18話 千草界
アオを見た瞬間、江山の顔に花が咲いたような笑みが浮かぶ。
「霧山さんじゃん、どうしたの〜??」
「知り合い?蜜世」
アオの知らない女子生徒が、彼女に訊いた。
「哀羅、さっき話してた編入生だよ。
そんでたぶんめっちゃくちゃ強いの」
「へぇ、蜜世がそこまで言うなんてね、」
哀羅と呼ばれた生徒は物珍しそうにアオを見る。
「もう一回聞く」
アオの声色が変わった。
彼女から異常な威圧感が溢れ出し、辺りの空気を凍てつかせる。暗く濁った青い瞳が、鋭く3人をまっすぐ見据えた。
「何、してるの?」
その一言で、彼らは体を強張らせた。
さっきまでの軽い表情が一瞬で引き攣る。
ただ1人、千草はアオを睨み返す。
「お前には関係ないっつったろ……帰れ」
「み、見ての通り、遊んでるんだよ!!
霧山さんも一緒に遊ぶ??」
江山が無理に笑みを作る。焦りが滲む声で言った。
「そうね、そうしましょう」
「はじめまして。私は吉川哀羅!! よろしく」
「黒滝、江山、それと吉川。傷だらけの少年に水をかけることが遊びとは到底思えないけど?」
黙り込んだ3人に追い打ちをかけるように、アオは静かに言い放つ。
「いじめって犯罪なんだよ?」
「大人しく千草を渡して。じゃないと…」
「い、嫌に決まってんでしょ!!
何よヒーローぶって。アンタだって、飛行訓練で千草を蹴り落とそうとしたくせに!」
アオは開き直った江山に冷笑を浮かべる、
「ああ、あれは……気に入らなかったんだ。
明らかにいじめに遭ってるのに……千草、君なら学生程度蹴散らせるはずなのに、弱いふりしててさ」
「気に入らない? それならアンタがやってることも同じじゃん。私たちも千草が気に入らないのよ。偉そうな口聞くくせに負け犬だし」
「そうそう、だから──」
黒滝が笑う。
「妹たちも守れなかったんだっけ?」
その黒滝の一言で、千草の表情が凍りついた。
彼は人をも殺す視線を突き刺す。
閉じ込めていた記憶の扉をこじ開ける。
一瞬で脳裏に蘇った、あの日の記憶。
時は、千草が10歳の頃まで遡る。
☆☆☆☆☆
静かな住宅街に、1つの目立たない家があった。そこには、2人の幼い少女と病気の母、
そして、1人の少年が住んでいた。
学校では成績トップで注目の的。
交友関係は幅広く、誰とでも話せる優等生。
それこそが、千草界だった。
良い噂の裏にはいつでも、嫉妬が付き纏う。
事が起きたのは、テスト返却の日の放課後。
教室での出来事だった。
「すごいな。全テストで学年1位なんてさ」
1人の貴族の少年が、胡散臭い笑顔で彼に声をかける。
「家庭教師もいない貧乏人が一位なんて、不正でもしたのかと思ったよ」
「はぁ?」
「まあ、可哀想だから見逃してやるけどね?」
「何言って……」
「母君が病気なんだっけ?そんな女のせいで苦労していると思うと同情するよ」
千草の胸の奥で、モヤモヤとしたものが騒めく。
「そうだ、僕に仕えてくれるなら、家に住まわせてやろう!!そうすれば汚らしい家も出られるし、厄介な女を気にする必要も……」
「俺の母さんを、侮辱するな!!!」
気がつくと、千草の拳は少年の眼前に迫っていた。
少年は、にやりと笑う。
彼は自ら教室の壁まで吹っ飛んでいった。
壁に衝突した振動が床に響く。
腕を突き出した状態で固まった。
拳に、衝撃はない。
(まだ、何もしていないのに)
周囲で様子を見ていた生徒が息を呑む。
「な、何事だ!?」
教室に入ってきた教師は、顔を青ざめさせ、
千草に叫んだ。
「貴族様の子を殴るなんて、許されざる行為だぞ、千草!!!!」
「ち、違います、今のは、、!」
「言い訳など聞きたくない!!お前はもっと賢い生徒だと思っていたのに……」
その一言は、千草の心を深くえぐった。
結局、千草は白警、いわゆる警察に突き出された。
「貴族様のご子息に手をあげるとは、万死に値するぞ!千草界!!」
「違う!! あいつが勝手に!!! 俺は殴ってなんか……!」
