風紀と勉強
風紀の乱れは心の乱れであり、学生の本分とは勉強である。
それが正しいかどうかはともかく、私は常に風紀を乱すことなく、学生らしく生きているつもりだ。
実際に1年生のときからずっと風紀委員として秩序を重んじてきた。
そう。頑張ってきたんです、委員会に関しては。
でも……。
「私が先輩に、勉強教えるってのはどう?」
風紀が乱れていないからといって、心が乱れない訳ではないし、
「留年しそうなんやろ、ゆー先輩」
風紀委員が全員、勉強ができるとは限らないのだ。
***
スカート丈、よし。
アクセサリーはつけていないし、スカーフも綺麗。
髪はいつも通り低い位置で二つ結ぶおさげスタイル。
どこからどう見ても真面目な優等生。
渋いフォントで書かれた『風紀』の腕章を身につけ、早朝から校門の前でチェックボードを持ち佇む私……櫻場悠里には、ある悩みがある。
それが……。
「ゆー先輩、おはよ」
「……おはようございます、椿さん」
「どうしたん、そんな不機嫌そうな顔して」
「っ、あなたねぇ……! 何度言ったらわかるんですか!」
「なにが?」
「その髪と! そのピアスの話です!」
この女子生徒についてだ。
金に染められたさらさらのロングは、てっぺんから黒を被る見事なプリン頭。
数えるのも面倒くさくなるほどのピアスでゴリゴリに飾られている耳や、関西訛りの喋り方は、妙に近づき難い印象を与えて。
垂れ目がちでどこか気だるげな表情やすらりとしたスタイルも相まって、少し前まで中学生だったなんて信じがたい。
七海椿。
1年生ながらに校則違反常習犯の彼女は、風紀委員会による服装検査で必ず私に呼び止められてはヘラヘラと笑っている。
むしろ最近ではなぜか向こうから私に挨拶をしてくるから、自ら取り締まられにきていると言っても過言ではない。多分変人だ。
「先輩も毎回毎回大変よなぁ、校則違反の生徒を取り締まらなあかんの」
「大変にさせている自覚がおありでしたら、その頭と耳の風紀を正してくださいよ」
もっとも、風紀委員が細かくチェックしているとはいえ、うちの高校は元々進学校だし、違反者の方が少ない。こんなにも校則違反をしている人間……しかも1年生でここまでの仕上がりなんてこの人くらいだ。
「考えとくわ」
「なんで上から目線なんですか。しかも今日は制服のスカーフも着けてないし……」
「あれぇ? ほんまや。言われるまで気付かんかったわ、これは」
「これ「は」ってことは、その頭と耳についての弁明は今週もなさそうですね?」
「あはは。スカーフ、家に忘れたみたいっす」
「はぁ……」
いつものプリン頭と大量のピアスはさておき、どうやらスカーフは本当にうっかり忘れてきたらしい。
椿さんは鞄をガサゴソと漁ってから、たははと頭をかいた。
「どーしよ、今日生物あんのダルいわ。生物のセンセ、制服の着方に厳しいんよな。髪と耳にはなんも言わんのに」
「ダルいとか言わないの。……もしよかったら、私のスカーフ使いますか?」
「え?」
「予備のスカーフ、持ってますけど……」
意図していない校則違反に少し焦る椿さんを見かねて、私は自分の鞄からスカーフを取り出す。
一応普段から2枚用意しているそれを遠慮がちに差し出すと、椿さんは目をぱちくりさせて私とスカーフを交互に見た。
「これ、先輩の……? それとも、風紀委員の?」
「私が個人的な備えで持ってるやつで、風紀委員は特に関係ないです。べ、別にいらないならいいですからね、言ってみただけですし……」
「いる」
「あ、そうですか……? じゃあ、どうぞ」
「ありがと、ゆー先輩。洗って返すわ」
「洗わなくても、放課後返してくれればそれでいいですよ」
「…………んー、なら放課後返しに行くね。先輩んとこに」
食い気味にスカーフを受け取って、椿さんは目を細めながら私の頭をくしゃりと撫でる。
不意打ちのその感触に顔が熱くなるのを感じたけれど、これは怒りとかそういう類いの熱であって、決して照れている訳ではない。
