別れの吊り橋を渡ったのは、私を捨てたあなたの方でした ~婚約破棄された伯爵令嬢ですが、渡った者は二度と戻れないと知っていたので黙っていました~
「セラフィーナ・アルディス! お前との婚約を破棄する。この橋を渡り、俺との縁を今ここで断つ!」
王太子の生誕祭。煌びやかな夜会の熱気が、国境の渓谷を渡る冷たい霧に呑まれていく。
第二王子リオネル・ヴェルダーンの声が、『夕暮れの吊り橋』のたもとに響き渡った。
私は――セラフィーナは、彼を静かに見上げた。
金髪碧眼の、絵に描いたような美形。その腕には、薄桃色の髪をした継妹アメリアがしなだれかかっている。
「お前は地味で愛想がない。それに比べてアメリアには聖女の資質がある。……分かるだろう? お前ではもう、王家に相応しくないのだ」
周囲の貴族たちがざわめく。哀れみと嘲笑の視線が、雨のように降り注ぐ。
(……ああ、始まったわね。)
私は内心で、ひどく冷めた声を漏らした。
前世の私は、現代日本で民俗学を専攻する大学院生だった。伝承と古文書に埋もれて青春を捧げた、根っからの文献オタク。
その記憶を抱えて、私はこの世界の――『橋守の一族』の末裔として生まれ落ちた。
そして辺境で、来る日も来る日も一族の古文書を読み込んできた。
だからこそ、私は知っている。
この目の前にかかる、霧に霞んだ古い吊り橋。その伝承の“本当の続き”を。
(この人たち、伝承の後半を読んでないのね。「告げた者だけが渡れる」の、本当の意味を。)
「聞いているのか、セラフィーナ! さっさとその橋を渡って、消えてしまえ!」
リオネルが苛立たしげに橋を指さす。
アメリアがくすくすと笑った。「お姉さま、往生際が悪くてよ? どうぞ、早く渡ってしまわれて」
私はゆっくりと、深緑の瞳を伏せた。
喚くつもりはない。涙も見せない。
だって――知ってしまっているのだから。
この先に、何が起こるのかを。
*
私は、ドレスの裾をつまんで、淡々と一礼した。
「かしこまりました」
その落ち着いた声に、ざわめいていた夜会が一瞬静まる。
「では――別れを告げるのは、あなた方ですから」
私は顔を上げ、まっすぐにリオネルとアメリアを見つめた。
「どうぞ、そちらがお渡りください」
沈黙。
リオネルの表情が、きょとんと固まった。
「……は? 何を言っている。渡るのはお前だろう」
「いいえ」
私は静かに首を振る。
「この『夕暮れの吊り橋』の伝承を、あなたは最後まで読んでいらっしゃらないのですね」
胸元から、私は代々受け継いできた古い鍵を取り出した。橋守の一族の象徴だ。
「伝承にはこうあります。――『別れを告げる者だけが渡れる。渡り切った者は、告げた相手との縁を永遠に断ち、二度とこちら側には戻れない』」
「そうだ、だからお前が――」
「その“続き”があるのです」
私は言葉を重ねた。声を荒げず、ただ淡々と。
「――『別れを“告げた側”こそが、橋を渡らねばならない』。渡り切った者は、告げた縁のみならず、この世での立場も、名も、そして……“資質”までも、霧に置いて逝く」
夜会の空気が、ぴりりと張り詰める。
「橋は、嘘と裏切りの重さを量ります。そして渡る者から、不当に奪ったものを剥がし――本来の持ち主へと還す。それが橋守の一族に代々受け継がれる、“清算の秘儀”です」
「な……」
「私は、一度もあなたに別れを告げておりません。告げたのは、あなたです、リオネル殿下」
私は微笑みすらせず、告げた。
「ですから、渡るのはあなた。……申し上げませんでしたが、私は橋守の末裔ですので」
一瞬、リオネルの顔に恐怖がよぎった。
だがすぐに、彼はそれを嘲笑で塗り替えた。
「はっ……そんな迷信で、俺が怖気づくとでも?」
アメリアも甲高く笑う。「お姉さま、負け惜しみもそこまでくると滑稽ですわ! おとぎ話で人を脅すなんて」
(……止めなさい、とは言わないわ。)
私は静かに一歩、後ろへ下がった。
(だって、あなたたちが“別れを告げたい”と願ったのだもの。私は橋守として――渡りたい人を、渡してあげるだけ。)
