彼女は何かと戦っている
その後私はトイレへ立ち寄った。
ドーナツ何の味にしようかな。新しいのは三種類あるから、あれと、これと…。
買うドーナツの組み合わせを考えながら個室へ入ろうとすると、隣の個室から声が聞こえた。内容は聞き取れないものの、何かをブツブツと言っているのは分かった。
電話でもしてるのかな。そう思い、そのままスルーして中へ入った瞬間。
「やめてってば!」
叫ぶように大きな声が聞こえたので、びっくりして肩が跳ね上がった。
何、今の…?
驚いて固まっていると、ぴたりと声は止んだ。声に、聞き覚えがあった。
もしかして今の、氷雨さん…?
いつも落ち着いた雰囲気の彼女が声を荒げるなんて、滅多に無い。けれど、今のはおそらく氷雨さんの声だ、と思った。
そして更に、ドスン、と何かが壁に当たるような大きな音が聞こえ、それと同時に、個室が軽く揺れた。
これは、もしかして何かまずいやつなのでは…?
意を決して、隣に向かって声を掛けてみようと思った。
「あの、だ、大丈夫ですか…?」
そっと話し掛けたものの、返事は無い。
何もなし、か。どうしよう、倒れてるとか、そういうのじゃなければいいんだけど…。
「もしかして、小柳さん?」
壁の向こうから聞こえてきた声は、氷雨さんのものだと確信した。
「氷雨さん、ですか?」
私が確認すると、彼女はか細い声で言った。
「あの、申し訳ないんだけど、ちょっと、こっちに来てもらってもいいかな。鍵、開けるから」
「は、はいっ!」
言われた通り、急いでドアを開けて隣の個室の前へ来ると、静かに鍵が開いた。
何だろ…。
不安を感じながらドアが開くのを待つと、そこには、ぐったりした様子で壁にもたれかかる氷雨さんの姿があった。
「ど、どうしたんですか!?大丈夫ですか、救急車…」
慌てる私だったが、氷雨さんは『大丈夫、平気』と静止した。
「でもっ…、すごく苦しそうじゃないですか」
不安げに言うと、氷雨さんは唇の端を少しだけつり上げて笑った。
「驚かせてごめんね。深呼吸したら少し落ち着いたし、薬も飲んだら完全に落ち着くから。今日、薬飲み忘れちゃったんだ」
「そう、ですか…」
どうして薬を飲んでいるのか、何か病気があるのか。気になったものの、そこにはあえて触れなかった。
「重ね重ね悪いんだけど、ちょっとだけ肩貸してもらってもいいかな?」
そう言われると、私は自分の腕を彼女の首に回し、肩を抱いた。
「こうですか?」
「ありがとう。それで…、食堂の休憩室まで付き添ってもらいたいんだ。そこで薬飲んで、ちょっとだけ休むから」
「いいですよ。峰橋さんにも、私が伝えておきます」
「ごめんね、ありがとう」
私は氷雨さんに肩を貸したまま、二人でゆっくりと歩いて食堂へ向かった。
───すれ違う人々にどうしたの?とたくさん聞かれたけれど、一人一人返事をするのも億劫で、ただ軽く会釈をした。
トイレからは数分で行ける距離のため、着くのにさほど時間はかからなかった。
「お待たせしました氷雨さん。とりあえず座りますか?」
食堂奥にある部屋のドアを開けると、氷雨さんにそう言った。
「うん、そうする…」
彼女が頷いたので、据えられているベッドに腰掛けさせた。
「今は何も気にせず、ゆっくり休んでください」
「ありがとう、小柳さん」
礼を言う氷雨さんを横目で見ながら、近くのカゴに置いてあったブランケットを手に取る。
「良かったらどうぞ」
そう言って、ベッドの端にブランケットを置いた。
「先輩なのに、本当申し訳ないね」
「そんなの関係ないですよ。困った時は、誰だってお互いさまです」
胸を張り、腰に手を当てながら言うと、氷雨さんは小さく笑った。
「さっき買った天然水も、渡しておきますね」
これは、早めに薬を飲むべきだと思い、ここへ来る途中に食堂内の自販機で買ったものだ。氷雨さんの肩を抱いている私を見かねて、近くの席に座っていた人が、買うのを手伝ってくれた。
「うん」
水を受け取り、氷雨さんは制服のポケットをまさぐる。
「ああ良かった、ちゃんと薬残ってる」
小さなジッパーバッグを取り出して中身を確認すると、安堵した様子だった。万一に備えて、薬は常にポケットへ忍ばせていたらしい。
薬を飲むと、氷雨さんは一つ息を吐いて、壁掛け時計へ目をやった。
「あ、早くしないと氷雨さんの休憩終わっちゃう。薬も飲めたし、私は休むだけだからご飯食べておいで」
そう言われた時、私は提案した。
「良ければ、ここで食べてもいいですか?氷雨さんのこと心配ですし」
「それは悪いよ。ああでも」
氷雨さんは何やら考え込んだ。
「側に誰かいると、ちょっと心強い…、かも」
そう言って苦笑いした。
「じゃあ決まりですね。ごはん持ってきます」
私はにっこり笑い、部屋を後にした。