「こら、なに撫でてるの」
「先輩ちっちゃいから」
「理由になってません……。髪が乱れるからやめてください」
「はァい。じゃーね、先輩。また放課後」
「あ、うん。また…………って、だから髪とピアスを……!」
「引き続き校則違反の取り締まり頑張って〜」
私が手を払って髪を整えている隙に、椿さんはひらひらと手を振って校舎に駆け込んで行ってしまった。
まだ校則違反についての話は終わっていないのに。
まぁ、放課後も会える……じゃなくて顔を合わせなきゃいけないし、そのときにまた注意しよう。どうせ聞いてくれないんだろうけど。
「毎度毎度、よくやるねー」
「せっちゃん……」
「悠里、すっかり懐かれたね、あのヤンキー後輩に」
ため息を吐きながら風紀委員のチェックシートに七海椿と書き込んでいると、風紀委員の仲間 兼私の数少ない友人である瀬戸内千花……せっちゃんが話しかけてくれた。
「ヤンキー後輩って……。いうほどヤンキーじゃないですよ、あの人」
「いやいやいや、誰がどう見てもヤンキーでしょ。堅物ばっかのうちの学校で金髪とか、あのピアスの量とかさぁ。しかも七海さんって、あの第二中出身らしいじゃん」
「第二中?」
「治安が終わってることで有名なヤンキー中学校! 七海さん、今でもたまに他校生と喧嘩してるって噂も聞くし、私からしたら普通に怖い」
喧嘩、かぁ……。
出身中学のことはさておき、椿さんって本当に喧嘩とかするんだろうか。
喧嘩って怒ってる人同士でしているイメージがあるけれど、少なくとも私は彼女が怒っている姿なんて想像できない。あの見た目だから、近寄り難いとか怖いという第一印象になるのは無理はないものの、話してみると意外と穏やかな人なのになぁ。
のらりくらりとしていて、何を考えてるかわからないところはありますけど。
「だから悠里、よくあんなにズバズバいけるよね、あのヤンキーに」
「校則違反者には変わりないので。風紀委員として取り締まってるだけです」
「あんた以外の風紀委員が七海さんに声かけてるの、見たことないけどね」
「そんなに怖いものですか?」
「逆になんで怖くないの?」
なんで、と言われてましても。
酷いことや怖いことをされたこともないし、してくる気配も皆無なんだもん。
確かに最初はちょっと怖かったし声をかけるのには勇気が必要だったけど、今となっては気軽に呼び止めて軽口を叩きあうくらいの関係だ。友達とまでは言えない、でも知り合いよりは近いような、そんな距離感。
「意外と悪い人じゃないから……ですかね」
「あんなに校則違反で取り締まってるのに、悠里の認識は「悪い人じゃない」なんだ?」
「校則違反を除けば、良くないとこも特にないですし、あれでいて人懐っこい感じもあるじゃないですか。挨拶とかしてくれますし」
「それはあんたが懐かれてるだけでしょ」
「へ? いや、そんなことはないと思っ…………あ、スカート丈怪しい子いるので行ってきますね」
「目ざといなぁ。いってら〜」
ある生徒を見つけて、私はバタバタとその子のもとへと小走りする。
他愛のない話をするのも楽しいけれど、今は委員会活動の最中でもある。風紀の乱れは見逃さないようにしなくては。
短めのスカート丈のその女子生徒を呼び止めて名前を聞くと、あからさまに「面倒くさいのに捕まった」といった顔をされる。いつものことといえばいつものことだけど、私がそれに慣れることはない。
何度も人から煙たがられては、その度にちょっとしゅんとしてしまう。
それが風紀委員会をやめる理由や違反を取り締まらない理由にはならないけど、傷つくものは傷つくのだ。
言い方がキツかったり、圧があったりするのかなと自分なりに柔らかく伝えているつもりでも、やっぱりどうにも上手くいかない。
せっちゃんは風紀委員なんて嫌われてダルがられるもんでしょ、と笑っていたこともあるけど、そこまでのメンタルの強さは私にはない。
