侯爵令嬢ヤルミナス・ルロンパーは未来を憂う
少しだけ温かさを感じるようになってきたが、春の夜会はまだ少し肌寒い。
それでも社交界の若き華たちは王立学園の広間に集い、食事やダンスを楽しみながら歓談を続けていた。
そんな歓びの場を乱す声が響く。
「侯爵令嬢ヤルミナス・ルロンパー。貴様は我が真実の愛の相手、子爵令嬢ヨランダ・アライテルに対し、学園内で卑劣な暴言と陰湿な嫌がらせを繰り返した。その悪行、最早看過できぬ。よって、ここに貴様との婚約を破棄する!」
第一王子ユリウスの鋭い声が響くと、楽しんでいた若者たちは一瞬にして凍てついたかのように静かになった。まるで冬に戻ったかのように。
ユリウスがヤルミナスへと向ける冷酷な眼差し。
それを見れば第一王子の心まで見えそうだ。
その視線は第一王子の傍らで王妃教育に耐えてきた婚約者に向けられたものとは思えない。なんという冷たい視線だろうか。
ヤルミナス・ルロンパー侯爵令嬢は、その瞬間、ゆっくりと首を傾げた。それだけ。
ヤルミナスがユリウスへと向ける無感情な眼差し。
それは無関心に近いナニカだ。
こちらの視線も……婚約者である第一王子に向けられるべきものではなかった。なんという感情の乏しい視線だろうか。
この二人、まさにお互いさまである。
それぞれが側近として何人かを引き連れているため、目立つ。目立ちすぎる。
その周囲の貴族たちはまるで観客のようだ。本当に芝居ならいいのに、と貴族たちは思った。絶対に違うと知っていたけれど。
「婚約の破棄については……わたくしに決められることではないので返答致しかねますわ、殿下」
ヤルミナスの返答はあまりにも静かに行われたので、まるで何も言っていないかのようだった。
その不思議な感覚に、夜会に集った何人も貴族たちは寒気を感じた。
言っていることは正しいとしか表現できない。そのままである。ヤルミナスには決められないのだろう。
彼女は侯爵令嬢であって侯爵ではないし、この婚約はそもそもの話、王命によって決まったものだったのだから。
常識的な判断。
それはそうとしか言えない。
しかし、第一王子のユリウスはもっとたくさんの情報を垂れ流していたはずだ。
その点……つまり、婚約の破棄だけについて答えればよいという話ではなかった。貴族たちはそう思った。
ユリウスは苛立った。もっと取り乱して顔色を変えると考えていたからだ。婚約破棄という重大な話をしているというのに。
ユリウスの腕には、大きな瞳を潤ませ、か弱く彼に寄り添うヨランダ・アライテル子爵令嬢がいる。
ヨランダの演技は完璧で、その小さな体は恐怖に震えているように見えた。
「何を言うかと思えば、それだけか! 貴様の悪行はすでに衆目の知るところだぞ。ヨランダがどれほど苦しんだか、少しは理解しているのか! 見よ! このように震えて!」
「はて?」
ヤルミナスの返答は短かった。
二文字だけなのか、と貴族たちは思った。心の声はそろっていただろう。誰も口にしないだけで。
「はて、とはなんだ!? 何かもっと言うべきことがあるだろう!」
その言葉に貴族たちは心の中でうなずいた。それはそうだ、と。
二文字ではあまりにも短すぎる。
だからといって、ユリウスの味方という訳ではなかったけれど。共感したのは短いという点のみだ。
「ヤルミナス・ルロンパー! 貴様の卑劣な暴言と陰湿な嫌がらせについての話だ! 何も弁明がないというのならここで貴様を断罪する!」
「弁明、でございますか? わたくしが言えることは『何もしておりませんが?』ということでしょうか?」
「ほほう? 何もしておらぬと申すか。ならばここで証拠を突きつけてやろう!」
ユリウスが自信満々にそう言った。
すぐ後ろに控えるローディ・クモナ侯爵令息がお盆の上に置かれた物をユリウスへと恭しく差し出した。
ユリウスはそれを手に取り、高く掲げた。
「ここに落書きをされた上に破られた教科書がある! これはヨランダの教科書だ! 貴様が破った証拠がこれだ!」
「はて?」
また二文字だ。貴族たちはそう思いながら、でもそれは仕方がないかもしれないと今回は納得した。
「いい加減にしろ!? 話す気があるのか!?」
「では、失礼して、お答えいたします、殿下」
「あ、あるのか……」
「はい。それは落書きされた証拠、破られた証拠だとしても、誰がそうしたのか、という部分では証拠になっておりません。まして、わたくしがやったなどとは……」
「なっ……これを突きつけてもなおそのようにとぼけるとはこの恥知らずが!?」