「行くぞ、アメリア。この女に、迷信の愚かさを教えてやろう」
二人は勝ち誇った足取りで、霧の橋へと踏み出した。
*
二人が橋の中央にさしかかった、その瞬間だった。
渓谷にかかる夕陽が、ふいに――血のように、赤く染まった。
「な、なんだ……? この赤い夕陽は……」
リオネルが足を止める。
霧が、生き物のように蠢き始めた。二人の足元から立ちのぼり、その身体にまとわりつく。
「きゃっ……! なに、この霧……!」
アメリアの悲鳴が渓谷にこだまする。
橋が、静かに――だが確かに、量り始めた。
二人が背負った、嘘と裏切りの重さを。
「う……ぐっ、身体が……!」
アメリアの薄桃色の髪から、淡い光が剥がれていく。
それは彼女が“不自然に急に開花した”と噂された、あの聖女の資質。
――本来、私のものだったもの。
光は一筋の帯となり、霧を裂いて、まっすぐに私のもとへと還ってきた。
温かい。
(……胸の奥に、ずっと空いていた穴が、静かに満たされていく。おかえりなさい。あなたは、ずっと私のものだった。)
「返し……て……! それはわたしの……!」
アメリアが霧の中で手を伸ばす。だが、その手はもう、何も掴めない。
「アメリア!? お前、なぜ光が――ぐあっ!」
リオネルの身体からも、金色の輝きが剥落していく。王家の加護。彼が当然の権利として利用してきた、不当な力。
それもまた、霧に食まれて消えていった。
「戻れ……戻るぞ、アメリア! こちら側へ!」
リオネルが振り返る。
「戻れませんわ」
私は、渓谷に響くように、静かに告げた。
「橋は、渡る者を決して戻さない。……そう、申し上げたはずです」
二人の足は、勝手に霧の向こうへと進んでいく。
名も、立場も、資質も失った、ただの旅人として。
「セラフィーナ! 助けてくれ、セラフィーナぁ――!」
その声が、霧に呑まれて、遠ざかる。
最後にリオネルが見せたのは、ようやく己の愚かさに気づいた者の――絶望の表情だった。
やがて霧が晴れたとき。
橋の向こうには、もう誰もいなかった。
私は、静かに息を吐いた。
(さようなら。……どうか、向こう側でお元気で。)
夜会の面々が、真の聖女の輝きをまとう私を見て、青ざめていた。
「なに、あの令嬢……こわい」
「最初から……全部、知っていて……?」
「知っていて、黙って……渡らせたの……?」
ざわめきが、恐怖に染まっていく。
私は誰にも答えなかった。
ただ、胸元の古い鍵を、そっと握りしめた。
*
夜会の喧騒を背に、私は橋のたもとへと歩を進めた。
そこには、一人の男が待っていた。
漆黒の角と鱗をわずかに覗かせた、長身の竜人。赤銅色の瞳が、揺れる篝火に照らされている。
辺境を守る将軍、アルヴィス・ドラケンハート。
『冷酷無比の竜将軍』と、誰もが恐れる男。
だが――橋守の一族と古い盟約を結ぶ、彼だけは。
私がしたことの、本当の意味を理解している。
「……お前は、あいつらを止めなかったな」
低い声が、静かに問う。
私は彼を見上げ、いつもと変わらぬ淡々とした調子で答えた。
「ええ。だって“別れを告げたい”と願ったのは、あちらですもの」
霧の向こうを、ちらりと見やる。
「私は橋守として――渡りたい人を、渡してあげただけ」
アルヴィスは、ふっと小さく笑った。
その厳めしい相貌が、わずかに緩む。
「相変わらず、容赦がないな。……そういうところが」
彼は言いかけて、赤銅色の瞳をふいと逸らした。
そして――厳めしい竜人が、耳の裏を、指先でかりかりと掻いた。
もじもじと。まるで、初恋を打ち明ける少年のように。
(……あら。また、その癖。耳の裏を掻いていらっしゃる。)
戦場では一騎当千と謳われるこの男が、私の前でだけ見せる、ポンコツな仕草。
この前など、私の淹れた茶がぬるいというだけで、盛大に拗ねていた。
知らぬ者は、誰も信じないだろう。
「セラフィーナ」
アルヴィスが、意を決したように口を開いた。
「お前は今夜、正しい別れを見届けた。誰にも理解されず、たった一人で。……そうだろう」