私自身は間違ったことはしていないつもりでも、向こうからしたら目ざとく注意してくる人間なんて面倒くさいことこの上ないだろうというのはわかっている。
わかっている、けど……それもまた、私が風紀の乱れを見過ごす理由にはなってくれない。
いくら煙たがられても、私はこれからも真面目に風紀委員の活動に取り組み続けるつもりでいる。
でも、だから、やっぱりおかしいんだ。
『先輩も毎回毎回大変よなぁ、校則違反の生徒を取り締まらなあかんの』
いつもいつも私に注意されて、キツい言い方までされているのに、あんなふうに笑って頭を撫でてくるあの人は。
ヤンキーとか怖いとかそれ以前に、おかしな人なんだと思う。
***
放課後、ホームルームが終わってすぐのこと。
下校をしようとしていると、私は担任の先生に廊下で呼び止められた。
「あー、櫻場。ちょっといいか?」
「はい」
「今日何個かテストが返ってきただろ?」
「夏休み明けのテストがいくつか返却されましたね」
2学期が始まってすぐに行われた簡易的なテストは、先生方の採点の都合で教科ごとに差はあれど、いくつかは結果が返ってきていた。私たちのクラスでは、英語、数学、日本史、生物が返却されたはず。
「……何点くらいだった?」
先生は眉間にぎゅっと皺を寄せて、未だかつて見たことがないくらいにばつが悪そうな表情をしながら私にそう質問をした。先生の名誉のために言っておくが、いつもは気さくで明るく優しい人である。
じゃあ、なんでそんな顔をして……させてしまっているかというと。
おそらく、原因は……。
「…………15点とか、ですかね」
「何点満点中?」
「100ですね」
私の残念すぎる頭のせいである。
大変申し訳無い。
どの教科も本当にそのくらいの点数なんです。自分でもびっくりするくらい、15点程度の点しか返ってこなかったんです。トータルが15なんじゃなく、平均が15なだけ救いだと思っていいですか。駄目ですよね……。すみませんでした。
「あのな、櫻場が真面目で素行がいいことも、委員会を頑張ってるのもよくわかるんだ」
「ありがとうございます」
「ただ、この点数は……なぁ?」
わかるだろ、と言いながら、先生は深く息を吐いて頭を抱えてしまった。
「一応うちは進学校でやらせてもらってるんだがなぁ」
「すみません……。推薦で入ってしまって……」
「推薦は悪いことじゃないんだが、この点数はどうにかならないもんかね」
「どうにかしたいとは常々思っていまして……その……はい……」
「勉強してないんじゃなくて、真面目にやってて「これ」だから、こちらとしてもどうしていいやら」
「うっ……」
申し訳無い……。
本当にただただ私の頭が悪いだけで、先生方の教え方が悪いなんてことはないのに……。
実際、平均点は60〜70くらいらしいし、軒並みこんなひどい点数を取っているのはおそらく私くらいだろう。不名誉にもほどがある。
しかし、決してふざけているという訳ではない。私はいつだって本気だ。本気で真面目に勉強をした結果の15点なのだ。やっぱり救いようがない。
「あんまりこういうことは言いたくないんだが……今のままの点数が続くと……」
「続くと……?」
「最悪の場合、留年とかなぁ……。ないとは言い切れないんだ」
「りゅっ……!」
留年……。
りゅうねん……!?
留年って、あの?
進級ができなくなるという噂の?
私が去年ギリギリ回避したという、例の?
あの留年の話……!?
「テストの結果を中心に評価を決める先生が多いから、留年は言い過ぎにしても内申点は期待しないほうが……櫻場? おーい、大丈夫か」
「りゅうねん……リュウネン……」
せっかく中学では苦手な勉強を頑張って課題や提出物に取り組んで、テストの結果はともかく内申点だけは高く保って、この学校に推薦で入れたのに……。
1年生のときはなんとか課題を真面目にやることで進級することができたけど、留年なんてしたら、家族に顔向けできない。
なんとしても、回避しなきゃ……!
