関を開ければ、キッチンに蓮がいる。いつもの匂いがする。
それだけで、なぜか落ち着いた。
その日も蓮のほうが先に帰宅していた。
脱いだコートをいつものように受け取り、ポケットを確認していると、例のネックレスが出てきた。
「奈緒、これ何?」
振り返る。
蓮の顔に、わずかな期待が見えた。
どうしてそう言ったのか、自分でもよく分からない。
「蓮に買ったの」
元々、キャンペーンのおまけみたいなものだったし、デザインも男女兼用だ。
それくらいの気持ちだった。
蓮は手のひらのネックレスを長いこと眺めた。
「すごくいい」
その顔がおかしくて笑ってしまう。
「そんなに気に入った?」
「奈緒が買ってくれたものなら、何でも好き」
丁寧に箱へ戻す。
私は、蓮って本当に単純だと思った。
元をたどれば、蓮が稼いだお金なのに。
4
翌朝、蓮はもうネックレスをつけていた。
銀のチェーンと濃い色のスーツは、正直そこまで合っていない。
それでも、本人がつければ何となく格好よく見える。
蓮に好意を寄せる女は、昔から多かった。
公開イベントで一目見るためだけに、遠くから何時間もかけて水城へ来た人さえいる。
けれど蓮は、そういう女性には驚くほど冷たかった。
あまりしつこいと、私を隣へ引き寄せる。
「見れば分かるでしょ。彼女いるから」
私は蓮に飽きたと言いながらも、好きだった時期まで否定するつもりはない。
むしろ、かなり好きだった。
私の青春には、そこまで思い出が多いわけじゃない。
その中で、蓮だけははっきり残っている。
ただ六年も一緒にいるうちに、それを恋ではなく習慣だと思い込むようになっていた。
夜、陽翔からLINEが来た。
【奈緒さん、今日俺の誕生日なんだけど。夜、少し会えない?】
そこで初めて知った。
とりあえず百万円振り込む。
【知らなかった。好きなもの買って】
夜はバーで誕生日を祝った。
途中で友人たちが陽翔に願い事をしろと囃し立てる。
陽翔は目を閉じ、少し考えてから笑った。
「奈緒さんがずっと幸せでいてくれますように」
周りから歓声が上がる。
「あと、来年も再来年も、こうして一緒に誕生日祝えたらいいな」
グラスを持ち上げた。
「八月二日って最高の日だわ」
手が止まった。
「今、何日って言った?」
「八月二日。どうしたの?」
二日前の蓮の言葉が頭に浮かんだ。
八月二日は、蓮の母親の命日だ。
明後日空けておいてほしいと言ったのは、墓参りに連れていくためだった。
落ち着かなくなった。
けれど同時に、頭の中では言い訳も始まっていた。
去年だって一緒に行かなかった。そのとき蓮は怒らなかった。
一日遅れたところで、お墓がなくなるわけでもない。
明日行けばいい。
そう自分に言い聞かせて、スマホを開く。
指が止まった。
LINEにも着信履歴にも、蓮の名前がない。
六年間、こんな夜に一度も連絡がないことなんて、ほとんどなかった。
何かが少しずつ変わっている。
そのことだけは分かった。
5
誕生日会が終わる頃には、まともに歩けないほど酔っていた。
陽翔が家まで送ると言って聞かない。
玄関前に着いたときには、一人で立つのも難しくて、ほとんど彼に身体を預けていた。
鍵を出そうとした瞬間、内側からドアが開いた。
蓮だった。
蓮の目に映ったのは、別の男に腰を抱かれている私だった。
「ちょっと酔ってて……」
身体を離そうとした。
ところが陽翔の腕に力が入る。
「離して」
眉をひそめても、陽翔は蓮を見たままだった。
「奈緒さん、もう好きじゃないなら、別れればいいじゃん」
挑発するように笑う。
「俺じゃダメ?」
いつもならかわいく見える笑顔が、その瞬間だけひどく不快だった。
そもそも陽翔をそばに置いたのは、若い頃の蓮に少し似ていたからだ。
