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別れの吊り橋を渡ったのは、私を捨てたあなたの方でした ~婚約破棄された伯爵令嬢ですが、渡った者は二度と戻れないと知っていたので黙っていました~

作者: uta
掲載日:2026/08/16

「セラフィーナ・アルディス! お前との婚約を破棄する。この橋を渡り、俺との縁を今ここで断つ!」


王太子の生誕祭。煌びやかな夜会の熱気が、国境の渓谷を渡る冷たい霧に呑まれていく。


第二王子リオネル・ヴェルダーンの声が、『夕暮れの吊り橋』のたもとに響き渡った。


私は――セラフィーナは、彼を静かに見上げた。


金髪碧眼の、絵に描いたような美形。その腕には、薄桃色の髪をした継妹アメリアがしなだれかかっている。


「お前は地味で愛想がない。それに比べてアメリアには聖女の資質がある。……分かるだろう? お前ではもう、王家に相応しくないのだ」


周囲の貴族たちがざわめく。哀れみと嘲笑の視線が、雨のように降り注ぐ。


(……ああ、始まったわね。)


私は内心で、ひどく冷めた声を漏らした。


前世の私は、現代日本で民俗学を専攻する大学院生だった。伝承と古文書に埋もれて青春を捧げた、根っからの文献オタク。


その記憶を抱えて、私はこの世界の――『橋守の一族』の末裔として生まれ落ちた。


そして辺境で、来る日も来る日も一族の古文書を読み込んできた。


だからこそ、私は知っている。


この目の前にかかる、霧に霞んだ古い吊り橋。その伝承の“本当の続き”を。


(この人たち、伝承の後半を読んでないのね。「告げた者だけが渡れる」の、本当の意味を。)


「聞いているのか、セラフィーナ! さっさとその橋を渡って、消えてしまえ!」


リオネルが苛立たしげに橋を指さす。


アメリアがくすくすと笑った。「お姉さま、往生際が悪くてよ? どうぞ、早く渡ってしまわれて」


私はゆっくりと、深緑の瞳を伏せた。


喚くつもりはない。涙も見せない。


だって――知ってしまっているのだから。


この先に、何が起こるのかを。


*


私は、ドレスの裾をつまんで、淡々と一礼した。


「かしこまりました」


その落ち着いた声に、ざわめいていた夜会が一瞬静まる。


「では――別れを告げるのは、あなた方ですから」


私は顔を上げ、まっすぐにリオネルとアメリアを見つめた。


「どうぞ、そちらがお渡りください」


沈黙。


リオネルの表情が、きょとんと固まった。


「……は? 何を言っている。渡るのはお前だろう」


「いいえ」


私は静かに首を振る。


「この『夕暮れの吊り橋』の伝承を、あなたは最後まで読んでいらっしゃらないのですね」


胸元から、私は代々受け継いできた古い鍵を取り出した。橋守の一族の象徴だ。


「伝承にはこうあります。――『別れを告げる者だけが渡れる。渡り切った者は、告げた相手との縁を永遠に断ち、二度とこちら側には戻れない』」


「そうだ、だからお前が――」


「その“続き”があるのです」


私は言葉を重ねた。声を荒げず、ただ淡々と。


「――『別れを“告げた側”こそが、橋を渡らねばならない』。渡り切った者は、告げた縁のみならず、この世での立場も、名も、そして……“資質”までも、霧に置いて逝く」


夜会の空気が、ぴりりと張り詰める。


「橋は、嘘と裏切りの重さを量ります。そして渡る者から、不当に奪ったものを剥がし――本来の持ち主へと還す。それが橋守の一族に代々受け継がれる、“清算の秘儀”です」


「な……」


「私は、一度もあなたに別れを告げておりません。告げたのは、あなたです、リオネル殿下」


私は微笑みすらせず、告げた。


「ですから、渡るのはあなた。……申し上げませんでしたが、私は橋守の末裔ですので」


一瞬、リオネルの顔に恐怖がよぎった。


だがすぐに、彼はそれを嘲笑で塗り替えた。


「はっ……そんな迷信で、俺が怖気づくとでも?」


アメリアも甲高く笑う。「お姉さま、負け惜しみもそこまでくると滑稽ですわ! おとぎ話で人を脅すなんて」


(……止めなさい、とは言わないわ。)


私は静かに一歩、後ろへ下がった。


(だって、あなたたちが“別れを告げたい”と願ったのだもの。私は橋守として――渡りたい人を、渡してあげるだけ。)