いや、ヤルミナスの方がユリウスよりも正しい。貴族たちはそう思った。
確かに教科書はぼろぼろになっている。だからといって、それをヤルミナスが破ったという話にはならない。
「貴様がこの可愛いヨランダに嫉妬してやったのであろうが!」
ユリウスは叫んだ。
ヤルミナスは何も反応をしなかった。冷たい。いや、無感情か、もしくは無関心か。
貴族たちは思った。それは無理がある、と。
最初からずっとヤルミナスは『殿下』とだけ呼んで、一度たりとも『ユリウス殿下』とは口にしていない。
これまでの学園生活でも、ユリウスの堂々とした浮気を気に留めることすらなかった。
どこからどう見ても、ヤルミナスはユリウスを愛していない。その視線の冷たさを貴族たちは知っている。これはまごうことなき政略による婚約である。
どこをどう見れば嫉妬しているという話になるのか……。
まだ、未来の王子妃の立場を奪われそうだから、という理由の方がマシだった。残念ながらそれすらもヤルミナスにはないように見えるけれど。
「……証拠はないようですので話は終わりでしょうか、殿下?」
そうだよね、その通りだと貴族たちも思った。証拠として信用できるものは提示されなかった。
「まだある!」
自信満々に再びユリウスは叫んだ。
「貴様がヨランダに暴言を吐いたという証拠がな!」
勝ち誇るように胸を張るユリウス。
次の証拠には自信があるらしい。
いや、証拠になっていないものを証拠だと思っているだけかもしれない。貴族たちはそんな不安と、この国の将来への不安を同時に抱いた。
「リウーギラ」
「はい。こちらに」
にやりと笑うリウーギラ・ワルノモ伯爵令息が、別の男を連れて前に出た。
その男はラリーギ・ルウラギー男爵令息だった。
こいつら名前がなんか似てるな、と貴族たちは思った。
ルウラギー家は、代々ルロンパー侯爵家の寄子として財政的、政治的援助を受けてきた家柄だ。
「ヤルミナス、貴様をよく知る者、貴様が信を置いていた者からの証言だ! よく聞くがいい!」
ラリーギは顔を青くしながらも、早口で証言を始めた。
「私は、ヤルミナス様がアライテル令嬢に『平民上がりの賤しい女』と罵声を浴びせるのを聞きました……また、彼女のドレスをわざと汚すよう、下級使用人に命じている姿も、遠くからですが、見てしまいました!」
「ラリーギよ! よくぞ真実を語ってくれた!」
ユリウスは興奮した。
これは完ぺきな証拠だと、これでヤルミナスの罪は明らかだと口の端を歪めてユリウスは笑った。
「はて?」
「貴様! またそれか! いい加減にしろ!」
「では、こちらも……誰か、証言を頼みます」
「はい、ヤルミナスさま。私が」
「レイナラ・ギウ子爵令息、よろしく頼みますわ」
レイナラは半歩だけ前に出ると、ユリウスを見つめた。
「私はヤルミナスさまがそちらの女性をいじめたところも、罵ったところも見たことはありません。もちろん、下級使用人にドレスを汚すように命じたところも見ておりません」
実に堂々とした姿で、レイナラはそう言った。
「だからなんだ! そいつは貴様の取り巻きで、しかも侯爵家の寄子のひとつではないか!」
「……そちらが証人による証言を証拠となさいますので、こちらも証人による証言をしただけにございます。どうして殿下の証人の証言は正しく、こちらの証人の証言は間違っていると?」
「それは! 寄子に命じればどのような証言でもできるではないか!」
「確かにわたくしは侯爵家の娘。寄子に対する影響力は強いでしょう」
「認めたな!」
「しかし、殿下はこの国の王子であり、王族ですわ。寄子にしか影響力がないわたくしと違って、この国の民はもちろん、貴族たち全てに影響力をお持ちではございませんか。証言など何の証拠にもなりはしませんが?」
「なっ……」
ユリウスは反論しようとして、言葉に詰まった。自分にはそのような影響力などない、という言葉は言えない。王子であり、王族であるというのはただの事実だ。それに自分の影響力がないなどと口にしたくはなかった。
そこでわずかに動いたのはリウーギラだ。
ユリウスにこそこそと耳打ちをした。
ユリウスはその言葉にうなずき、ヤルミナスをにらんだ。
「確かに王子として、王族としての影響力はあるだろう。当然のことだ。だが、重要なのはこちらの証人がルロンパー侯爵家の寄子だということだ!」
「それが、何か?」
「ふん。ルロンパー侯爵家に逆らうような証言をするということ、それが全てだ! 勇気ある証人が嘘をつくはずがない! 貴様に従う寄子の発言と同列に語るな! ラリーギの証言は正義の言葉だ!」
