36話 魔王如き
「お前……今までどこに行ってたんだ?? 仕事もせずにどこかに消えて、魔高オリンピア当日も姿を現さないなんて。第零部隊の戦闘に参加しないなら僕の仕事をしろと何回も言っているだろう……那原」
「あー、当日はトーナメントの対戦相手を決める裏方に回っていたような、いなかったような」
薄暗い国防軍基地の廊下、時薪が那原を壁の前に立たせる。メガネをわざとらしく軽く動かし、片手で手帳を開く。口元には薄い笑みを浮かべ、彼に詰め寄っていた。
「言い訳は三秒まで。三秒を超えたらそのぶんお前の信頼が下がる仕様なんだよ、僕の中では」
「すいません、時薪隊長〜」
「上司に敬意を払えないのか?? いや気にしていない。お前が恥ずかしいだけだからな」
「あはっ、ひどいなぁ。許してくださいよ、僕は入って3年程度の新人なんですから」
笑いながら流す那原に青筋を立てる時薪。
「その前は国家資料室に勤務していたんだろ?? とにかく、減らず口を叩く前に書類仕事を終わらせようか。お前が無能のせいで僕の評価が下がると困るんだ……そうだ、市川に報告しようか?」
「いちッ……!? いやその、それはやめてくれると助かるといいますかぁ〜」
コツ、と足音がした。那原が横目で見て、顔を青ざめさせる。
「俺の部下に何をされているのですか?? 時薪隊長」
市川が那原に呆れたような目を向けた後、時薪に話しかけた。
「こんにちは、市川さん。いや、仕事をしない僕の部下に少し説教をと思っただけで」
「お二人共、仲悪いんですか??」
「黙ってくれ」「黙りなさい」
市川と時薪の声がハモる。特に仲が悪いわけではないが、2人ともプライドが高いだけのだ。
衝撃音が轟き渡る。そこに、更に反りの合わない男の声が響いた。
「魔王を倒しに行くだぁ?? てめぇ、ふざけんなよ、あ"ぁ!??」
「アイオニオスって、碧先輩なんですよね!? なら私が行かないわけにはいかないんです!」
「なんだその理屈!?」
叫んでいたのは森壁。その部下──李口は蹴り飛ばされた衝撃を地面に流すように着地する。市川が微かに口を緩めた。
「小型犬が何か吠えていますね……少し部下に厳しすぎるのでは?? 何も殴らなくとも良いではないですか」
「今回は市川さんに同意だな。森壁、少し落ち着いて頭を冷やすといい」
「てめェら鬼畜共にだけは言われたかねぇよ!?」
テンポよく怒鳴り、息を切らしている。市川はため息をつき呟いた。
「キャンキャンと騒がしい方だ」
「てめぇ……そりゃ誰のことだ?」
やはり相容れないらしく、森壁と市川で静かに火花が散る。意識の外となった那原、そして李口が顔を見合わせた。
「……ええと、君、何で怒られてたの?」
那原は息が上がっている女性隊員に単刀直入に問いかける。少し驚いたような表情を見せた。
「それは……」
言い淀んだ後、ゆっくり息を吐いて彼を見た。
「今、新魔王と噂されている人が元々国防軍の隊員だったって事は、知ってますよね?? その人、私の先輩なんです。昔、助けてもらった事があって。先輩みたいになりたくて国防軍に入ったんです」
「へぇ、それはすごい。でも君って森壁隊長の第二部隊だよね〜?」
「……入隊試験で第二部隊に入ったけど、先輩と同じ部隊に入りたかった。でも私はまだ先輩は認めてもらえてないんです。だから碧先輩に直接会って戻ってきてもらおうと……って、すみません、会ったばかりの方にこんなこと。私は、李口星波といいます」
思い出したように名を名乗るが、その固い様子に那原はけらけらと笑った。
「いや、君とは会ったことあるよ〜?? 話してないけどね」
「え!? ご、ごめんなさい覚えていなくて!!」
(碧に杖を渡した時に変装して紛れ込んだだけだけど……まあいいか)
