第一話 無知の檻を壊す最初の一文字
「アネモネ・ローゼンベルク! 貴様との婚約を破棄し、この国から追放する!」
きらびやかな王宮の晩餐会。その中心で、第一王子エリックは高らかに宣言した。
彼の隣には、いかにも「守ってあげたい」という風貌の令嬢が寄り添い、周囲の貴族たちは嘲笑を浮かべて私を見ている。
「……理由を伺っても?」
私は手に持っていた「魔導経済学・中等課程」の分厚い本を閉じ、眼鏡を指で押し上げた。
エリック王子は鼻で笑い、私の胸元を指差す。
「理由だと? 貴様は『勉強しかできない女』だからだ! 魔力は空っぽ、剣を振れば自分の足に当てる。そんな女が王妃になれるはずなかろう! 本ばかり読んで何になる。知識など腹を満たさぬし、戦場ではゴミ同然だ!」
なるほど。
彼の脳内パラメーターは「筋力」と「見栄」に全振りされており、「知性」の項目は初期設定のまま放置されているらしい。
私は静かに溜息をついた。
「殿下、本は確かに腹を満たしません。しかし、毒にはなりますよ。用法を間違えれば国を滅ぼす、劇薬という名の真実に」
「ふん、屁理屈を! その腐った本と一緒に、辺境の泥でも啜っているがいい!」
こうして私は、馬車一台と数冊の本、そして愛用の「計算尺」だけを持たされ、王国最北端の「ナラク村」へと放り出された。
*
ナラク村。
そこは「地図の端にあるシミ」と揶揄されるほど貧しい場所だった。
荒れた大地、痩せた家畜。そして何より、住民たちの目が死んでいる。
「……お嬢さん、悪いことは言わねえ。ここには何もない。さっさと隣国へ逃げな」
村の入り口で座り込んでいた老人が、力なく呟く。
私は彼の手元を見た。
ボロボロの羊皮紙。そこには、役人のものと思われる殴り書きの数字が並んでいた。
「それは、今年の税の請求書ですか?」
「ああ。去年より収穫が減ったのに、税は二倍だ。代官様は『利息がついた』と言っていたが、俺たちには文字も数字もわからねえ……。言われるままに払うしかねえんだ」
私は老人の手から、その紙をひったくった。
そして、懐から計算尺を取り出す。
周囲にいた村人たちが、不思議そうに私を取り囲んだ。
「お、おい、何をするんだ」
「検算です。私は勉強しかできない女ですので、こういう不合理な数字を見ると、蕁麻疹が出る性質でして」
私は目にも止まらぬ速さで計算尺をスライドさせる。
脳内のデータベースが、王国の税法、直近の小麦の相場、そしてこの村の推定面積から算出される最大収穫量を弾き出した。
「……酷いですね、これは。統計学への冒涜です」
「ど、どういうことだ?」
「単純な算術詐欺です。この請求書、本来の税額に『存在しない手数料』が三段階で上乗せされ、さらに複利計算の公式を意図的に間違えています。本来なら、あなたがたは税を払うどころか、過払い金の返還を請求できるレベルですよ」
村人たちがざわついた。
そこへ、馬に乗った派手な衣装の男が現れる。
この地を治める代官の部下、ガストンだ。
「おい、汚ねえ農民ども! 支払いの期限だ! 払えないなら娘を差し出せ!」
ガストンは鞭をしならせ、嘲笑を浮かべる。
私は一歩前に出た。
「失礼。代官様のご使者とお見受けしますが、この請求書第4項の『精霊維持費』について、法的根拠を伺ってもよろしいでしょうか?」
「あぁ!? なんだ貴様は、小綺麗なツラしやがって」
「私はただの『勉強しかできない女』です。ただ、あなたの持っているその帳簿……左側の合計と右側の内訳が、127エスクードほど合っていませんね。どこかに隠しポケットでもお持ちですか?」
ガストンの顔が、一瞬で土色に変わった。
彼は文字も読めない農民を相手に、適当な数字を書き殴って差額を懐に入れていたのだ。
まさか、通りすがりの女が一瞥しただけで、横領を見抜くとは思っていなかったのだろう。
「き、貴様ッ! 魔術か! 文字を弄んで俺を愚弄するか!」
「魔術ではありません。算術です。三桁の足し算に魔力は必要ありませんから」
「黙れ! そんな怪しげな棒(計算尺)を振り回しやがって! おい、この女を捕らえろ! 異端の疑いがある!」
ガストンの配下たちが剣を抜く。
私は動じなかった。
村人たちの前に立ち、高らかに宣言する。
「皆さん、聞いてください! 彼らがあなたたちを支配できているのは、彼らが強いからではありません。あなたたちが『知らない』からです!」
私は近くに落ちていた枝を拾い、泥の地面に大きく「1」と書いた。
「これが『1』です。あなたたちが今日収穫したリンゴ、家族の人数、そして奪われた権利。すべてを数えるための武器です。これを覚えれば、誰もあなたたちを騙せなくなる!」
「な、何を……」
「授業を始めます。第一問。――命を不当に奪おうとする役人と、それを阻止するための法知識。どちらが重いか、天秤にかけてみましょう」
その瞬間、ガストンが私に向かって馬を走らせた。
だが、村人たちの間に変化が起きていた。
いつもなら怯えて逃げ出すはずの農民たちが、鎌や鋤を握りしめ、私の前に壁を作ったのだ。
彼らの目には、初めて「理解」という名の光が宿っていた。
「おい、お嬢ちゃんの言うことが本当なら……俺たちは騙されてたのか?」
「文字を覚えれば、あいつらを追い返せるのか!?」
「ええ。知識は剣よりも鋭く、城壁よりも強固な盾になります」
私は震える手で枝を握る少年に、優しく微笑みかけた。
「さあ、なぞってください。これが、自由への最初のステップです」
結局、ガストンたちは村人たちの気迫に押され、捨て台詞を残して逃げ帰っていった。
一時的な勝利に過ぎない。明日には代官の本隊が来るだろう。
だが、村人たちの顔に、もう絶望はなかった。
私は村の広場にある、今にも崩れそうな納屋を見上げた。
「ここを、学校にします」
勉強しかできない女が、世界をひっくり返す。
そのための「最初の授業」が、今、始まったばかりだった。
――数日後、王都。
エリック王子は、辺境から届いた「ある報告」に顔をしかめていた。
「……ナラク村の税収がゼロになっただと? それどころか、役人が法律違反で訴えられた? どういうことだ、あの無能な農民どもが文字を書けるはずが――」
王子の机の上には、アネモネが書いたとされる「通告書」が置かれていた。
そこには、王国の法律を完璧に引用した、美しくも冷徹な断罪の言葉が並んでいた。