「先生っ! 留年を阻止するには、テストで何点くらい取ればいいですか……!」
「おぉう、急に元気……。そうだな、せめて赤点は回避した方がいいんじゃないか。全科目30点以上はほしい」
「赤点回避……30点以上……。わかりました」
「まぁ、何か質問とか教えてほしいことがあったらいつでも相談に乗るし、教科担任の先生にも遠慮なく声かけていいからな。櫻場が真面目でよくやってる奴なのは、みんな知ってるから」
「ありがとうございます。恐縮です」
「んじゃあ、そういうことだから。頑張れよ」
「はい!」
元気に返事をして頭を下げると、先生は気をつけて帰るんだぞと言って職員室へと戻って行った。
わざわざ放課後に声をかけてくださって、ありがたいやら申し訳ないやら……。
きっと、私がどちらかに振り切れていたら楽だったんだろうな。素行も悪くて成績も悪いか、素行が良くて成績も良いか、と統一されていたら、先生も扱いに困ることはなかったのかもしれない。
でも、あいにく私という人間は根っからの堅物で、真面目で馬鹿正直で、そしてとんでもなく勉強ができないのだ。
その頭の悪さたるや、今まで勉強を教えようとしてくれた先生や友人が軒並み匙を投げるほどである。なまじ私が真面目に勉強に取り組んでいるぶん、その理解力の無さが「本物」だと伝わってしまうようで、匙を投げるというよりは気まずそうに匙を置かれるといった感じだ。
その申し訳なさそうな、哀れむような顔を見る度に、私は⸺⸺。
「ゆー先輩」
「ひゃわっ!?」
鞄を抱きしめながらぼーっとしていると、トンと後ろから肩を叩かれて。
驚いて振り返ると、見慣れた金髪の後輩がそこにいた。
「どうしたん、1人で突っ立って。具合い悪い?」
「ちょっと考え事してただけなので大丈夫です。椿さんこそ、何か用ですか?」
「スカーフ返しに行くって言うたやん」
「あぁ……そういえば貸しましたね」
朝早くのことだったし、留年云々の話のショックで忘れてた。
わざわざ返しに来てくれたんだ。下駄箱で待っていればどうせ会えるのに、3年生の教室まで来るなんて変なところで律儀だなぁ、この人。
「おかげで怒られずに済んだわ。ありがとー、ゆー先輩」
「はいはい……。今度から忘れないようにしてくださいよ」
「今度から忘れたら先輩に借りに来ることにするわ」
「次からはもう絶対貸しませんからね」
いつも通りヘラヘラと笑いながら、椿さんはスカーフを綺麗に折りたたんで私の手に握らせた。
「でもゆー先輩はなんだかんだ私に甘いから、お願いしたらどうせ貸してくれるやろ」
「その自信はいったいどこから来るんですかね」
軽口を叩き合い、返されたスカーフを鞄に仕舞う。
これ以上言い返す台詞が思い浮かばなくて、そのまま下校しようとツカツカと廊下を歩き始めると、椿さんが隣りをついてきた。
「なんでついてくるの」
「えー? せっかくやし一緒に帰ろうや。先輩も帰るとこっすよね」
「そうですけど……」
「じゃあ、決まり。行こ?」
そう言って目を細めて、椿さんは強引に私と肩を組んだ。
まだいいって言っていないのに、この後輩は一緒に帰る気満々らしい。
「しょーがないですね……」
「あー、でも不良生徒と歩いてるとこ見られるのがイヤだったら、おとなしく1人で寂しく帰るで」
「そんなこと気にしませんよ。というか、不良生徒って自覚あるんですね」
「この髪とピアスで不良生徒じゃないって言い張るのは無理ありますって。なに言うてんの、先輩はホントにもう」
「なに言ってるの、はこっちのセリフです。私が変みたいな感じ出さないで」
それにしたって不良生徒の自覚がありすぎる。確信犯でしょ。
でも、自分を客観視できてなお校則を破り続けている椿さんには、何かそうしなきゃいけない事情があったりするんだろうか。
今まで何度も気になっていたことだけど、本人にそれを聞いたことはない。
人付き合いが得意じゃない私は、どこまで踏み込んでいいのかわからないから。