自信があって、派手で、プライドも高い。それでも好きな女には頭を下げる。
けれど今は、似ているところを見つけるほど腹が立った。
「今日、奈緒さんが来てくれて――」
最後まで言えなかった。
蓮の拳が陽翔の顔に入った。
二人はそのままもみ合いになった。
若い頃から蓮は喧嘩が強い。
今も手加減しているようには見えない。
止めようとしたが、私はまっすぐ歩くことすらできなかった。
それに心のどこかでは、止めたいとも思っていなかった。
陽翔は、私が決めた線を越えた。
私と遊ぶのはいい。
でも、それを蓮の前へ持ち込むのは許していない。
以前にも、蓮は私のために喧嘩をしたことがある。
祖父に反発していた頃、神谷家と関係のない会社へ就職したことがあった。
家の名前を使わなくても自分はやれる。
そう証明したかったのだ。
取引先との飲み会で、上司に何度も酒を勧められた。
最後には、取引相手をホテルまで送れと言われた。
拒否すると、酷い言葉で罵られた。
その日、迎えに来た蓮が偶然それを聞いた。
相手の胸ぐらを掴み、そのまま殴り合いになった。
目の前の光景が、あの頃と重なる。
地面に押さえつけられた陽翔が、それでも顔を上げた。
「黒川さん。婚約披露パーティーの日、奈緒さんがどこにいたか知ってる?」
蓮の手が止まる。
陽翔が笑った。
「俺と一緒だったよ」
「もうやめて!」
気づけば叫んでいた。
「陽翔、帰って」
信じられないという顔をされたが、無視した。
蓮の腕を掴もうとすると、避けられる。
そのまま彼は無言で家へ入った。
数秒立ち尽くしてから、陽翔を見る。
「私たち、これで終わり」
それだけ言い残し、蓮を追った。
玄関からリビングまで数歩しかない。
なのに妙に不安だった。
これまでは、どんな喧嘩でも蓮は簡単に機嫌を直した。少し優しくして、キスでもすれば、それで終わった。
でも、今夜は違う。
静かすぎた。
隣へ座る。
「蓮。もう怒らないで」
蓮は、首につけた銀色のネックレスを指でなぞっていた。
いつも通り膝の上に乗り、首へ腕を回す。
「蓮……」
抱き返してこない。
「これ、陽翔のブレスレットと同じシリーズだよな」
身体が固まった。
「違――」
「百二十万のブレスレット、買ってやったんだろ」
蓮はチェーンを指で持ち上げた。
「こっちはキャンペーンの三万九千円」
怒鳴ることもなかった。
少し見つめてから、
「……そっか」
とだけ言った。
それが余計に気に入らなかった。
「たかがネックレスでしょ?」
長い沈黙のあと、蓮が顔を上げた。
「奈緒」
「なに」
「俺たち、もう戻れないのかな」
酒のせいで、我慢が利かなかった。
「じゃあどうしてほしいの?」
声が大きくなる。
「陽翔とはもう会わないって言ってるじゃない」
「私、あの人と寝たわけでもないのに。ご飯とか映画に行っただけで、そこまで責める?」
蓮は目を閉じた。
本当に疲れているようだった。
「寝たかどうかじゃない」
私を見る。
「俺が嫌がるって知ってたのに、ずっと会ってたことがつらいんだよ」
言葉が出なかった。
「それに今日は、母さんの命日だ」
声が低くなる。
「一緒に来るって言ったよな」
胸が沈む。
「朝から八時まで待ってた」
「じゃあ明日行けばいいじゃない」
考える前に口から出た。
「明日一緒に行くって言ってるんだから、それでいいでしょ」
蓮はずっと私を見ていた。
「同じじゃない」
大事そうにつけていたネックレスを外し、テーブルへ置く。
そして二階へ上がっていった。
長く伸びた背中の影を見ながら、初めて思った。
今回は、いつものようにはいかないのかもしれない。
6
それから数日、陽翔には連絡しなかった。
