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第三話 禁じられた「思考」の伝染



「……惜しいですね、ドランさん。あと三秒早く、その摩擦係数を計算できていれば、荷車の車輪が焼き付く前に停止の判断ができたはずです。はい、ペナルティとして『慣性の法則』を百回書き取ってください」


「ひ、ひいぃ……先生、勘弁してくれ! これじゃあ畑を耕すより手が痛えよ!」


 ナラク村の広場は、今や巨大な「屋外教室」と化していた。

 かつて死んだ魚のような目をしていた村人たちは、今や「なぜ?」「どうして?」という知的好奇心の猛毒に侵され、四六時中、計算式を呟きながら生活している。

 彼らにとって、知識はもはや単なる教養ではない。

 不当な搾取を跳ね除け、効率的に稼ぎ、そして何より、自分たちをバカにしていた都会の連中を「知能」で出し抜くための、最高の娯楽ドラッグなのだ。


「いいですか、知識は重さを持ちません。どれだけ詰め込んでも、逃げるときに足が遅くなることはありません。むしろ、あなたの足を速くするガソリンになる。それを忘れないでください」


 私が眼鏡をクイと上げ、次の演習問題を出そうとした時だった。


 村の入り口から、重厚な鐘の音が響き渡った。

 馬車を先頭に、白い法衣を纏った集団が現れる。

 その胸には、この国の国教である「聖光教会」の紋章。

 中央に座るのは、冷酷な美貌を持つ異端審問官、マルファス枢機卿だった。


「……ナラク村の民よ。神を忘れ、卑しき『知恵』という名の魔道に耽っているというのは、どうやら事実のようだな」


 マルファスの声が広場に冷たく響く。

 村人たちが一斉にざわついた。教会の権威は絶対だ。

 彼らにとって、これまでの「学び」が否定されることは、死よりも恐ろしい断罪を意味する。


「アネモネ・ローゼンベルク。王都を追放された挙句、今度は神の領域に土足で踏み入るか。貴様が教えているのは、精霊の奇跡を否定する『禁忌の知恵』だ。これ以上の教育は、魂の汚染と見なし、この村ごと浄化(焚書)せねばならん」


 マルファスが手を挙げると、背後の騎士たちが松明を掲げた。

 私はゆっくりと前に出る。懐から取り出したのは、剣でも魔法の杖でもない。

 昨晩、自作した「試験管」と、いくつかの薬品の小瓶だ。


「……汚染、ですか。枢機卿、あなたの言う『神の領域』とは、一体どこまでを指すのですか? 雨が降る原理を知ることは罪ですか? 土の栄養を計算することは悪ですか? それとも……あなたがた教会の特権である『奇跡』が、ただの物理現象だと暴かれるのが怖いのですか?」


「黙れ! 奇跡は神の意志だ。人間の浅知恵で推し量れるものではない!」


 マルファスは嘲笑うと、懐から一本の銀の杖を取り出した。

 彼が呪文を唱えると、杖の先から眩いばかりの「聖なる光」が放たれ、広場の石像に触れた。

 すると、石像の目から赤い液体――「聖者の血」が溢れ出したのだ。


「見よ! これが神の怒り、聖者の嘆きだ! この不浄の地に、神が涙を流しておられる。これを見てもまだ、貴様の『知恵』とやらが勝ると言うのか!」


 村人たちが悲鳴を上げ、膝をつこうとする。

 だが、私はその「血」に一歩近づき、指で拭って匂いを嗅いだ。


「……なるほど。塩化第二鉄と、チオシアン酸カリウムの反応ですね。典型的な錯体形成反応による色の変化です」


「な……何を言っている!?」


「ドランさん! 昨日の理科の授業を覚えていますか? 特定の成分と成分が混ざると、色が変わる実験をしましたね。はい、そこの石像の目元を見て。微かな仕掛けと、反応を遅延させるための油膜が張ってあります。これは『奇跡』ではなく、単なる『化学反応マジック』です」


 私は自分の鞄から別の薬品を取り出し、石像の目にぶっかけた。

 すると、赤かった液体は一瞬で無色透明に戻り、さらにはパチパチと音を立てて消滅した。


「神の涙が、ただの水に戻りましたよ。……さて枢機卿、次は何をしますか? 空中浮遊ですか? それとも発火現象? どちらも中等課程の教科書に載っているトリックですが」