ユリウスはヨランダの涙の訴えもあり、ラリーギの証言を真実だと思っていた。
だが、ラリーギはユリウスの側近の一人であるリウーギラ・ワルノモ伯爵令息による買収によって偽証していたにすぎない。
ユリウスの後ろでリウーギラは意地の悪い、挑戦的な笑みを深めた。
ヤルミナスはちらりとリウーギラを確認し、扇で口元を隠した。それからラリーギに目を向けると、静かに口を開いた。
「つまり殿下は……ルウラギー男爵令息が心の底から正義のために証言をしている、と。そうお考えなのでございますね?」
ユリウスへの言葉だが、ヤルミナスの視線はラリーギへと向けられている。
ラリーギは少し足が震えた。なぜなら、正義のためなどではなく、買収されているからだ。
しかし、ユリウスはラリーギの証言を信じていた。
「当然だ! さっきも言ったが繰り返す! ラリーギの言葉は正義の言葉だ!」
自信満々という顔で、ユリウスは言い切った。2回も言うだけの自信があったのだろう。
貴族たちは思った。
たぶん、ヤルミナスにハメられつつあるな、と。
改めて確認するということは、きっちり言質を取ろうとしたのだろう、と。
やはりこの国の将来は……心配だなぁ、と……。
ヤルミナスは広間を見渡し、貴族たちも含めて語りかけた。
「なるほどそれが真実であるのならば……」
ヤルミナスの視線は貴族全体からユリウスとその側近たちに向けられる。
「……ルウラギー男爵家は我が侯爵家の傘下を離れ、独立独歩の道を進むということですね? 当然、そちらのクモナ侯爵家やワルノモ伯爵家の寄子となって派閥を乗り換えることもなく、殿下の側近として近侍することもなく?」
「何を言っている? 勇気あるラリーギはこの私の側近にふさわしい男だ!」
「それは大きな利益ではございませんこと? 殿下の側近になれるというのであれば、どのような証言でも致しますでしょうに。何しろ、殿下はこの国の王子なのですから」
「だから……」
「だから、先ほどの証言が正義の言葉であるのなら」
ヤルミナスはここぞとばかりにユリウスの言葉を強引に遮った。
「殿下の側近になるというような格別な、それはもう別格の利益を求めず、もちろん殿下の側近であるお二方の家の派閥へと乗り換えることもなく……この国のために正義の道をただ一人で進むというのがあるべき姿ではございませんこと? ねえ、みなさん?」
いや、このタイミングでこっちに振らないでほしい。貴族たちの心の声はそろった。
あと、この王子の側近になるのは苦労する未来しか見えないから、ヤルミナスは堂々と嘘をついてるとも思っていた。
いつの間にか正義の男になっていたラリーギは背中に汗をかいていた。大量に。
まずい。とんでもなくまずいことになってきた。でも、どうすればいいのか分からない。そういう状態だった。
「誰からの利益も得ることなく、ただ真実を話す。それならば彼の……ルウラギー男爵令息の言葉は真実、正義の言葉となるでしょう。そして、ルウラギー男爵家は正義の家として伝説となることでしょう」
ユリウスは何を言い返せばいいのか、分からなかった。
リウーギラも困っていた。
まさに彼は……ルウラギー男爵家をワルノモ伯爵家の寄子として派閥を乗り換えさせ、ユリウス王子の側近へと取り立てるように手を打っていたのだ。男爵令息が王子の側近など大出世なのだ。
買収、それはリウーギラが見つけた光。ユリウスのための希望。
側近、それはふれあいの立場。幸せ(側近限定)のピンクな想い。
しかし、この場でラリーギが正義の言葉を口にした勇者とされた場合、ワルノモ伯爵家の寄子にすることはできない。
後から寄子にしてしまえば、やっぱりそういう取引をしたからではないかと言われるだけなのだ。
それではこの場でヤルミナスに冤罪をかけることができたとしても、それは冤罪だったと吹聴するようなものだ。
「みなさんもよくお聞きになって。この先、何があろうともルウラギー男爵家は正義の家として独立独歩の道を歩むのです。いかなる貴族家の援助も、いかなる商人の援助も、当然ですけれど王家やまた国庫の援助さえ受けることなく……ただ正義を貫く家としてこの国の中に。そのような尊敬できる家となるのですから」
それはまずい。まずすぎるとラリーギは震えた。
しかし、ユリウスは別の意味で震えた。
なぜならユリウスはラリーギの証言が真実だと思っていたからだ。
なんという素晴らしい正義だろうか。それを貫くことの難しさ。感動しかない。
そう。ユリウスは感動に震えていたのだ!