家にいて、蓮に食事をしたか聞いたり、一緒にニュースを見たりした。私なりにかなり譲歩したつもりだった。
それでも蓮はよそよそしい。
ある夜、自分から言った。
「明日、お母さんのお墓行かない?」
「いい」
迷いのない返事だった。
思わず眉を寄せる。
いつまで怒っているつもりなのだろう。
腹が立ってきて、由衣たちと隣の街へ温泉旅行に出た。
その夜、蓮からLINEが届く。
【どこ?】
見た瞬間、少し嬉しくなった。
まだ気にしている。
【由衣たちと旅行】
旅館の動画まで送った。
二時間後に返ってきたのは、
【そっか】
それだけだった。
翌日から、私は何度もスマホを確認していた。
何回目か分からないほど画面をつけたところで、由衣が呆れたように聞いた。
「奈緒、さっきから誰の連絡待ってるの? 蓮と喧嘩でもした?」
私たちの周りで、蓮がどれほど私に惚れているかを知らない人はいない。
婚約披露パーティーの日も、由衣は会場にいた。動画を送ってきたのも彼女だった。
誰かに話したい気持ちもあって、全部説明した。
「墓参り、一緒に行くって言ってたの忘れてたの」
「うん」
「でもあとで私から行こうって言ったのに、向こうが断ったんだよ?」
話しているうちに、また納得できなくなる。
「なんか全部私が悪いみたいじゃない?」
由衣はしばらく私を見つめた。
「奈緒。本気で、墓参りを忘れたことだけが問題だと思ってる?」
「陽翔とはちょっと近かったけど、何もしてないし。もう切ったよ」
由衣がため息をついた。
「寝たとか寝てないとか、そこじゃないでしょ」
珍しく強い口調だった。
「蓮が嫌がるって分かってたのに何度も会ってた。婚約披露パーティーの日は一人にして、今度はお母さんの命日に別の男の誕生日を祝ってた」
何も言えない。
「次の日にお墓へ行けば元通り、って話じゃないよ」
しばらくして、由衣は声を落とした。
「奈緒、まだ蓮のこと好き?」
「何それ」
「もう何とも思ってないなら、なんで別れなかったの?」
私の目を見る。
「お金のためじゃないでしょ。奈緒って、そんな理由で誰かと一緒にいられるタイプじゃないし」
隣で話を聞いていた友人が一人だけ口を挟んだ。
「新しい人に目が行くことくらい、誰だってあるよ」
少し困ったように笑う。
「でも蓮が絶対いなくならないって思ってるなら、それはやめたほうがいいと思う」
その言葉で、八月二日の意味が重くなった。
蓮は母子家庭で育った。
母親が白血病になったあと、父親は離婚して家を出た。
大学受験を控えていた蓮に心配をかけまいと、母親は病状が悪化してからも黙って働いていたという。
入院や転院で生活が厳しくなった頃には、祖父が金銭的に手を貸したこともあった。
それでも、母親は亡くなった。
納骨の日は、一日中雨だった。
来ていた人は多くなかった。
蓮は墓の前で、雨の向こうに一人だけ取り残されたように立っていた。
傘を差しかける。
長い間黙っていた蓮が、顔を上げた。
「奈緒」
声がかすれていた。
「俺、もう家族いないんだ」
そのとき私は言った。
「私が家族でしょ」
六年経っても、蓮はあの言葉を覚えていたのだろう。
変わったのは、言った側の私だった。
立ち上がった。
由衣が驚く。
「どこ行くの?」
「水城に戻る」
帰り道、何度も蓮の顔を想像した。
突然帰って、ちゃんと謝る。今度こそ一緒に墓へ行く。
そうすれば、あの目も昔みたいに柔らかくなるかもしれない。
考えただけで、胸が少し弾んだ。
自分ではとっくに蓮に飽きたと思っていた。
けれど少なくとも、その瞬間の私は、蓮を失いたくなかった。
家へ戻る。
「蓮?」
返事はない。
全部の部屋を見た。
いない。
出張でない限り、この時間ならいつも家にいる。
電話をかけてもつながらない。
