9
「あの……付け足しですが……そもそも私、恨んでません。烏丸さんが言ってくれたのは正論だと思ってます……」
烏丸さんの眉がぴくりと上がる。
「情け無い話なんですが……私、無職になってからの1週間、すごくクヨクヨしてたんです。塩をまぶされたナメクジみたいに。後悔ばかり頭に浮かんで」
音大も出ていないのにピアノ講師をしていたから、同じ職に就くのは難しい。
事務仕事をしていたら良かったのか、もっと別な選択肢はなかったか。
考えても仕方のないことばかりが頭の中を巡っていた。
「でも……あなたの動画を見て、止まっていた時間が動き出しました。私に必要なのはスキルじゃなくて勇気だ、って……そう気づかせてくれたんです。だから、あなたに会いに来ました。でも、具体的なアクションプランはまだ浮かべられてなかったんです」
烏丸さんは静かに聞いてくれている。
「ホールであなたと話すことができた……無駄時間をなくせ、って言葉、響きました。アパートに戻ったら、真っ先に転職サイトに登録します。明日ナローワークにも行ってみます。前向きになれたのは烏丸さんのおかげです。もらった言葉……忘れない。本当にありがとうございました」
そう。私はあなたの言葉に救われて、あなたの言葉で行動を変えた。
私はふふっと笑ってしまう。
「でも、良かった……嫌われたって落ち込んでいたけれど、言い訳できるチャンスがもらえてラッキーでした。ちゃんと気持ちも伝えられましたし。あなたにすごく感謝してるって……本当良かった。神様っているんだなあって今、すごく思ってます」
ああ、もう、本当にスッキリ爽やか!
「……と言うわけで失礼します!」
私は頭を下げ、烏丸さんの傍らをすり抜ける。
階段を下りる途中で呼び止められた。
「おいこら、待て」
ビクッとしながら振り返る。
「ったく、そんなにビクつくな。受け取れ」
烏丸さんが投げた何かを私は慌ててキャッチする。
それは青い紐付きのネームプレートだった。
表側にkから始まるローマ字が印字されてある。
「ka……カラスマ?」
「本社ビルの入場パスだ。明日の朝7時半に社長室へ来い」
「え?」
私は彼を見上げた。
「烏丸商事の採用倍率を知ってるか? 結構な狭き門だぞ。そこに君は一足飛びで行ける。このカードはプラチナチケットだ。それなのに君は捨てるのか? 落ちてきた運を掴まないのは怠慢だと俺は思うが」
もしかして、この人は本気で私を採るつもりなのだろうか。
「でも……どうして……」
「君が俺の求めていた運命の相手だからだ」
「冗談……?!」
「本気だ。いいか」
烏丸さんは真っ直ぐに私を見つめた。
「君は会長に気に入られている。一族に迎え入れたいと思わせた。正直凄腕だと思うよ。会長は人を見る目がある。そうでなきゃ、100%就職する気がないなんて言ってのける女を誰が拾うか」
「すみません、やっぱり傷つけましたよね」
「違う。君の牙も爪もこの俺様に刺さったりしない。自惚れるな」
私はびくりと肩をすくめる。
「うちに興味のない人間なんて、どんなに優秀でもゴミと同じだ。だが、たとえゴミでも、もう俺は君を手放さない」
烏丸さんの目が、獲物を狙う肉食獣のような鋭さを帯びる。
「会長に気に入られていること。その価値は最強だ。それなのに君は無自覚でだからこそ信用できる。無欲で善良な人間を秘書に欲しいと思っていたところだ」
「秘書……! 私には何のスキルもありません」
「スキルはいらない。素顔のままの君が欲しい」
まるでプロポーズみたいな熱い言葉に、私の頬は赤くなる。
「スマホの切り忘れ、君のじゃないのに隣の女性を庇ったろ」
気がついてたんだ!
「咄嗟にとる行動で性格はわかる。もちろん行き過ぎた自己犠牲はよくないが、今時珍しい善良さだ」
「でも、そんな事くらいで……」
「それだけじゃない。君は失敗を笑いに変えた。隣の嘘つき女が君と同じ行動をしても、会場はわかなかっただろうな」
そして彼はまっすぐに私を見つめてこう言った。
「四の五の言わずに、うちに来い。俺がただの石ころをダイヤに磨き上げてやる」
この人は本気だ。
そう思った。
誰かが私を磨き上げる。
今の私じゃいられなくなる。
就職を探そうと思っていた私。
成長したい私。
変わりたいと心から思っている。
それなのに、足が震えてしまうのは……手を差し伸べているのが、魔王だからと言うのが大きい。
普通のОLになるかピアノ講師になるか。
迷わず後者を選んだのはそっちの方が楽しそうだったから。
烏丸さんの秘書は、私にとっては冒険だった。力が足りてないのは自分が一番わかっている。
即首になってしまうかも。そうしたらまた、無職に……。
無駄な時間を過ごしてしまう。
それでも。
「過去も未来もない。今ここに集中しろ」
動画の烏丸さんの声が鳴り響く。
そしてリアルの声と重なった。
「迷うなら成長する道を選べ。俺ならそうする」
成長。
ごくん、と私は唾を飲む。
そして……。
「よろしくお願いします!」
震えながら頭を下げたのだった。