そもそも私と椿さんって、多分お友達ではないんだろうし、知り合いよりは近い気がするだけの顔見知りというか……。部活や委員会が違うから、先輩後輩っていうのもそこまでしっくり来ないし、よくわからない関係性だと思う。
こうして一緒に校門をくぐって、お話しながら下校しているとすごくお友達って感じがしてしまうけど、きっとそんなことを考えているのは私だけで。
人と一緒に帰るのが久しぶりな私と違って、椿さんはたまにポニーテールの女の子と一緒に下校しているところを見かけるし。今日はたまたま、なんとなく私が選ばれただけで、そこに深い意味なんてないのだ。
別に、だからどうって訳じゃないですけど。
椿さんにとっての私なんて、いつも口うるさく注意してくる偉そうな2年生とか、せいぜいそんなもんで。わかってたことだもん。
「せんぱーい? 話聞いとる?」
「え、あ……ごめんなさい、何か言ってました?」
「またボーッとしてたん? やっぱ今日調子悪くないですか、先輩」
またぐるぐると考え事をしていると、椿さんは心配そうに私の顔を覗き込んできた。
十数センチくらいの身長差があるのに、どこか不安げな顔で屈んで目を合わせてくる姿がなんだか大型犬みたいで。ちょっとだけ、可愛いと思ってしまう。本人には言わないけど。
「心配してくれるのは嬉しいですけど、私は大丈夫ですから。話聞いてなかったのはごめんなさい。なんの話題でした?」
「夏休み明けのテストの話」
「て、テストの話……」
「おん、どうやったんかなって」
「それは、えっと……あはは……」
まずい。非常にまずい。
まだ私の中で留年危機の話を受け止めきれていないのに、こんなダイレクトな話題を振られると困ってしまう。平均15点くらいですね、と事実を述べて平然とポーカーフェイスを貫くほど、私の面の皮は厚くないのだ。
それに、いつもうるさく注意してくる風紀委員の先輩がとんでもない馬鹿だったなんて知られたら、威厳も何もない。成績の良さと風紀は本当は別の話なんだろうけど、勉強もできないのに偉そうに風紀の乱れがどうのと説教をしていたのか、と嘲笑われてしまうんじゃないか。
幻滅されて、哀れまれてしまうんじゃないだろうか。
なんて答えたらいいの、この話。
正直さや真面目さくらいしか取り柄がないのに、正直に答えたら呆れられてしまいそうな場合、どうしたらいいんですか。
こういうときに上手くはぐらかす方法も授業で教えてくれないかな。教わったところで私はどうせ15点くらいしか学びがないかもしれないけど……。
「……ゆー先輩、やっぱ元気ないやろ」
ネガティブに思い悩み、私が口ごもっていると、椿さんはそっと私の頬に手を伸ばしてきて。
「っ、気のせいじゃないですか。至って普通ですよ」
細長い指が頬から髪を伝い、私のおさげ髪の片方をふぁさりと後ろに払った。
整った顔立ちをしているのはわかっていたけど、いざこうして至近距離で見ると、その迫力に少し緊張してしまう。
「ごめん。実は私さ、先輩に謝らなあかんことがあって」
「は、はい……?」
ホントにきれいな子だなぁとなぜか悔しくなっていると、椿さんが気まずそうに口を開く。
「さっき、廊下で先生と話してたやろ。それちょ聞こえててん」
「え……」
突然の告白に、私はサァーっと顔から血の気が引くのを感じた。
聞こえてた……?
あの会話を、どこから……?
いや、聞こえてしまったと謝るってことは、その内容を知ってしまったってことなんじゃ…………。
「それで、あの……ひとつ提案があって」
「うん……?」
青ざめる私の肩をガシっと掴んで、椿さんはいつになく真剣な面持ちで、こちらを真っ直ぐ見据えて。
「私が先輩に、勉強教えるってのはどう?」
そう、提案してきた。
「な、なに言って……」
「留年しそうなんやろ、ゆー先輩」
「それはそうなんですけど……」
やっぱり聞かれてた……。
留年しかけてること、ばっちり聞かれてた……。
それもショックだけど、それよりも衝撃的なことを言われたような……。
「勉強を教える……? 椿さんが私に……?」
「自分であんま言いたないねんけど、私、勉強はできる方っすよ」
え、そうなの?
