ほんの少し、だけれど
「どうして小柳さんは私のこと気に掛けてくれるの」
氷雨さんはふいに言った。
「なんでだと思います?」
私はいたずらっぽく笑った。
「えー何だろう。…私が、この前飴をあげたことを気にしてるとか?」
「いえ、違います」
私は体を向き直し、前を向いて話した。
「私、この仕事で初めて接客業を体験したんです。やる前は、お客さんへの対応には不安なんてありませんでした。きっと私でも何とかなるだろうって。だけど、全くそんなことはなかった。想像と現実のギャップに悩まされることもよくありました。人間って嫌な生き物だな、とか考えたこともあったり」
顔を上げ、氷雨さんの顔を見ながら続ける。
「でもその考えを、氷雨さんは覆してくれたんです」
氷雨さんは驚いたように目を見開いた。
「えっ?私が…?」
こくん、と頷いた後、私は事の詳細を語った。
「ある時、私はおじいさんに商品の場所を聞かれたんですが、疲れていた時で頭が回らず、すぐ答えられなくて。それでも、数十秒くらいだったはずです。そうしたら、おじいさんにひどい言葉を吐き捨てられました。私がびっくりして何も言えずにいたら、氷雨さんが、おじいさんに声を掛けてくれたんですよね。『おじいさん、深呼吸しましょう、って』」
「そんなことあったっけ?」
氷雨さんは思い出せないのか、目をつぶってうーん、と呟く。
「また怒りそうになるおじいさんを上手く巻き込んで、一緒に深呼吸したんですよね。『深呼吸にも、ちゃんとしたやり方があるんですよ』って言って、教えながら。そうしたら、おじいさんはちょっとだけ冷静になって『さっきは言い過ぎた』って謝ってくれたんです。私、あの時…」
そこまで言うと、私は立ち上がり、窓の前に立った。
「大げさかもしれないですけど、世界の見え方が少し、変わったんです」
差し込んでくる太陽の光に目を細めながら、私は振り返って氷雨さんを見た。
「ああ、こんな小さなことから、世界は少しずつ変えられるのかもしれない。世の中の流れを、変えられるのかもしれない、って」
私が言うと、氷雨さんはふふっ、と笑った。
「世界、かあ…。なんか、素敵な響きだね」
「ちょっと大げさ、ですけどね」
照れたように笑いながら、続けた。
「あの時に私は、もし今後、氷雨さんが困っていそうな時があれば、何か力になれたらいいな、って勝手ながら思ったんです。おこがましいですけど」
「そうだったんだ。へへっ、それは嬉しいな」
そう言ったあと、氷雨さんは『あ、ちょっと思い出してきたかも』と呟いた。
「あの時は確か、どっちも気分悪いままになるし、何とかこの状況を良くしたいなと思って考えを巡らせて…、それで、心療内科のカウンセラーさんに教えてもらったことがあったな、って思い出して」
「なるほど。それで思い付いたんですね」
「うん。まさか、ああいう場で活かされるとは思わなかったなあ」
氷雨さんは目を細めながら、しみじみと語った。
私はふと、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「どうして氷雨さんは、この仕事をやろうと思ったんですか」
「ああ、やっぱりそれ気になるよね…」
苦笑しながら、氷雨さんはうんうんと頷く。
「ほんとは、人とたくさん関わるような仕事はやりたくなかったんだけどね。母の友人でもあった峰橋さんに、『色んな人と関わることで、今の凝り固まった気持ちがほぐされるかもよ』とも言われて」
その話を聞いて、私は目を丸くした。
「峰橋さんとお知り合いだったんですね」
「あ、でも一応言っとくけれど、コネ入社ではないからね。ちゃんと面接もさせてもらったし」
「大丈夫ですよ、疑いません。…それで、このお仕事してみて何か変わりましたか?」
私が聞くと、氷雨さんはまっすぐに私を見た。
「今、かな」
「今?」
私が首を傾げていると、彼女はにっこりと笑った。
「今、ほんのちょっとだけ変わった。私の気持ちが、小柳さんのおかげで。職場でこの話したの、峰橋さん以外で小柳さんが初めてだもん」
「ええっ、私なんかでお力になれましたか?」
心配する私に、氷雨さんは親指を立てた。
「なってるよ、十分。荷物がね、ちょっとだけ軽くなった気がする。実は私が、一人の女の子の力になれてたことも分かったし」
氷雨さんは私の背中を優しく叩いた。
「だから、小柳さんは安心して仕事戻ってね」
そう言って優しく微笑む彼女は、まるで憑きものが落ちたようだった。