最後に、共通の知人へ連絡した。
「蓮?」
相手は少し考えた。
「さっきLUNEにいた気がする。取引先の人たちと飲んでたよ」
通話を切り、そのまま向かった。
7
LUNEへ着くと、ほとんど走るように階段を上がった。
個室の前まで来たところで、女性の声が聞こえる。
「蓮、そんなに急いで飲まないほうがいいよ。明日も会議でしょ?」
柔らかい声だった。
ドアを開ける。
蓮の隣にいたのは、高橋玲奈だった。
蓮が会社を立ち上げた頃からの知り合いで、今ではKurokawa Mobilityと仕事をするテック企業の経営者だ。
玲奈とは私も以前から何度も顔を合わせている。
顔を見た瞬間、頭に血が上った。
近づいて、頬を叩く。
「玲奈。まだ諦めてなかったの?」
玲奈は頬を押さえたまま固まった。
「奈緒?」
「戻ってきたら、また蓮に近づくんだ」
目元が赤くなったが、玲奈は言い返さない。
「今日は新しい案件の打ち合わせ。ほかの人もいたでしょ」
「よく言う」
もう一度手を出しかけたところで、手首を掴まれた。
蓮だった。
「神谷奈緒」
一瞬、言葉を失った。
蓮が私をフルネームで呼ぶことなど、ほとんどない。
「玲奈は仕事相手だ。いい加減にしろ」
「私が悪いって言うの?」
「奈緒」
「今、私よりこの人の肩持つんだ?」
空気を察した周囲の人たちは、一人ずつ部屋を出ていった。
玲奈が最後に立ち上がる。
私の前で足を止めた。
「奈緒」
今度は、怒る様子もなかった。
「もう蓮を放してあげて」
睨み返す。
「蓮、海外に拠点を出す話も断ったし、青凪へ本社を移す話も断ったよ」
玲奈が蓮を見る。
私は黙ったままだった。
「理由くらい分かってるでしょ」
今度は私を見る。
「奈緒が水城を離れたくないって言ったから」
少し間を置く。
「それでも、蓮は幸せだったと思う?」
「もういい?」
聞きたくなかった。
「終わったなら帰って」
玲奈はそれ以上何も言わなかった。
扉が閉まる。
部屋には私と蓮だけが残った。
「説明して」
「何を」
「なんで、よりによって玲奈なの?」
「仕事相手だって言っただろ」
「じゃあ、なんで玲奈じゃなきゃダメなの?」
旅行先から慌てて戻ってきたのは謝るためだった。
そんなことは、とっくに頭から消えていた。
蓮はしばらく黙って私を見ていた。
やがて静かに言った。
「奈緒。別れよう」
「……は?」
「終わりにしたい」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「無理」
蓮の前へ回り込む。
「婚約までしてるのに、勝手に決めないで」
服を掴む。
「私は別れない」
蓮は私の手を見下ろし、一本ずつ指を外した。
それだけして、出口へ向かう。
怖くなった。
追いかける。
「蓮、待って!」
足が止まる。
「お母さんが治療してたとき、助けたのは神谷家でしょ!」
口から出てしまった。
「うちがいなかったら――」
そこまで言って、自分で固まった。
蓮は背中を向けたまま、何も言わなかった。
言い返しもしない。
ただ、そのまま歩き出した。
あの背中は、もう追いつけないほど遠く見えた。
8
LUNEを出たところで、陽翔に呼び止められた。
どこから聞いたのか知らない。
顔にはまだ前の喧嘩の痕が残っていた。
「奈緒さん」
近づいてくる。
「黒川さんとは、もう終わったんでしょ」
睨みつける。
「だったら俺と付き合ってよ」
声が少し震えていた。
「俺、奈緒さんのこと好きになった」
黙って最後まで聞いた。
「終わった?」
「え?」
「言いたいこと終わったなら、行く」
そのまま横を通り過ぎる。
背後から笑い声がした。
しばらくして、泣いているような声が聞こえる。
「奈緒さんって……冷たいよね」
