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神籍のトワ  作者: 灯野 しおん
第五章 第四部『雨音の郵便配達人』

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第106話

女性は、白い本を胸に抱いていた。


 その表情には、敵意がなかった。


 ただ、長い間ひとりで何かを待ち続けていた人のような、深い疲れがあった。


 悠がトワの袖を握る。


「この人。」


「ずっとここにいる。」


 女性は否定しなかった。


「ええ。」


 静かな声だった。


「ずっと。」


 トワは女性から目を離さない。


「あなたが、悠の本を読んだんですか?」


「……そうです。」


「どうして?」


 女性は少しだけ俯いた。


「読みたかったから。」


 あまりにも簡単な答えだった。


「それだけ?」


「ええ。」


 女性は白い本を撫でる。


「人の記憶というものが、どんなものなのか。」


「知りたかった。」


 トワは眉を寄せる。


「だから、全部読んだ?」


「はい。」


「一冊ずつ。」


「何度も。」


 女性の声には、罪悪感とも誇りともつかないものが混じっていた。


「でも。」


 彼女は悠を見る。


「私は、読み方を間違えました。」


 悠が小さく顔を上げる。


「……うん。」


「私が読めば読むほど、悠の記憶は薄くなった。」


「でも、私は止められなかった。」


 トワは白い本を見つめる。


「なぜ?」


 女性は、しばらく黙っていた。


 やがて。


「私も。」


「忘れたくなかったから。」


 その言葉に、トワは何も返せなかった。


 女性は一歩だけ近づく。


「私には、もう誰もいません。」


「だから。」


「誰かの記憶を読んでいる間だけ。」


「人がここにいるような気がしたんです。」


 長い廊下に、静かな声が落ちる。


「笑い声。」


「泣き声。」


「誰かを呼ぶ声。」


「朝の挨拶。」


「夕食の匂い。」


「そういうものが、本の中には残っていた。」


 女性は微笑む。


 けれど、その笑顔は寂しかった。


「だから。」


「もっと読めば。」


「もっとたくさんの人に会えると思ってしまった。」


 トワは、ようやく理解した。


 彼女は記憶を奪おうとしたのではない。


 寂しさを埋めるために、他人の物語へ入り込んでしまったのだ。


 悠がぽつりと言う。


「でも。」


「ぼくのおじいちゃんが消えちゃった。」


 女性の顔から笑みが消える。


「……ごめんなさい。」


 初めて、はっきりと謝った。


「本当に。」


 悠は俯いた。


「返して。」


「うん。」


 女性は頷く。


「返したい。」


 そして白い本を差し出した。


「でも。」


「私には、もう戻せない。」


 トワは本を受け取る。


 表紙を開く。


 何もない。


「だから。」


 女性が言う。


「あなたに読んでほしい。」


「俺に?」


「ええ。」


「私ではなく。」


「誰かに。」


 トワは本を見つめた。


「読めば、戻るんですか?」


「分かりません。」


 女性は首を横に振る。


「でも。」


「誰かが受け取ってくれれば。」


「記憶は、ただ消えるだけではないと思うんです。」


 悠がトワを見上げる。


「……お願い。」


 小さな声だった。


「ぼくのおじいちゃんを。」


「もう一度、読んで。」


 トワは頷いた。


「分かった。」


 本を開く。


 白紙だったページに、淡い光が差した。


 一枚目。


 海。


 二枚目。


 朝顔。


 三枚目。


 縁側。


 四枚目。


 夏祭り。


 けれど、写真の中央には、いつも小さな空白がある。


 誰かがそこだけ切り取ったように。


「……どうして?」


 トワが呟く。


 女性が答えた。


「その人の記憶を。」


「私が何度も読んだから。」


 悠が目を閉じる。


「違う。」


「え?」


「それだけじゃない。」


 少年は本を覗き込む。


 そして、あるページを指差した。


「ここ。」


 そこには、海辺の写真。


 老人が少年の肩へ手を置いている。


 けれど、二人の間だけが白く抜け落ちている。


 悠は静かに言った。


「ここには。」


「ぼくの言葉があった。」


「どんな言葉?」


 少年は考える。


 眉を寄せる。


 思い出そうとする。


「……分からない。」


 涙が一粒、ページへ落ちた。


 その瞬間。


 白紙だった場所に、文字が浮かび上がった。


また来よう。


 悠が息を呑む。


「……あ。」


 さらに一行。


来年も、一緒に海を見よう。


 悠の目から、涙が溢れた。


「そうだった。」


「ぼく。」


「そう言った。」


 女性も泣いていた。


 トワは静かにページを閉じる。


「戻ったんじゃない。」


 女性が顔を上げる。


「悠自身が思い出したんだ。」


 その言葉に、女性は目を閉じた。


 長い沈黙のあと。


「……そうですね。」


 その瞬間だった。


 廊下の本棚が、一斉に淡く光り始めた。


 遠く。


 さらに遠く。


 何千冊もの本の背表紙に、小さな文字が浮かんでいく。


 名前。


 場所。


 約束。


 笑顔。


 ありがとう。


 そして、女性の手にあった白い本の表紙。


 そこにあった一文字。


 零。


 その文字が、ゆっくり消えていく。


「第零書架って。」


 トワが呟く。


「何なんですか?」


 女性は、初めて穏やかに笑った。


「始まりでも。」


「終わりでもありません。」


 そして、廊下の一番奥を指差す。


「まだ誰にも読まれていない物語が集まる場所です。」


 その先には。


 今まで見えなかった、一枚の扉があった。


 扉には、題名がない。


 ただ。


 小さな文字が一つだけ刻まれている。


次頁


 悠がトワの手を握る。


「行く?」


 トワは少年を見た。


 そして、静かに頷いた。


「うん。」


 扉の向こうから。


 まだ誰にも読まれていない物語の気配がする。


 ページをめくる音。


 遠い誰かの笑い声。


 泣き声。


 風の音。


 そして――。


 まだ名前さえついていない、ひとつの物語。


 トワは扉へ手を伸ばした。


 今度は、誰も止めなかった。


 次の一頁が、静かに開こうとしていた。

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