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第二話 搾取を止める算術、学校の夜明け



「……よろしいですか、皆さん。これは『慈善』ではありません。『防衛』です。計算ができないということは、鍵をかけずに金庫を街角に放置するのと同じことだと、その脳細胞に刻み込んでください」


 ナラク村のボロ納屋。そこには、昨日まで泥にまみれて絶望していた農民たちが、目を血走らせて地面に座り込んでいた。

 彼らの前で、私は「計算尺」を指揮棒のように振り回す。


「いいか、お嬢ちゃん……いや、先生。俺たちは文字も読めねえんだ。そんな俺たちが、あの代官様に勝てるのか?」


 村一番の巨漢、ドランが不安げに尋ねる。私は眼鏡をキィと鳴らし、彼を睨み据えた。


「ドランさん。あなたは昨日、ガストンに『利息を含めて金貨三枚だ』と言われて怯えていましたね。では、元金が一枚、月利が一割、それが一年続いたら、返済額はいくらになりますか? 直感で答えてください」


「ええと……二枚くらいか?」


「不正解。複利計算コンパウンド・インタレストを舐めないでください。答えは三・一三八枚。さらに彼らは『手数料』という名の架空請求を乗せている。あなたがたが『なんとなく多いな』と思っている間に、彼らは数学という名の暴力で、あなたの人生を合法的に解体しているのです」


 私は地面に鋭い線を引き、複式簿記の概念図を描き出した。


「今日、皆さんに覚えてもらうのは『貸借対照表』の初歩です。左側に資産、右側に負債。この均衡バランスが崩れた時、誰かがあなたを騙している証拠です。いいですか、数字は裏切りません。裏切るのは常に、数字を扱えない人間の怠惰です」


 そこからは地獄の特訓だった。

 私は容赦しなかった。「勉強しかできない」という私の呪いは、今日からこの村の「祝福」に変換される。

 

「七の段を間違えた方は、今日の昼食の配分を三分の一カットします。エネルギー効率の計算上、その脳には糖分を回す価値がないと判断しますので」

「ひいっ! し、七七、四十九!」

「……発声に〇・五秒の遅延。次は〇・二秒以内に答えなさい」


 コメディのような光景だが、誰も笑っていない。彼らは必死だった。知らなければ奪われる。その恐怖が、かつてない学習効率を生んでいた。

 私は同時に、農業改革の「講義」も並行した。


「この土地が痩せているのは、呪いでも精霊の怒りでもありません。単なる窒素、リン酸、カリウムの欠乏です。特にこのエリアの土壌pHを測定したところ、強酸性に傾いています。石灰を撒き、クロバーを植えなさい。根粒菌による窒素固定……ああ、難しい言葉はいいですね。『土に栄養を食わせる』と考えなさい。計算式に基づいた施肥を行えば、収穫量は統計的に一・八倍まで引き上げ可能です」


「せ、先生……なんだか、世界がさっきより明るく見える気がするだ」


 泥だらけの少年が、地面に書いた「1+1=2」の文字を見つめて呟く。

 その瞳に宿った光。それこそが、情報採餌理論における「報酬」の獲得だ。彼らは知ることの快楽に、今、目覚めつつあった。


 だが、その平穏を破るように、村の入り口から土煙が上がった。

 昨日の小悪党ガストンではない。

 この一帯を支配する本物の「毒」、バロン・ゾグ代官が、重装騎士を率いて現れたのだ。


「……ほう。この掃き溜めで、随分と面白い遊びが流行っているようだな」


 馬上のバロンは、贅肉のついた顎を揺らし、冷酷な目で納屋を見下ろした。

 村人たちが一斉に震え上がる。かつての服従の記憶が、彼らの脊髄を支配しようとする。


「ガストンを追い返したという生意気な女は貴様か。アネモネ・ローゼンベルク。王都から追放されたゴミ屑が、農民に知恵をつけて何を企んでいる」


 私は計算尺を懐にしまい、一歩前へ出た。


「企みなど。私はただ、この国の『知的生産性の向上』に寄与しているだけです。代官様、丁度良いところに来られました。あなたが昨年発行された収支報告書、公文書館の写しを拝見しましたが……三五ページの計算に、重大な定義ミスがありますよ」