「行くぞ、アメリア。この女に、迷信の愚かさを教えてやろう」


二人は勝ち誇った足取りで、霧の橋へと踏み出した。


*


二人が橋の中央にさしかかった、その瞬間だった。


渓谷にかかる夕陽が、ふいに――血のように、赤く染まった。


「な、なんだ……? この赤い夕陽は……」


リオネルが足を止める。


霧が、生き物のように蠢き始めた。二人の足元から立ちのぼり、その身体にまとわりつく。


「きゃっ……! なに、この霧……!」


アメリアの悲鳴が渓谷にこだまする。


橋が、静かに――だが確かに、量り始めた。


二人が背負った、嘘と裏切りの重さを。


「う……ぐっ、身体が……!」


アメリアの薄桃色の髪から、淡い光が剥がれていく。


それは彼女が“不自然に急に開花した”と噂された、あの聖女の資質。


――本来、私のものだったもの。


光は一筋の帯となり、霧を裂いて、まっすぐに私のもとへと還ってきた。


温かい。


(……胸の奥に、ずっと空いていた穴が、静かに満たされていく。おかえりなさい。あなたは、ずっと私のものだった。)


「返し……て……! それはわたしの……!」


アメリアが霧の中で手を伸ばす。だが、その手はもう、何も掴めない。


「アメリア!? お前、なぜ光が――ぐあっ!」


リオネルの身体からも、金色の輝きが剥落していく。王家の加護。彼が当然の権利として利用してきた、不当な力。


それもまた、霧に食まれて消えていった。


「戻れ……戻るぞ、アメリア! こちら側へ!」


リオネルが振り返る。


「戻れませんわ」


私は、渓谷に響くように、静かに告げた。


「橋は、渡る者を決して戻さない。……そう、申し上げたはずです」


二人の足は、勝手に霧の向こうへと進んでいく。


名も、立場も、資質も失った、ただの旅人として。


「セラフィーナ! 助けてくれ、セラフィーナぁ――!」


その声が、霧に呑まれて、遠ざかる。


最後にリオネルが見せたのは、ようやく己の愚かさに気づいた者の――絶望の表情だった。


やがて霧が晴れたとき。


橋の向こうには、もう誰もいなかった。


私は、静かに息を吐いた。


(さようなら。……どうか、向こう側でお元気で。)


夜会の面々が、真の聖女の輝きをまとう私を見て、青ざめていた。


「なに、あの令嬢……こわい」


「最初から……全部、知っていて……?」


「知っていて、黙って……渡らせたの……?」


ざわめきが、恐怖に染まっていく。


私は誰にも答えなかった。


ただ、胸元の古い鍵を、そっと握りしめた。


*


夜会の喧騒を背に、私は橋のたもとへと歩を進めた。


そこには、一人の男が待っていた。


漆黒の角と鱗をわずかに覗かせた、長身の竜人。赤銅色の瞳が、揺れる篝火に照らされている。


辺境を守る将軍、アルヴィス・ドラケンハート。


『冷酷無比の竜将軍』と、誰もが恐れる男。


だが――橋守の一族と古い盟約を結ぶ、彼だけは。


私がしたことの、本当の意味を理解している。


「……お前は、あいつらを止めなかったな」


低い声が、静かに問う。


私は彼を見上げ、いつもと変わらぬ淡々とした調子で答えた。


「ええ。だって“別れを告げたい”と願ったのは、あちらですもの」


霧の向こうを、ちらりと見やる。


「私は橋守として――渡りたい人を、渡してあげただけ」


アルヴィスは、ふっと小さく笑った。


その厳めしい相貌が、わずかに緩む。


「相変わらず、容赦がないな。……そういうところが」


彼は言いかけて、赤銅色の瞳をふいと逸らした。


そして――厳めしい竜人が、耳の裏を、指先でかりかりと掻いた。


もじもじと。まるで、初恋を打ち明ける少年のように。


(……あら。また、その癖。耳の裏を掻いていらっしゃる。)