「僕は那原田貫。僕も碧の事は知ってる。彼女の同期だからね。で、提案なんだけど──」
那原が李口に耳打ちする。戸惑いが走った。だが、彼女はすぐに頷いた。騒いでいた森壁がちらりと李口を見て、何も言わずに目をそらす。
彼女は真剣な表情で那原を向いた。
「ぜひ、協力させてください」
*****
アオは気づかない。
国防軍の一部が自分の為に動いているなんて考えもしていないだろう。大きな本棚が周囲の壁に立ち並ぶ自分の部屋に籠っていた。
「つまらない」
本を読んでいた時、彼女はポツリと呟く。
──部下の指導はフォラウスが行っている。人間を支配下に置く為の準備も進んでいる。というか、私1人でも別に侵略できる。国防軍の皆は……騙してたから怒ってるかな。
アオは本と共にベッドに倒れ込む。窓の外に見える灰色と赤の景色が、奴隷となった人々の無機質な鉄の首輪が、彼らの存在を強く示している。この“狭間“の頂点である部屋から、遥か下の方で小さく街行く魔物や人間たちを静かに見る。
──知りたかった。理解りたかった。なぜ父上はあれほど人間界に執着したのか。人間とは、どんな生物なのか。
人間に魔王と名乗り敵対した。国防軍という安定した立場を捨て、新魔王軍を選んだ。アオにはそうできるだけの力があり、もう後戻りはできない。
「支配なんて、興味ないんだけどな……」
その言葉はほんの少し蒸し暑い部屋の空気と同化して、誰に聞かれることもなく、静かに溶けていった。
軽いノックが聞こえる。伸びをしてベッドから起き上がりながら「入っていいよ」と声をかけた。黒い角を持つ女性が入室する。
「失礼します、アイオニオス様。狭間に、人間が侵入したようです」
「へぇ……敵ってこと?」
「はい、数は数千人いるようですが、どうしますか?」
「……Αμίκα, σε παρακαλώ συγχώρεσέ με.」
「今、なんと?」
彼女が目を閉じて異言語を小さく呟くと、部下は怪訝そうに聞き返す。軽く息をつく。
「……なんでもない。じゃあ、迎え撃とうか」
静かに答え、立ち上がる。その表情にいつものような好戦的な笑みはなく、ただただ精密な機械のように感情が無い。立てかけてあった杖を手に持って黒いマントを羽織り、大股でドアの外へと歩み出した。
*****
白で覆われた空間。絵画のような色彩もなく、平坦で神秘的なその世界。そこに人がいた。いや、それは人ではない。人と表現するにはおこがましいほどの美貌。雪のように白い髪に、頭には星屑のように眩く、光の糸を編んだような金色が環状に輝いている。身体にシルクの艶のある純白の布を纏う。
注目すべきはその背中。
大きく、辺りを魅了する、白鳥のそれに似た力強く大きな羽が生えていた。
「あの少女が、ようやく動いたか」
声が発せられた。生物ではあるのかもしれない。それすらも疑わしい、空気よりも透き通る声。
その人物の行く手を拒まぬように両脇に並び、羽を閉じて頭を垂れた1人が呟く。
「彼女に天罰と救いを」
言葉を聞いた者が反芻する。
「天罰と救いを」
伝播するように広がっていき、沈黙が解放されたように彼らは同じ言葉を繰り返す。
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「天罰と救いを」
「口を閉じよ」
中央の一際大きな羽を持つ者が一言。聞こえるはずもない。なのにそれだけで全員がピタリと静まり返った。
「我の眷属を向かわせる。Το όνομά του είναι Ηρεμία──彼は人間の身ではあるが───」
「魔王如きでは抗えぬ」
金の瞳が、静かに世界を見据えた。
人間と魔王、その両者の運命に、干渉を始める。