「素晴らしい! 素晴らしいぞラリーギよ! そなたの家は……ルウラギー男爵家はまさに正義の家だ! 我が側近となることはそなたの正義を穢すことになる。ああ、そなたのような男を側近にしたかった!」
ラリーギはちらりとリウーギラを見た。
リウーギラはさっと目をそらした。ラリーギは絶望した。側近になるはずが……。
「では、この広間にいるみなさんが証人でございます。正義の家ルウラギー男爵家をみなで称えましょう。この先、先日の大雨で流された橋が再建できなかったとしても……この秋の収穫が絶望的だったとしても……ここにいるみなさんが知っています。正義の家ルウラギー男爵家は一切の援助を受け取らないということを」
その援助をリウーギラのワルノモ伯爵家から受ける予定になっていたのだ。それなのにリウーギラは目をそらした。だからこそのラリーギの絶望だったのだ。
「何? そのようなことがあったというのにラリーギは! なんと素晴らしい男か! そのような状況では寄親たる侯爵家を頼らざるを得ないというのに! いや、ならば王家からでも……」
「それは正義の家に対する侮辱でございます、殿下」
冷たい視線をユリウスに向けたヤルミナスがそう言った。
「う、うむ……そうであったな……」
「そうですとも。我が家も男爵からの要請で昨日、援助の話をまとめましたけれど、今夜は寮ではなく侯爵家へ戻り、ルウラギー男爵家への援助はいらぬと父に必ず伝えましょう。そしてルウラギー男爵家に援助する家や商人がいないか、我が侯爵家がしかと目を配ろうと思います。王国の正義の家のために」
正義のためなどではない。裏切った寄子の男爵家を潰すためだ。ユリウス以外の貴族たちはみんな理解していた。もちろん、ルウラギー男爵家を助けたらルロンパー侯爵家を敵に回すということも。
「お、おお、おおお……お許しを~~~~~」
そう情けなく叫んで飛び出したのはラリーギだった。
それも、ヤルミナスの前へ、だ。ユリウスやリウーギラではなく。
「あら、どうかなさいましたか、ルウラギー男爵令息?」
「全ては! 全てはワルノモ伯爵令息が我が家を援助するからと! 証言すれば橋の復旧の全てを任せてほしいと! そう言われて!」
「き、ききき、貴様! そのような偽りを!?」
大量の涙と汗にまみれたラリーギの叫びに対して、説得力に乏しいリウーギラの慌てっぷり。
うん。裏取引していたんだね。貴族たちの心の声がまたそろった。
「そのような演技はよろしいのです。この婚約は王命ですもの。改めて全てを国王陛下の前でつまびらかに確認すると致しましょう」
そう言い残して、ヤルミナスは立ち去った。
正しく寄子としてそばにいた者たちと共に……。
これは、えぐい。そう思った貴族たちと……。
何が起きたのかまだ理解できていないユリウスがその場に残されたのだった。
その日からしばらくして……ひとつの男爵家とひとつの子爵家が消え、とある伯爵家が男爵家へと変わり、まだ14歳になったばかりの第二王子が立太子したのだった。
「……正義が認められないなんて、この国の未来が心配だわ」
そのヤルミナスのつぶやきに、寄子の子どもたちは困ったように微笑んだ。
そんなことより新しい婚約者をどうするのか、そっちを心配してほしい、と。
相生蒼尉、勝手に秋の短編祭りにお付き合い頂き、ありがとうございました。
これが最後の8作品目となります。
また、
他にも長編作品があるので、おヒマだったら眺めてみてもらえるとうれしいです!
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