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母を救うたび、母を忘れる

作者: 鴻鵠
掲載日:2026/03/26

母の手術代は、私の記憶()個分だった。


病院の会計窓口でそう言われたとき、私は聞き間違いだと思った。

けれど受付の女は、保険証の隣に「記憶提供同意書」を静かに置いた。


「最近は珍しくありません。記憶を映像化して配信プラットフォームに提供するんです。反響が大きいほど、治療費が補助されます」


反響。

ずいぶんきれいな言い方をするな、と思った。


要するに、他人の感動で母は延命される。


母は肺の奥に影を飼っていた。

それは半年で母の呼吸を奪い、笑うたびに咳を混ぜ、階段ひとつで季節を越えたみたいに疲れさせた。


「やめなさい」と母は言った。

「思い出まで売ることない」


でも私は、うなずかなかった。

母が眠ったあと、病院のロビーで同意書にサインした。


最初に売った記憶は、六歳の運動会だった。


朝五時から母が作ってくれた弁当。

卵焼きは少し焦げていて、ウインナーはタコの足が一本ちぎれていた。

私が「かわいそう」と言ったら、母は笑って、足の足りないタコを自分の口に放り込んだ。

きれいにできたほうだけ、私の弁当箱に詰めた。


その記憶は、三日で二百万回再生された。


《泣いた》

《お母さん、助かってほしい》

《こういうのに弱い》

《朝から涙止まらん》


コメントが増えるたび、母の点滴の種類が増えた。

薬は高くなり、呼吸は少しだけ楽になった。


そして私は、焦げた卵焼きの匂いを思い出せなくなった。


動画で見れば、たしかにそこにある。

若い母の手、赤い弁当箱、笑っている小さな私。

でも、それだけだった。

それはもう私の思い出じゃなくて、みんなの見る映像になっていた。


二つ目は、停電の夜。

三つ目は、入学式の朝に髪を結んでもらったこと。

四つ目は、熱を出した私の額に、母の冷たい手がずっと乗っていた夜。


売るたびに、母は一週間、十日、また一か月と生き延びた。

売るたびに、私は母の輪郭を失った。


ある日、母が私に聞いた。


「真昼、あんた、お父さんの声、覚えてる?」


答えられなかった。

父がどんな声で笑う人だったのか、もう思い出せなかった。


母はそのとき初めて、私の前で泣いた。


「もうやめよう」

「嫌だよ」

「私のために、あんたが空っぽになるのは違う」

「生きててよ」


それしか言えなかった。


母はしばらく黙って、それから笑った。苦い薬みたいな笑い方だった。


「バズるって、嫌な言葉ね」

「……うん」

「でも、あんたが小さい頃、なんでも私に見せたがったのは好きだった」

「今は、みんなに見せてる」

「そうね。ずいぶん遠くまで行っちゃった」


次の診察で、医者は言った。

手術の順番が繰り上がった、と。

ただし今週中に、保証金が必要だ、と。


足りない分を埋められる記憶は、ひとつしか残っていなかった。


「核記憶」と、担当者は呼んだ。

本人の人格を支える中心の記憶。

いちばん高く売れて、いちばん深く消える。


私は内容を見て、吐きそうになった。


それは、十歳の夏の夜だった。


塾から帰る道で、私は泣いていた。

テストでひどい点を取って、友達にも笑われて、自分が世界でいちばんだめな人間に思えた夜。

母は自転車を押しながら、何も言わずに歩いた。

家の近くの橋でだけ立ち止まって、川のにおいのする風の中で、私に言った。


「真昼。あんたは、できるから大事なんじゃないよ」

「じゃあ、なんで?」

「生まれてきたから」


そのときの母の声が、私は好きだった。

世界でいちばん、私を許してくれる声だった。


「それはだめ」


病室でデータを見せたとき、母はすぐに言った。

酸素チューブの細い音が、言葉のあとに続いた。


「それだけは、だめ」

「これで手術できる」

「できなくていい」

「そんなこと言わないでよ!」

「そんなふうに生き延びても、私、あんたに会えないじゃない」


私は立ち上がって、ベッド柵を握った。

泣いているのか怒っているのか、自分でもわからなかった。


「会えるよ。目の前にいる」

「違う」

母は首を振った。

「人は顔だけじゃないもの。積み重ねたもの全部で、誰かになるの」


私は、その日の夜に投稿した。


動画の題名は、

《この声を、私は明日忘れる》


公開してから一時間で、通知が壊れたみたいに鳴り続けた。

二時間でトレンドに入った。

三時間で、私の名前が知らない国の言葉で検索され始めた。


《お願い、手術間に合って》

《読んだだけで泣いた》

《こんなのずるい》

《助かってほしい》

《本当に実話?》

《お母さんの声、美しすぎる》


美しい。

知らない誰かがそう言うたび、私の中からその声が薄くなっていった。


午前二時、必要額に達した。


手術は成功した。


女性が目を覚ましたのは、三日後だった。

私は花を買って病室に行った。白い花がいいと思った。理由はわからない。


その女性はベッドの上で、やせた顔をこちらへ向けた。

酸素チューブはもう外れていた。

息をするたび、胸がちゃんと動いていた。


よかった、と思った。

本当に、よかったと思った。


なのに、その人を見ても、何も起きなかった。


泣きそうになるほど優しい目をした、知らない女の人がいた。


「……どちらさまですか」


言った瞬間、病室の空気が止まった。


花束を持つ手が急に重くなった。

女の人――たぶん、私が助けたかった人――は、まばたきを一度だけして、それから微笑んだ。


泣くのを、こらえるみたいに。


「そっか」

その人は小さくうなずいた。

「手術、間に合ったんだね」


私は説明を聞いていたはずなのに、頭が真っ白だった。

看護師が何か言っていた。

私はずっと、目の前の女の人の笑い方だけを見ていた。


その人は私に向かって、はじめて会う人みたいに丁寧に言った。


「はじめまして、真昼」


どうしてだろう。

その呼ばれ方だけで、胸の奥がひどく痛んだ。


退院の日、私はその人の車椅子を押していた。

春の風が病院の自動ドアから流れ込んで、紙みたいに薄い日差しが床に広がっていた。


その人が、ふいに歌い出した。


知らないはずの歌だった。

短くて、やわらかくて、眠る前の部屋みたいな旋律。


でも私は、次の一節を知っていた。


自分でも驚きながら、続きを歌った。


その人が振り向く。

私は歌いながら泣いていた。

なぜ泣いているのかわからなかった。

ただ、その歌を最後まで歌わないと、何か大切なものが本当に世界から消えてしまう気がした。


歌い終わるころ、その人も泣いていた。

私たちは病院の玄関で、知らない者同士みたいに向かい合って、それでも同じ歌の余韻の中にいた。


思い出せない。

もう、ひとつも戻らないのかもしれない。


それでも、その人の涙を見たとき、私は確信した。


私はきっと、この人にちゃんと愛されていた。


記憶は消えても、愛はときどき、歌になって残る。

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