第九十二話
翌朝。
源蔵はいつものように神社の石段を掃いていた。
竹ぼうきが砂をなでる音が、静かな山に響く。
トワも隣で落ち葉を集めていた。
「ありがとうございます。」
源蔵は照れくさそうに笑う。
「客に掃除まで手伝わせる神社なんて、聞いたことがないな。」
「依頼ですから。」
トワが笑うと、源蔵もつられて笑った。
レンは倉庫の扉を開けていた。
中には古びた提灯が何十個も積まれている。
ひとつ取り出してみる。
骨組みは傷んでいない。
「まだ使えるな。」
ぽつりと呟く。
アオイは神楽殿の床を雑巾で磨いていた。
木目が少しずつ本来の色を取り戻していく。
スズは境内の草花を手入れし、さくらは花瓶に山百合を生けた。
誰も「祭りを復活させよう」とは言わない。
ただ、この場所を今日も大切にする。
それだけだった。
昼前。
山道を一台の軽トラックが上ってきた。
運転していたのは、近くの集落に住む農家の女性だった。
「あれぇ、今日はにぎやかだねぇ。」
源蔵が笑って手を振る。
「ちょっと掃除をな。」
「そうかい。」
女性は荷台から大きなスイカを降ろした。
「みんなで食べな。」
「畑で採れたばかりだから。」
午後になると、郵便配達の青年が立ち寄った。
「神社、きれいになりましたね。」
「久しぶりに提灯を見ました。」
そんな何気ない一言が交わされる。
夕方には、小学生が二人、自転車でやって来た。
「探検していい?」
「転ぶなよ。」
源蔵が笑う。
子どもたちは境内を駆け回り、蝉の抜け殻を見つけて歓声を上げた。
その光景を見つめながら、老人は静かに言う。
「見えますか、局長。」
トワは頷く。
「はい。」
「町が……少しだけ息をしている。」
白紙の本が静かに開いた。
記憶地点 星見町
消失率 一九%
昨日より、ほんの少しだけ数字が下がっている。
アオイが目を見開いた。
「戻っています。」
「どうして……?」
老人は微笑んだ。
「思い出とは、大きな出来事だけでは育ちません。」
「『今日は神社へ寄ってみよう。』」
「『みんなでスイカを食べよう。』」
「そんな一日が積み重なって、場所は生き続けるのです。」
その夜。
源蔵は倉庫の奥から、小さな段ボール箱を運んできた。
「これも処分しようと思っとった。」
箱を開ける。
中には祭りで使っていた蝋燭が何十本も入っていた。
少し黄ばんでいるが、一本一本丁寧に包まれている。
「一本だけ。」
トワが言う。
「灯してもいいですか。」
源蔵は静かに頷いた。
社殿の前。
小さな蝋燭に火が灯る。
ゆらゆらと揺れる、小さな炎。
それを見ていたさくらが、ふっと笑った。
「なんだか。」
「誰かが帰ってきそう。」
その言葉と同時に、山を渡る夜風が境内を吹き抜けた。
カラン――。
軒先の風鈴が鳴る。
そして、神社の石段の下で、人影が立ち止まった。
長い髪を後ろで結び、肩には大きなスケッチバッグ。
女性は境内を見上げたまま動かない。
蝋燭の灯りを見つめ、その瞳がわずかに揺れる。
「……灯り。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「まだ、ついてる。」
トワたちはまだ、その存在に気づいていない。
けれど源蔵だけは、風の向こうに誰かの気配を感じたように、ゆっくりと石段の方へ顔を向けた。
何も言わない。
ただ、昔と変わらない穏やかな笑顔で、境内に灯るたった一本の明かりを見つめていた。