「黙れ!! 貴様のような下賤の者の言い訳など、聞くに値せん!!」
“暴力沙汰“として処理された。
白警の男の鞄には、札束がぎっしり詰め込まれていた。彼が貴族に頭を下げる姿が、千草の目に焼き付いた。
翌朝。
千草はコンビニの前で、バイト先の上司に叱責されていた。
「何度言ったらわかるんだよ、にぃちゃん。
クビだよ、クビ。俺も話を聞いた時は驚いたって。暴力を振るうような子だとは思わなかったし」
「誤解っす! あいつは勝手に吹っ飛んだんだ。
俺は殴ってなんか……」
「にぃちゃん。もしそれが事実を言ってるんだとしても、俺は貴族や白警の言うことを信じるしかねぇんだ。お前のことは、」
(そうか、俺はもう…)
「信用できないんだよ」
(誰からも信用されないんだ)
千草は、その日を境に七つのバイトを全て失い、家では近所の子どもたちに石を投げられ、学校では貴族たちに陰で嘲笑された。
(次のバイトを探さないと…いや…もう俺のことなんて…)
何日も飲まず食わずでふらふらと町を歩いていた時、国防軍の隊員たちが楽しそうに買い物をしているのが見えた。
その1人は、白警署の刑事の後ろに見かけた体格の良い男だった。
(クズの仲間のくせに……金だけは大量に持ってやがる…)
千草の視線は彼の財布に向いた。
(こっちはお前らのせいで金がないんだ…。
仕方、ねぇ、よな…)
千草は静かに尾行を開始する。
男はポケットに財布をしまい、仲間と別れて歩き始める。
千草は、男の横を走り、通り過ぎる瞬間に呟いた。
「……《転移》」
路地裏まで走り去る。
緊張が解けると同時に満面の笑みが溢れる。
「やっ、た……!!」
「……奪ってやった!!!」
彼の手には、先程まで男のポケットにあったはずの、財布が握られていた。
「ははは!! やっぱり溜め込んでる!! 5万、いやそれ以上!! うわ、ブラックカードって!
これだけありゃあしばらくの家賃も支払えるな!! 家族のみんなも養えるし──」
「何をしている?」
「ひっ……!?」
背後からの低い声に、千草は跳ねるように後退した。
「む……すまない。
そう驚かせる気はなかったんだが」
「お前、さっきの!!」
「財布を返してくれないか?」
「そう言われて返すわけないだろ!?」
「そうか」
あまりにも淡白な返答に、千草は思わず呆れる。
「天然かよ…?」
「俺は南本誠治郎。天然ではない。
お前の名は? なぜ財布を盗んだんだ?」
(なんなんだこの男は…相手に財布を盗まれてるってのになんでこんな堂々としてんだよ…
無理やり取り返そうとする気配もないし…)
「…俺は千草界。信じちゃくれないだろうが、俺は冤罪で白警に捕まった人間だよ」
「千草……あぁ、よく覚えている」
(どうせ…お前も)
「この間は庇ってやれなくてすまなかった。
俺は、お前を信じている」
その言葉で、千草の瞳に光が宿った。
「…はぁっ?……そんな言葉……、
いまさら信じられるわけないだろ!!!」
「白警に潜入捜査をしていてな。あの刑事が悪徳貴族の連んでいるという情報を掴んでいたから、洗い出しを行っていたんだ。本当にすまなかった。盗みを働いたのも事件が原因なのだろう?」
(信じる…?何年も続けたバイトのおっさんも、教師も、誰も信じてくれなかったのに…)
「服の破れ具合と汚れ方から見るに、家に帰れていない、いや帰れないんだろ?俺は孤児や居場所の無い子供達を保護しているんだ。
代わりといってはなんだが……、俺たちの"家"に来ないか?」
「“家”だと? いやでも家族が……」
「そこはできる限りの支援をしよう。
俺に、ついてきてくれないか?」
強引。
でも彼は真っ直ぐで嘘のない目をしていた。
(この人は、クズじゃない。俺の言葉を信じてくれる)
溢れそうになる涙を堪え、同じように真っ直ぐ南本を見た。
「わかった……いえ、家族をお願いします。
……南本サン」
彼は、胸の奥でそっと思った。
(もう一度だけ、信じてみてもいい)
悲劇は重なり、繰り返されるとも知らずに。