初耳なんですけど。
今までそんな機会もなかったから知らなかった。椿さんが勉強できるなんて。
運動は得意そうなイメージがあったけど、勉強については特にこれといったイメージはなかったな。勉強得意だったんですね、あなた。自分で言うほど。
いや、問題はそこじゃないか。
「そうだったとしても、学年が違いますし、椿さん自身の勉強とかもあるでしょうし……」
「2年生の範囲なら予習してます。それに……」
「うん……?」
突然の提案と新事実に困惑する私と、ガサゴソと何やら鞄を漁り始める椿さん。
そうして彼女はファイルの中から何枚かの紙……テスト用紙を取り出してみせた。
「これ、2学期が始まったときのテスト。今日返されたぶんだけやけど」
はい、と数枚のそれを押し付けられて、その点数を見た瞬間、私は驚愕した。
「95、93、98……100!?」
およそ私が人生の中で見たことがない数字たちが、そこには並んでいたのだ。
当たり前だけど氏名の欄には七海椿と書かれていて、彼女が自分で言った「勉強はできる方」というのは嘘偽りではないこと、そしてそのレベルは私が想像する遥か上にあったことを物語っている。
ていうか100?
100ってありえるの?
高校生のテストで満点って実在したんだ。小学校では満点の子がクラスに何人もいたし、中学校でもテストによっては数人くらいは満点を取ったとか聞いたことあるけど。
15点の私からしたら90点以上すら異次元の話なのに、100って……。
「すごい……。椿さん、勉強できるんですね」
「すごいっていうほどでもないけど、一応は」
「なに謙遜してるんですか。一朝一夕で取れる点数じゃないですし、すごいことですよ。偉い、頑張ってるんですね」
見たことのない点数にテンションが上がった私は、すごい偉いと少ない語彙で椿さんを褒めたてて、勢い余ってその金髪をわしゃわしゃと撫でてしまった。
私に視線を合わせようとかがんでくれてたから、撫でやすい位置に頭があったんだもん。それに、朝に撫でられた仕返しと考えればおあいこだ。そういうことにしよう。
無遠慮に触ってしまったことへの言い訳を頭の中でつらつら並べている私とは裏腹に、椿さんはキョトンとした顔をしてから、気恥ずかしそうに目を細めた。
……そんな顔もするんだ。
「あの、ゆー先輩、話の続き……」
「へ? あ、うん。なんでしたっけ」
「私が先輩に勉強教えますよ、って話。もちろん、先輩がイヤじゃなければ、やけど」
予想外の表情と触れた髪の柔らかさに気を取られていたけど……そうだ、その話だった。
テストの点数や本人の口ぶりからして、椿さんの学力は間違いなく私より上だ。教えることが可能かどうかでいえば、おそらく可能なんだろう。
そこまではわかった。
しかし、疑問はまだある。
「逆に聞きたいんですけど、椿さんは私に勉強を教えるの、イヤじゃないんですか……?」
私がイヤじゃなければ、と彼女は言ったけれど。
そこまで仲がいい訳でもない、むしろ普段から口うるさいであろう先輩に、椿さんがわざわざ勉強を教えるメリットがわからない。というかメリットなんてないんじゃないの、この人。
「私から提案してんのに嫌とかないやろ」
「でも私、ものすごく頭が悪いんですよ? 椿さんが想像してるよりずっと理解力もないし、教えたところで成果が出るとは限らないし……」
「やってみなわからんやろ」
「……いつも偉そうに説教してた風紀委員の先輩が留年の危機にあるって聞いて、幻滅しないんですか」
「なんで? 先輩が風紀委員やってんのと、先輩の成績が悪いのって、なんか関係あるん?」
……ない。
本当は関係ないってことはわかってる。
でも、みんながみんなそう思う訳じゃない。
真面目さくらいしか長所がない私がそれを捨てたらお終いなんだから、と素行よく頑張っているけれど、日々を真面目に過ごすほどに成績の悪さは浮き彫りになっていくのだ。
真面目な生徒なら成績はいいのだろうと思ってくれる人からは呆れられてしまうし、堅物さを疎ましく思う人からは嘲笑われる。
そんな反応をされるのは仕方のないことなはずなのに。
「それとこれとは別の話やろ」