「貴様ぁっ! 神聖なる儀式をバカにしやがって!」


 マルファスの顔が怒りで赤黒く染まる。

 権威者が最も嫌うもの。それは「種明かし」だ。

 彼らが民衆を支配できていたのは、圧倒的な情報格差があったからに他ならない。

 だが、今の村人たちは、もう以前の「無知な羊」ではない。


「おい、あれ、昨日の実験と同じじゃねえか?」

「お嬢ちゃんの言う通りだ。なんだ、教会様も俺たちと同じ『勉強』をしてるだけじゃないか!」


 村人たちの間に、クスクスという笑い声が漏れ始めた。

 マルファスにとって、それは剣で突かれるよりも屈辱的だったに違いない。


「おのれ……アネモネ! この異端者め! 貴様の書いた汚らわしい本は、今日この瞬間をもって『禁書』に指定する! 所持している者は死罪だ! さあ、騎士ども、本を全て回収し、焼き払え!」


 騎士たちが村の家に押し入ろうとする。

 だが、私は高らかに笑い声を上げた。


「無駄ですよ、枢機卿。あなたは『情報』というものの性質を、絶望的に理解していない」


「何だと?」


「本を焼けば、知識が消えると思っているのですか? それは物理的な媒体に依存した旧時代の考え方です。……ドランさん、エレンちゃん、みんな! 『教科書』の第一章、冒頭を唱和しなさい!」


 その瞬間、広場を埋め尽くす村人たちが、声を一つにして叫んだ。


『知識は力なり。真理は観察によって導かれ、いかなる権威も論理の正当性を上回ることはない――!』


 地響きのような唱和。

 彼らはもう、本を読んでいたのではない。

 その内容を、脳細胞の一点一点に刻み込んでいたのだ。


「彼らは既に暗記しています。一人を殺せば、その頭の中にある知識は隣の誰かに伝染する。あなたが本を焼けば焼くほど、情報の価値は上がり、人々の好奇心は地下に潜ってより強固なネットワークを作る。……今この瞬間、この国で最も価値のある情報は、あなたの『禁書リスト』に載っている私の教えだ!」


 マルファスは震える手で私を指差したが、もはや騎士たちも動けない。

 自分たちを笑い飛ばす「知性を得た民衆」のエネルギーに圧倒されているのだ。


「……引き上げるぞ! だが覚えておけ、アネモネ。王都の王族たちが、この事態を黙って見ていると思うなよ!」


 捨て台詞を残して、教会の一団は逃げるように去っていった。

 村に、今日一番の歓声が上がる。

 だが、私は彼らを厳しく制した。


「静かに! 勝ったつもりで浮かれないでください! 今の反応、チオシアン酸の濃度が少し低かったせいで色の出方が甘かったですよ。はい、今の事象を化学式で記述し、レポートにして提出すること! 今日中に終わらなければ、明日の朝食は抜きです!」


「「「ええええええええ!!!」」」


 絶叫が響くが、その声には以前の絶望はない。

 

 その夜、私は村の外れの小さな小屋で、新しい「教科書」の原稿を書いていた。

 教会の禁書指定。それは最高のアドバタイズ(宣伝)だ。

 人間は「見るな」と言われるものほど見たくなる。

 情報採餌理論に基づけば、今の私の知識は、この国で最も「獲るべき獲物」として認識されたのだ。


「……さて、次は『法律』の授業ですね」


 私はインクにペンを浸し、不敵に微笑んだ。

 

 一方、王都では。

 エリック王子のもとに、さらに不穏な報告が入っていた。

 

「殿下、大変です! ナラク村から逃げ出した若者たちが、各地の酒場で『数字の魔法』を触れ回っています! 商ギルドの連中が、自分たちの帳簿を勝手に検算し始め、各地で暴動寸前の事態に……!」


「あのアネモネ……! たかがガリ勉女一人が、この国をどうしようというのだ!」


 エリックが叩きつけた机の上には、密輸されたアネモネの教科書の写しがあった。

 その表紙には、殴り書きでこう記されていた。


『無知はコストであり、勉強は投資である。――この意味がわからない者は、一生搾取され続けるがよい』


 文字の力によるパンデミックが、静かに、だが確実に、王国を侵食し始めていた。

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