戦場では一騎当千と謳われるこの男が、私の前でだけ見せる、ポンコツな仕草。


この前など、私の淹れた茶がぬるいというだけで、盛大に拗ねていた。


知らぬ者は、誰も信じないだろう。


「セラフィーナ」


アルヴィスが、意を決したように口を開いた。


「お前は今夜、正しい別れを見届けた。誰にも理解されず、たった一人で。……そうだろう」


「……」


「だが、俺は知っている。お前がどれだけ長く、この辺境で、たった一人で一族の務めを果たしてきたかを」


彼の大きな手が、そっと、私の隣の空間に伸ばされる。


まるで、そこに私がいてくれることを、確かめるように。


「なあ、セラフィーナ」


篝火が、彼の頬をほんのり赤く染めていた。……いや、あれは、篝火のせいではないのかもしれない。


「次に橋を渡るときは――」


彼は、まっすぐに私を見つめた。


赤銅色の瞳の奥に、隠しきれない、一途な光を宿して。


「誰とも別れず。俺と“こちら側で”生きる道を、選んでくれ」


渓谷を、静かな風が渡っていく。


私は――前世から数えても、初めてかもしれない。


誰かの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


「……将軍様は」


私は、深緑の瞳を、そっと和らげた。


「求愛の言葉すら、そんなにもじもじなさるのですね」


「……っ、こ、これは違う、耳が痒かっただけで――」


慌てて手を下ろす彼を見て、私は――生まれて初めて、声を立てて、小さく笑ったのだった。


「ふふっ……ええ、そういうことにしておきましょう。……お返事は、熱いお茶を淹れてから、では?」


「……ぬるいのは、なしだぞ」


*


夜が明けた。


アルディス辺境伯家の広間。窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床を照らしている。


「お嬢様……」


古参の侍女ノーラ・フェンウィックが、白髪を結い上げた頭を深く垂れた。その皺だらけの頬を、静かに涙が伝う。


「お嬢様は……間違ったことは、決してなさいませんでした。ノーラは、ずっと、ずっと信じておりました」


幼い頃から私を世話し、継妹に冷遇される日々を陰で支えてくれた人。


古文書を読み込む夜には、黙って蝋燭を足し、温かい茶を差し出してくれた、数少ない理解者。


「ありがとう、ノーラ」


私は、彼女の震える手を、そっと握った。


「あなたがいてくれたから、私は辺境で、独りではなかったわ」


ノーラは、たまらず嗚咽を漏らした。


その温かさを噛みしめながら、私は窓の外――遠く霧に霞む渓谷を、静かに見つめた。


(あの二人は、今頃どうしているのかしら。)


名も、立場も、資質も失った、ただの旅人。


二度と、ヴェルダーンには戻れない。


古文書には、こうも記されていた。


――『橋を渡った者が、霧の向こうで何を見るかは、誰も知らぬ。ただ一つ確かなのは、そこで初めて“本当の自分”と出会うということ』。


何も持たない、ただの人間としての自分と。


(……もしかしたら、それが本当の“清算”なのかもしれないわね。)


奪ったものではなく、飾りでもなく。


裸の自分と向き合う場所へ、あの二人は渡っていった。


そこで彼らが、何を思うのか。


それは――もう、私の知るところではない。


「お嬢様」


ノーラが、涙を拭いながら、ふと悪戯っぽく微笑んだ。


「ドラケンハート将軍様が、朝早くからお見えですよ。……なんでも、昨夜お嬢様に淹れていただく茶を、心待ちにしていらっしゃるとか」


「まあ」


私は、思わず口元を綻ばせる。


「……ぬるいと拗ねるくせに、ですか」


「ふふ、扉の向こうで、さきほどから行ったり来たり。あの一騎当千の竜将軍様が、耳の裏を掻きながら」


広間の扉の向こうで、大きな影がそわそわと行ったり来たりしているのが見えた。


漆黒の角を持つ、一騎当千の竜将軍が。


耳の裏を、かりかりと掻きながら。


私は胸元の古い鍵に、そっと指を添えた。


橋守の一族として、私は数え切れぬ別れを見届けてきた。


けれど――これから先の私の物語は、きっと。


“こちら側で”、誰とも別れることなく続いていく。


私は立ち上がり、静かに扉へと歩き出した。


新しい茶葉を、用意しなければ。


……今度こそ、彼が拗ねないよう、熱いのを。


(さて。橋の向こうの物語は、また別の誰かに任せるとして。)


(私は、私の“こちら側”を、生きるとしましょう。)

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― 新着の感想 ―
面白いですが、『橋を渡ったら消える』と知っていたけど、告げた方が渡らないと行けないと知って迷信だと叫んで渡る設定が少々強引では。 最初は橋を渡れば離縁出来る程度の知識にして渡れば消える事は隠していた方…
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