 バロンの眉がぴくりと動く。


「定義だと? この地の法は俺だ。俺が決めた数字が、この世の正解なのだ」


「いいえ。法とは、国家が国民と結んだ『定義』の集合体です。王国憲章第四〇二条、附則三項によれば、『課税対象となる純利益』は諸経費を差し引いた後の数値を指すと明文化されています。しかし、あなたの徴税法は、種籾たねもみさえも経費として認めていない。これは『定義』からの逸脱。つまり、あなたは法を運用しているのではなく、単に私的な窃盗を行っているに過ぎません」


「貴様ぁっ! 騎士ども、この女を捕らえろ! 公権力への侮辱罪だ!」


 騎士たちが剣を抜き、殺気立つ。

 だが、その時だった。


「待て」


 重く、力強い声が響いた。

 一歩前に出たのは、巨漢のドランだった。彼は震える手で、だがしっかりと、自分の「計算板」を掲げていた。


「代官様……先生の言う通りだ。俺たちが昨日まで計算できなかったのをいいことに、あんたは『五公五民』と言いながら、実際には収穫の八割を持っていってた。この板に書いてある数字が、あんたの嘘を証明してる!」


「なんだと……? 農民の分際で、俺に異を唱えるか!」


「俺たちはもう、ただの農民じゃねえ!」

 

 一人、また一人と、村人たちが立ち上がる。

 彼らの手には武器ではない。自分たちで計算し、導き出した「真実」という名の羊皮紙が握られていた。


「この村の土壌分析結果から計算すれば、来年の税収はあんたの予測を遥かに超える。だが、それはあんたに払うためじゃない。俺たちの子供が、明日も『勉強』を続けるための資金だ!」


「計算が合わねえなら、一エスクードだって払わねえぞ!」


 数十人の農民が、理論武装をして立ちふさがる。その光景は、どんな魔法よりも異様で、どんな軍隊よりも威圧的だった。

 バロン・ゾグは顔を真っ赤にし、絶句した。

 暴力で支配することは容易だ。しかし、「理解してしまった民」を力でねじ伏せるには、膨大なコストがかかる。

 無知による支配が崩壊した瞬間、統治の費用対効果コストパフォーマンスは最悪になるのだ。


「……おのれ……。覚えていろ、アネモネ! こんな真似、王都の教会や王家が許すはずがない! 貴様の知識は、この国の安寧を脅かす毒だ!」


 バロンは吐き捨てるように言い残すと、騎士たちを連れて撤退していった。

 村に、勝利の歓声が上がる。

 

 だが、私は浮かれることなく、ボロボロの納屋の入り口に、一枚の板を打ち付けた。

 そこには、震えるような文字でこう書いた。


『ナラク自由教育学校』


「皆さん、喜ぶのはまだ早いです。今の論破は、あくまで教科書の第一章に過ぎません。明日は、より高度な『行政不服申し立て』の書き方を学びます」


 村人たちが「ひええ……」と情けない声を上げる。

 しかし、その顔には、自分の人生を自分の頭で動かしているという、誇らしげな笑みが浮かんでいた。


 私は空を見上げた。

 ここでの出来事は、やがて王都へ、そして国中へと波及していくだろう。

 

「殿下、聞こえますか? あなたが捨てた『勉強しかできない女』が、あなたの支配の基盤を、数式で解体し始めましたよ」


 私は冷たく微笑み、次の授業の準備のためにペンを走らせた。

 

 数日後、王都。

 アネモネが密かに書き写して村人に配っていた「算術教本」の写しが、商人の手を経て地下市場に流出し始めていた。

 その本は、あまりに明快に「搾取の仕組み」を解説していたため、読んだ者が次々と納税を拒否し始めるという、王国史上最悪の「禁書」への階段を登りつつあった。


 王都の権力者たちはまだ気づいていない。

 一人の女が始めた「学校」が、武器を持たない革命の震源地になろうとしていることに。

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