どうして椿さんは、こんなふうに言ってくれるんだろう。
「それにさ、さっきゆー先輩は私のテストの点数を見て、素直に褒めてくれたやん」
「すごい点数でしたし、褒めたくもなりますよ。そんな立場じゃないですけど」
「ん、ありがと先輩。でも私さ、見た目こんなやし、中学もアレやから。たまにカンニングとか疑われるんよな」
カンニング……。
そっか。椿さんも私と同じで、ある意味「普段の素行と勉学の成績が伴っていない生徒」なんだ。
私が素行から逆算して勉強もできると見積もられがちなように、この子はきっと勉強ができることに違和感を持たれてきたんだろう。
「それでもゆー先輩は全然疑わんかったし、当たり前みたいに信じてくれたやろ」
「疑う頭がないだけかもしれませんよ?」
「先輩にチョロいとこあるのは否定せんわ。勉強とか以前に、人を疑うこと知らんよね」
「椿さんって、結構私のこと舐めてます?」
「舐めてないよ? ソンケーしてるし、心配もしてる」
尊敬してる人に向かってチョロいとか言いますか、普通。
「とにかく、幻滅なんてせんよ。むしろ好都合……」
「え……? なにか言いました?」
「なんでもない。とにかくそういうことやから、先輩さえよければ私が勉強教えるよ」
どうする、とやや強引に選択を委ねられて、改めて思案する。
椿さんに勉強を教えてもらうかどうか。
私視点の話をするなら、これは悪くない提案だ。それどころか、ありがたいことこの上ないともいえる。
元々1人で勉強してもダメで、人から教わってもダメな私である。教わったところでちゃんと学力を伸ばせる自信はないものの、1人で勉強しても学力が伸びる可能性はゼロに近い。
どちらかといえば人に教わったほうがモチベーションを保てる気がするし、こんな私に勉強を教えようかと言ってくれる人がいるなら、逃す手はない。
ただ、椿さん側になんの得があるのかが未だによくわからない。幻滅はしないと言ってくれたけど、かと言って何かプラスになるような要素は見当たらないのだ。
「私としては、教えてくれるなら甘えたいところなんですけど……」
「うん」
「わたし、椿さんに何も返せませんよ……?」
「別になんか返してほしいとか思ってへんけど」
「校則違反を見逃せとか言われても、絶対してあげられませんよ……?」
「根っからの風紀委員すぎるやろ。先輩のそーゆーとこ、いいと思うけどさぁ。ちょっとは緩くしてくれてもいいんすよ、ゆー先輩」
「これからも厳しくチェックしていきますね」
「おー、こわ」
「って、そうじゃなくて! 椿さんに何も得がないでしょって言ってるんです!」
このままでは、椿さんがただ私に勉強を教えてくれるだけになってしまう。
損得勘定がどうのということではなく、これは私が申し訳無さでいっぱいになってしまうという話なのだ。何か返さないと気が済まない。
かと言って、日頃の素行を見逃すなんてことは無理だ。真面目さが取り柄の私が、そこを見失っては本末転倒なのだから。
となると、私が椿さんに差し出せるものは……。
「……賃金とか払いますか?」
「なんでそうなったん?」
「労働の対価を、と思って」
「労働て。私みたいなのが先輩からお金なんて受け取ったら、それこそカツアゲみたいになるやろ。お金とかいらんし、そもそも見返りのために言ってる訳ちゃうねんけど」
はぁ、と呆れてこめかみを抑える椿さんは、何も返さなくていいだなんて詐欺みたいなことを言ってくる。
お金も見返りもいらない、とか……。
「じゃあ、どうして?」
「ん?」
「見返りがいらないなら、どうして椿さんは私に勉強を教えようか、なんて言ってくれるんですか?」
毎週数回くらい顔を合わせる程度の、しかも口うるさく注意してくる先輩に、どうしてそこまでしてくれようとするの。
「そぉれは……先輩のことが……」
「私のことが?」
「し、心配やから。留年しそうなんやろ? ほら、先輩が留年したら同学年やし……いや、それはそれでいいのか……?」
「椿さん……?」
「つまりその、えぇと……友達が勉強で困ってんなら助けたいって思うのが普通やんか! 深い理由とかそんなんいりませんって」
と、ともだち……?