「……」
「だが、俺は知っている。お前がどれだけ長く、この辺境で、たった一人で一族の務めを果たしてきたかを」
彼の大きな手が、そっと、私の隣の空間に伸ばされる。
まるで、そこに私がいてくれることを、確かめるように。
「なあ、セラフィーナ」
篝火が、彼の頬をほんのり赤く染めていた。……いや、あれは、篝火のせいではないのかもしれない。
「次に橋を渡るときは――」
彼は、まっすぐに私を見つめた。
赤銅色の瞳の奥に、隠しきれない、一途な光を宿して。
「誰とも別れず。俺と“こちら側で”生きる道を、選んでくれ」
渓谷を、静かな風が渡っていく。
私は――前世から数えても、初めてかもしれない。
誰かの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……将軍様は」
私は、深緑の瞳を、そっと和らげた。
「求愛の言葉すら、そんなにもじもじなさるのですね」
「……っ、こ、これは違う、耳が痒かっただけで――」
慌てて手を下ろす彼を見て、私は――生まれて初めて、声を立てて、小さく笑ったのだった。
「ふふっ……ええ、そういうことにしておきましょう。……お返事は、熱いお茶を淹れてから、では?」
「……ぬるいのは、なしだぞ」
*
夜が明けた。
アルディス辺境伯家の広間。窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床を照らしている。
「お嬢様……」
古参の侍女ノーラ・フェンウィックが、白髪を結い上げた頭を深く垂れた。その皺だらけの頬を、静かに涙が伝う。
「お嬢様は……間違ったことは、決してなさいませんでした。ノーラは、ずっと、ずっと信じておりました」
幼い頃から私を世話し、継妹に冷遇される日々を陰で支えてくれた人。
古文書を読み込む夜には、黙って蝋燭を足し、温かい茶を差し出してくれた、数少ない理解者。
「ありがとう、ノーラ」
私は、彼女の震える手を、そっと握った。
「あなたがいてくれたから、私は辺境で、独りではなかったわ」
ノーラは、たまらず嗚咽を漏らした。
その温かさを噛みしめながら、私は窓の外――遠く霧に霞む渓谷を、静かに見つめた。
(あの二人は、今頃どうしているのかしら。)
名も、立場も、資質も失った、ただの旅人。
二度と、ヴェルダーンには戻れない。
古文書には、こうも記されていた。
――『橋を渡った者が、霧の向こうで何を見るかは、誰も知らぬ。ただ一つ確かなのは、そこで初めて“本当の自分”と出会うということ』。
何も持たない、ただの人間としての自分と。
(……もしかしたら、それが本当の“清算”なのかもしれないわね。)
奪ったものではなく、飾りでもなく。
裸の自分と向き合う場所へ、あの二人は渡っていった。
そこで彼らが、何を思うのか。
それは――もう、私の知るところではない。
「お嬢様」
ノーラが、涙を拭いながら、ふと悪戯っぽく微笑んだ。
「ドラケンハート将軍様が、朝早くからお見えですよ。……なんでも、昨夜お嬢様に淹れていただく茶を、心待ちにしていらっしゃるとか」
「まあ」
私は、思わず口元を綻ばせる。
「……ぬるいと拗ねるくせに、ですか」
「ふふ、扉の向こうで、さきほどから行ったり来たり。あの一騎当千の竜将軍様が、耳の裏を掻きながら」
広間の扉の向こうで、大きな影がそわそわと行ったり来たりしているのが見えた。
漆黒の角を持つ、一騎当千の竜将軍が。
耳の裏を、かりかりと掻きながら。
私は胸元の古い鍵に、そっと指を添えた。
橋守の一族として、私は数え切れぬ別れを見届けてきた。
けれど――これから先の私の物語は、きっと。
“こちら側で”、誰とも別れることなく続いていく。
私は立ち上がり、静かに扉へと歩き出した。
新しい茶葉を、用意しなければ。
……今度こそ、彼が拗ねないよう、熱いのを。
(さて。橋の向こうの物語は、また別の誰かに任せるとして。)
(私は、私の“こちら側”を、生きるとしましょう。)




