第1話 私だって、もう大人だから
乾杯、という言葉とともにグラスをこつんと当てる。
一口、二口とグラスを傾けると、カシオレの爽やかな風味が鼻を抜けた。
少し遅れて、オレンジの酸味が口の中に広がっていく。
それほど度数は強くないけれど、お酒特有の後味をうっすら感じた。
グラスを置いて隣に視線を向けると、彼女は豪快にビールを飲んでいた。
細い首筋に波が立って、身体の奥にアルコールが落ちていくのがよくわかる。
「やっぱビール最高だなぁ」
グラスから口を離すと、彼女はしみじみと呟いた。
すぐにお通しの枝豆を乗せた皿を近づけておいしそうに頬張っていく。
仕事のできそうな出で立ちからはみ出した彼女を見ると、頬が緩んでしまう。
私も彼女に倣って、枝豆を何個かつまんで口に放り込んだ。
――鈴原と再会したのは、大学を卒業した春以来ちょうど五年ぶりだった。
当時の鈴原はアッシュグレーのウルフカットにユニセックスなコーデを好んでいたため、すらりとした長身も相まって王子様のような見た目をしていた。
その容姿から、男女問わず想いを寄せられていたのは言うまでもない。
しかし、今の彼女はダークブラウンのロングヘアでビジネススーツを着込んでいて、美人系の女性社会人という印象が強い。
それほど印象が変わっているとはつゆ知らず、一時間ほど前に声をかけられたときは見知らぬ人に声をかけられたのかと思ってびっくりした。
とは言え彼女のフランクな話し方や距離感の近さから、大学生時代に仲の良かった鈴原だということにすぐ気が付いたのだけれど。
私とここまで親密だったのは、人生の中で鈴原しかいないから。
「鈴原は転職してこっちに戻ってきた感じ?」
「そうだよー」
私が尋ねると、なんてことないように頷いた。
鈴原が新卒で入ったのは隣の県にある上場企業の総合職だったはず。
入社倍率はかなり高かったはずだが、五年も経ったからという理由で転職に踏み切り、こちらの地方に戻ってきたらしい。
そして帰り際に偶然私を見かけて、思わず声をかけたという。
「宮下ってマジで大学から変わってないよねー」
「そうかな」
「そうでしょー」
見た目もあんま変わってないし、飲んでるお酒もずっとカシオレじゃん。
笑みを含ませて鈴原はそう口にした。
「……まあ、カシオレは好きで飲んでる感じだし」
「美味しいからさ」と言葉を濁して、赤紫色の液体を喉に流し込む。
どんなに綺麗な色をしていても、身体の中に入ってしまえば関係ない。
口の中にしぶとく残るのは、オレンジのつんとした酸味だけ。
私は今、小さな嘘を吐いた。
鈴原はずっとカシオレを飲んでいると思っているのだろうけれど、それは違う。
いま飲んでいるカシオレだって、私はそれほど好きではない。
今日この子と一緒にお酒を飲むことになったから、カシオレにしたのだ。
「ビールとかめっちゃうまいけどなぁ」
私の感情を知らない鈴原は、ひょいとグラスをこちらに向ける。
ちらと彼女の指先に視線が行くが、結婚指輪らしきものはついていなかった。
……まだ結婚はしていないらしい。
まだ若いと思っていても、私たちはもう二十七だ。
結婚もそろそろ視野に入ってくる年齢ではある。
「試しに一口飲んでみない?」
少し下世話なことを考えていると、さりげなく鈴原は誘ってきた。
慌ててグラスに視線を戻す。
黄金色の液体が揺れていて、氷が解けてきてグラスには水滴が付着していた。
「あー……」
……どうしようかな。
たしかに間接キスくらい、私たちの間では大したことではなかった。
大学生だったときの私たちは、もっといろんなことをしていた。
だから、飲みかけのビールくらい普通に飲んでも問題はない。
ビールが好きか嫌いかではなくて、鈴原と間接キスをすることを受け入れるか否か、という視点で考えてしまう。
そんな自分に辟易としつつも、あんまり長く黙っているのもよくない。
「――じゃあ一口だけ、貰おうかな」
その言葉を口にするのに、私にはほんの少し勇気を必要だった。
鈴原が向けたグラスを掴んで、私はちびりとビールを口に含む。
すると口いっぱいに、ビール特有の苦みが広がっていった。
すぐに飲み込んでも、アルコールが喉に張り付く感じが消えない。
カシオレで口直しをしてから、鈴原に顔を向ける。
「ビールうまいって絶対嘘でしょ。苦いだけじゃん」
「この苦さがうまいんだけどなー」
宮下はまだまだ子どもだね、と鈴原は悪戯っぽく笑みをみせる。
そして、気にすることなく私の口のつけた箇所からビールを飲み始めた。
その姿を見て、心臓がずきりと痛む。
なんでそんな簡単に間接キスできるの。
私はどうするのが正解かちょっと悩んだのに。
もう昔のこと、なのかな。
鈴原にとって、あんなの大したことじゃなかったのかな。
――私は五年間、ずっと引きずってきたのに。
「……私だって、もう大人だから」
――湿っぽい気持ちは心の隅へと押し込んで、私はぎこちない笑みを浮かべた。