振り返らなかった。
何も感じていないなら、六年も蓮と一緒にいただろうか。
私はただ、蓮のいない生活というものを想像したことがなかった。
陽翔も、ほかの男も、いなくなればそれで終わりだ。
でも蓮だけは違う。
家に帰ればいい。
きっと戻ってくる。
今度はちゃんと謝る。
偉そうにしない。
ほかの男でわざと刺激したりもしない。
まだ、そう信じていた。
玄関を開けて、動けなくなった。
蓮がいない。
それだけではなかった。
服も、パソコンも、玄関に置いてあった車のキーも、洗面所のものも消えている。
毎朝使っていたコーヒーカップまでなくなっていた。
何年も一緒に暮らした部屋なのに、蓮なんて最初から住んでいなかったように見えた。
リビングの真ん中で、長いこと立っていた。
胸が重くなる。
気づいたときには涙が落ちていた。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
朝一番でKurokawa Mobilityへ行った。
会社の下で待ち続け、蓮の車が入ってくるのを見つけた。
笑おうとした。
蓮は昔、私が笑う顔が一番好きだと言っていたから。
「蓮」
足が止まる。
「昨日、一晩考えた」
声が震えた。
「私、悪かったと思ってる」
近づく。
「陽翔とあんな関係を続けるべきじゃなかったし、お母さんのことも……あんな言い方、するべきじゃなかった」
「ごめん。許して」
蓮は何も言わない。
どんどん怖くなる。
「私たち、婚約してるじゃん」
「婚姻届、出そうよ。証人なら由衣たちに頼めばいいから」
顔を覗き込む。
「今日だって出せるよ」
蓮は長いこと黙っていた。
私を見ても、もう表情は少しも緩まなかった。
「奈緒」
「うん」
「もう続けたくない」
顔が固まる。
「気持ちって、なくなるんだな」
静かな声だった。
「前は、もう少し優しくしたら、もう少し待ったら、いつか奈緒がちゃんと俺のほう見てくれるって思ってた」
苦く笑う。
「でも、もう待ちたくない」
首を振った。
「いいよ」
涙があふれる。
「今は好きじゃなくてもいい」
「私がまた追うから。蓮がもう一回好きになってくれるまで、ちゃんとする」
蓮は首を横に振った。
受付のスタッフを呼ぶ。
「今後、この人は上に通さないで」
「蓮!」
腕を掴んだ。
静かに外される。
「終わりだよ、奈緒」
その場に立ったまま、背中が見えなくなるまで動けなかった。
本当は知っていた。
蓮は元々、何でも許すような優しい男ではない。
若い頃は喧嘩も容赦がなかったし、仕事では相手に甘い人でもない。
私にだけ、ずっと鋭い部分を隠していた。
愛していたからだ。
その愛がなくなれば、私にだけ優しくする理由もなくなる。
9
それからしばらく、あらゆる方法で蓮の前に現れた。
会社の下で待った。
よく行く店にも行った。
Kurokawa Mobilityが参加するイベントにも顔を出した。
何度も繰り返すうちに、蓮は明らかに私を避けるようになった。
ある夜、スマホで検索した。
「別れた恋人 復縁 方法」
追いすぎないほうがいい。
相手に考える時間を与えるべき。
しつこくすれば、もっと嫌われる。
そんな意見が並んでいた。
だから、一週間だけ耐えた。
一度も会いに行かなかった。
それ以上は無理だった。
たまたま通りかかったレストランから、蓮と玲奈が一緒に出てきた。
二人で並んで歩いている。
玲奈が何か言った。
蓮が笑った。
その顔を見て、頭の中が真っ白になった。
走っていき、玲奈を押した。
「蓮から離れて!」
よろけた玲奈を、蓮が支えた。
私は二人の間へ入る。
「蓮は私のだから」
蓮は玲奈を立たせてから、こちらを見た。
その目は、知らない人を見るように冷たかった。
