第六話 知識が拓く、誰も支配されない明日
「……違います。その積分定数 $C$ を忘れるという怠慢は、国家予算から一億エスクードをドブに捨てるのと同義だと、何度言えば理解できるのですか、エリック『元』殿下」
「ひ、ひいいっ! す、すまないアネモネ先生! だが、この公式の美しさに目を奪われて、つい……!」
かつて豪華絢爛な舞踏会が開かれていた王宮の大広間は、今や「国立シュルツブルク・アカデミー」の第一講義室へと変貌していた。
教壇に立つ私の前で、脂汗を流しながら数式と格闘しているのは、かつて私を「勉強しかできない女」と罵り、追放した元婚約者・エリックだ。
彼の隣では、元国王グスタフが算数ドリルを広げ、「繰り下がりのある引き算」に苦戦して涙を流している。
さらにその奥では、異端審問官だったマルファス枢機卿が、化学反応式の実験に失敗して顔を真っ黒にしながら「これも神の試練か……」と呟いていた。
支配者階級が知性を得た民衆に完敗し、王国が「論理合衆国」へと移行してから一年。
この国から「身分」という不確かな概念は消え、代わりに「学力」と「論理的貢献度」という、極めて透明性の高い指標が社会を動かしていた。
「いいですか。あなたたちがかつて誇っていた『血筋』や『権威』は、数学的には単なる定数に過ぎません。しかし、知識は変数です。努力によって無限に拡張し、世界の解像度を高めることができる。――それを放棄した者は、二度とこの国の意思決定には関われません」
私が冷たく言い放つと、元貴族たちは一斉にペンを走らせる。
彼らは今、ようやく気づき始めていた。
他人を無知の檻に閉じ込めて支配するよりも、自分たちが世界の理を理解し、正しい答えを導き出す方が、遥かに知的興奮(報酬)に満ちているということに。
*
放課後。私はかつての辺境、今は「知の聖地」と呼ばれるようになったナラク村を訪れた。
かつての痩せた土地は、今や緑豊かな農地に変わっている。
そこでは、村の子供たちがタブレット状の計算板を持ち歩き、最新の気象統計に基づいて収穫時期を議論していた。
「先生! 見てください! 今年の小麦のタンパク質含有量、予測値との誤差が〇・〇二パーセント以内に収まりましたよ!」
かつて泥だらけで「1」の文字をなぞっていた少年が、誇らしげに報告してくる。
私は彼の頭を撫で、眼鏡をクイと上げた。
「素晴らしい。統計学的優位性が証明されましたね。これなら隣国との交易においても、圧倒的な価格交渉権を維持できるでしょう」
村の広場では、かつての「文字も読めない農民」たちが、コーヒーを片手に経済新聞を読み耽っている。
そこには契約詐欺も、不当な搾取も存在しない。
全ての取引は論理的に検算され、不正が入り込む余地は、民衆の知性によって即座に修正されるからだ。
情報の価値が、暴力の価値を完全に上回った世界。
それが、私がこの世界に施した「再計算」の結果だった。
*
夕暮れ時。私は村の丘の上に建つ、小さな図書室の窓辺に座っていた。
目の前には、世界中から届いた手紙の山がある。
『隣国の王ですが、我が国の腐敗した会計システムを解体してほしい』
『教会の教義に科学的矛盾を発見しました。共同研究をお願いします』
『勉強なんて大嫌いだったけど、先生の教科書を読んで初めて「空が青い理由」がわかりました。ありがとう』
最後の手紙を読み終えた時、私の頬を心地よい風が撫でた。
「勉強しかできない」と馬鹿にされた私の知識は、今や何百万人もの人生を照らす光となっていた。
「……アネモネ先生、少し休憩しませんか?」
声の主は、ドランだった。彼は今や、国の物流を統括する最高責任者(COO)として、かつての野蛮な風貌からは想像もつかないほど知的な雰囲気を纏っている。
「ドランさん。休憩の機会費用を計算したことはありますか? 私がペンを休める一分間で、この国の知の総量は――」
「はいはい、先生。その屁理屈も、もう『既知のデータ』ですよ。今日は収穫祭です。村の皆が、先生が教えてくれた『発酵の化学反応』を最大限に活かした、最高に美味しいパンとエールを用意して待っています」
私はふっと息をつき、手の中のペンを置いた。
論理的ではない。しかし、この胸の高鳴りを説明する数式を、私はまだ持っていない。
「……仕方ありませんね。コミュニティの親睦による社会的資本の増大は、長期的には生産性を向上させるというデータもあります。一時間だけ、付き合いましょう」
「ははっ、相変わらず可愛くない先生だ」
ドランに導かれ、広場へと向かう。
そこには、松明の火に照らされた笑顔が溢れていた。
文字を覚えた喜び、数字を操る楽しさ、そして、誰にも騙されない自由。
それらを手に入れた人々が、自らの知性を謳歌する声が夜空に響く。
私はふと、夜空を見上げた。
星々の瞬きさえも、今は天体物理学の美しい法則として私の脳内に記述される。
「殿下、陛下。……そして、かつての私を蔑んだ全ての人たちへ」
私は、手に持ったインクの香りが染み付いた指先を見つめる。
「無知は檻でしたが、知識は翼でした。私はこれからも、このペン一本で、この世界のバグを潰し続けます。……誰もが自分の人生を、自分自身の頭で計算できる、その日まで」
新しい世界の幕開け。
それは、英雄の剣戟ではなく、一人の女が黒板に引いた、たった一本の「等号」から始まった。
私は再び、満足げに眼鏡を押し上げた。
――さて、明日の授業の予習を始めましょうか。
世界には、まだまだ「正解」を待っている問題が、山積みになっているのですから。
「勉強しかできない女」の革命。
その解答集は、まだ書き終えられたわけではない。
これから、この国の全ての民が、自分たちの手で続きを書き記していくのだ。
知識という名の、最高の「ざまぁ」を込めて。