今、友達って言った?
私たちって友達だったの……?
「なにポカンとしてんの、ゆー先輩」
「椿さんって、私のこと友達だと思ってくれてたんだなぁって」
「は? 先輩は私のこと他人やと思ってたんや?」
「そこまで遠く感じてた訳じゃないですけど。椿さんって意外とお友達多そうだし、私のことなんて目の上のたんこぶくらいに思っているものかと」
「やっぱ先輩の頭、心配やわ。いろんな意味で」
「喧嘩なら買いますけど」
「なんで喧嘩にはノリ気やねん。ゆー先輩って見た目に反して血の気多いっすよね」
「あなたは見た目に反して随分とお優しいんですね。友達が困ってたら助けようとしてくれるなんて」
軽く煽られたから煽り返してあげると、椿さんはぐぬぬと口をつぐんだ。
「椿さんが優しい子で私を助けようとしてくれてるのはわかったんですけど……やっぱり教わるばかりじゃ申し訳ないんですよねー……」
「いじってくんなや、くそ……。優しくないし、別に……」
これみよがしにまた揶揄うと、今度は拗ねたように口を尖らせ何やら呟いている。
今日は椿さんの珍しい表情がたくさん見れて、なんだか得している気分だ。
「てか、そんな気にせんでもいいのに……」
「そういう訳にもいかないの。逆に、何か私にしてほしいこととかないんですか? 勉強を教えてもらう代わりに、私にできることならなんでもしますけど」
「……なんでも?」
「風紀が乱れないことなら」
自分で言うのも何だけど、私に勉強を教えるというのは相当な苦労が見込まれる。
校則違反を見逃すとかはできないけれど、それ以外の私ができる範囲のことなら、なんでも望むものを返したい。
「じゃあ……一緒に昼ご飯食べよーや、ゆー先輩」
「昼ご飯? 私とあなたの、2人で?」
「うん。風紀は乱れてないやろ、これなら。ダメなん?」
「ダメじゃないですけど……。そんなんでいいの?」
「いーの!」
何を考えているかわからないところがある人だから、どんなお願いをされるんだろうと予想できずにいたけど……。やっぱり、ある意味何を考えているのかわからない。
昼ご飯を一緒に食べるだけでいいんだ。
それ、本当にちゃんとお礼になってます……?
「毎日が駄目なら、週に何回かでもいいから」
「いや、全然毎日行けますけども」
「あー、先輩いつもぼっち飯やもんな」
「なんでそれを……! い、いや違いますけどね? ぼっち飯じゃないですけどね? 孤高のランチって言ってくれますか?」
「同じやろ」
私が教室の隅でいつも1人でご飯を食べていることを、どうして椿さんが知ってるんですか。
数少ない友達であるせっちゃんが昼休みの度にお弁当を持ってどこかへ消えるものだから、平気な顔を装って1人寂しくご飯を食べている私を、目撃したことでもあるんだろうか。
そう考えると、私はぼっち……孤高のランチから卒業し、昼休みに椿さんとご飯を食べることができるんだから、またこっちばかりが得をしてしまっているような。
なお、ここにおける得というのは1人でご飯を食べる寂しさが解消されるという話であって、相手が椿さんだからどうのということではないです。注釈。
「私は先輩に勉強を教えて、先輩は昼休みに私と飯を食う。これでどう? 異論ある?」
「まるで釣り合ってる気がしませんが……。一応異論はないです」
「んじゃ、決まり」
イマイチまだわかっていないことも多いけれど、椿さんには椿さんなりの考えがあるのかもしれないし、今のところ私にはメリットばかりの話だ。
細かいことはさておき、受け入れない理由もなかった。
果たして、椿さんは私の学力(の無さ)にどこまでついてこれるのか。
私は留年を回避することができるのか。
昼休みに2人きりでご飯を食べて、気まずくならないのか。
そんな疑問や不安もありつつも、どこかワクワクしてしまっている自分も確かにいて。
「これからよろしく、ゆー先輩?」
「……よろしくお願いします、椿さん」
こうして私は、かわいくないヤンキー後輩に勉強を教わることになったのだった。