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消えてしまう前に

 ロッカーへランチバッグを取りに行った後、再びトイレへ寄った。

 大丈夫かな、氷雨さん…。

 トイレを済ませた後に手を洗いながら、先ほどこの場所で起きたことを思い返した。

 氷雨さん、やめて、って言ってたな。何かに、誰かに言っているみたいだった。氷雨さんを悩ませているものは、一体何なんだろう。

 私は、過去のある出来事を、ドラマのワンシーンのように脳内再生していた。彼女に強く心を救われた、ある出来事のことを───。



 「失礼しま…、あ」

休憩室へ戻ると、氷雨さんは寝ていた。

 寝てるならそっとしておくか。

 あまり音を立てないように静かにドアを閉め、そっとパイプ椅子に座った。

 今は食欲無さそうだけど、何か差し入れでも買ってこれば良かったな。お腹空いたらすぐ食べれるし。

 そんなことを思いながら、弁当箱の蓋をそっと開けた。すると…

「小柳さんおかえり」

氷雨さんが私の方に体を向け、少しだけ笑った。

「あ、起こしちゃいました?」

「ううん、いいの。眠いけど、完全には眠れてなかったから」

氷雨さんは、優しい声でそう言った。

「食欲、ありますか?良かったら私のお弁当、ちょっとお裾分けしますよ」

「んー、今はいいかな。休んでから自分のお弁当食べるよ。ありがとね」

「分かりました。じゃあお先に頂いちゃいますね」

「どうぞ」

氷雨さんはそう言って、窓の外を眺めた。弁当箱のおかずを頬張りながら、私も何となく、一緒に外を見つめた。

 ふと、彼女は呟いた。

「この建物って、中身の見えない箱みたいだよね」

「えっ?」

どういうことだろうと、私は次の言葉を待った。

「窓が少なくて、外から見ると、中で何をやっているのか分からない。二階の売り場なんてどこにも窓はないし、こうやって、社食まで来てやっと窓があって、外の様子が分かる。雨が降っているとか、近くで火事が起きているとか、事故があったとか。そういうのがやっと分かる。そういうところに閉じこもって、理不尽なこと言ってくるお客さんにぺこぺこ頭下げて働いてる私達って何なんだろうって、たまに思っちゃう」

氷雨さんは苦笑いして、私を見た。

「ごめんね、こんな話して」

「いえ、その気持ち、ものすごく分かります」

私はうんうんと頷く。氷雨さんは再び外を見つめながら、話す。

「でもね、そんな理不尽なことは、別にここだけで起きてるわけじゃない。みんな生きていく中で、大なり小なり、理不尽が襲ってくる瞬間はある」

氷雨さんは目を伏せて続けた。

「その理不尽に耐えられるかどうかは、人それぞれの器量による。別に耐えられなかった人が弱いとかじゃなくて、ただたまたま、その理不尽のボリュームにその人が合わなかったってだけ。だから、どんなことであれ、理不尽からは逃げたって構わないし、自分を責める必要もない。なのに、中には逃げずに自分を責めてしまう人もいる」

「氷雨さん…?」

私が顔を窺おうとすると、氷雨さんは下を向いてしまった。

「私の友人は、まさにそういう人だった」

声が、揺れていた。深い悲しみや辛さが、にじんでいた。これはきっと、しっかり耳を傾けるべき話だと感じ、私はベッドの側にしゃがんだ。

「続けてください」

何かがこぼれてしまう前に、消えて無くなる前に。これはきっと、私が今すくい取るべきものだ。

「話してください、氷雨さん」

私は彼女の手を強く握った。

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