「神谷奈緒」
また、フルネームだった。
「もう、うんざりだ」
それだけだった。
なのに、それまで言われたどんな言葉よりも苦しかった。
六年間ずっと私を好きで、午前四時でも車を出し、何日LINEを返さなくても食事をしたか気にしてくれた人。
その蓮が今、私をうんざりしたような目で見ている。
そこからどう帰ったのか、よく覚えていない。
何度かヒールで足を取られた。
転びそうになっても止まれなかった。
あの家へ戻りたくなかった。
蓮のいない部屋は、明かりをつけても暗い。
結局、バーに入った。
途中で由衣が来た。
隣へ座り、しばらく何も言わなかった。
「奈緒」
「うん」
「気づくのが、遅かったんだね」
グラスを握る。
涙が落ちて、中の酒に混じった。
「まだ蓮のこと好きだったんでしょ」
「今のほうが、二人にはいいのかもしれない」
由衣の声は静かだった。
「蓮はもう、自分の生活に戻ろうとしてる」
「奈緒も、これ以上自分を追い詰めないほうがいい」
「無理」
首を振る。
「蓮がほかの女といるところ、見られない」
これから誰かが蓮と一緒に家へ帰る。
彼の料理を食べる。
同じベッドで眠る。
寝起きでぼんやりした顔も、その人だけが見るようになる。
考えただけで息が苦しくなった。
「耐えられない」
立ち上がる。
由衣が腕を掴んだ。
「どこ行くの?」
「一人になりたい」
ついて来ようとした。
断った。
そして一人で、駐車場へ向かった。
10
外はいつの間にか雨になっていた。
車へ乗り込んでも、しばらくエンジンをかけられなかった。
窓を流れる雨で、外の明かりが細長く滲んでいる。
頭の中は蓮でいっぱいだった。
病院の椅子に座り、私に怒鳴られても笑っていた顔。
祖父に初めて家へ呼ばれ、サイズの合わないスーツを着て落ち着かなそうにしていた姿。
そして母親の納骨の日。
「奈緒。俺、もう家族いないんだ」
雨の中でそう言った蓮に、私は傘を差しかけた。
「私が家族でしょ」
あのときは、心からそう思っていた。
嘘なんて一つもなかった。
なのに。
どこから、こんなふうになったのだろう。
ハンドルに額をつけたまま、長いこと泣いた。
酒のせいで頭も重い。
タクシーを呼ぶべきだと分かっていた。
それでも、その場から一秒でも早く離れたかった。
沿岸道路へ出る頃には、雨はさらに強くなっていた。
涙も止まらない。
何度拭っても、視界が滲む。
カーブへ入ったとき、速度を落とすのが遅れた。
ブレーキ音が雨を切り裂く。
ガードレールが目の前まで迫る。
次の瞬間、車体が道路の外へ飛び出した。
一瞬、身体が浮いた。
直後に激しい衝撃が走る。
冷たい海水が車内へ流れ込み、腰を越え、胸まで上がってきた。
シートベルトを外そうとしたが、指がうまく動かない。
水位はさらに上がり、息が苦しくなっていく。
意識がぼやけ始めた頃、顔を上げた。
バックミラーの横で、小さな蝶のチャームが揺れている。
蓮と付き合って最初の年。
年越しの夜にもらったものだった。
あの頃は、二人とも金なんてなかった。
安っぽい小さな飾りを手にして、それでも蓮は真剣だった。
「本物の蝶なら、そのうち飛んでいくけどさ」
小さなチャームを私の手のひらに乗せる。
「こいつなら、ずっと奈緒のそばにいる」
私はその言葉を散々からかった。
深くなっていく水の向こうで、その蝶を見上げる。
離れていったのは、いつも私のほうだった。
海水が頭まで覆った。
最後に浮かんだのは、何年も前の雨の日だった。
蓮の上に傘を差す私。
母親の墓の前で、彼は目を赤くしていた。
この先も、私までいなくなるのかと聞かれた。
あのときの私は、心から信じていた。
私たちは、ずっと一緒にいるのだと。




