8
廊下を早足で歩き、出口を目指す。
ネガティブな感情の波に襲われた時、私の頭の中では脳内会議が繰り広げられる。
「ちょっと何落ち込んでるの?」
「タツキさんを傷つけちゃったから……」
「馬鹿ねえ。それでいいのよ。烏丸グループの嫁なんて庶民に務まるわけないでしょ」
「そうか。だよね」
「まさかその事忘れてた?」
「……うん」
「て言うか、あんたにはやる事あったでしょ」
「それも忘れてた!」
私は拳を握りしめた。
「家に帰って就職サイトの登録! それが私のミッションよ!」
「ファイト!」
「ありがと」
ふう。
心の中のツッコミ小人と対話して、少し心が落ち着いた。
こんなちっぽけな、何の影響力もない私が誰かのハートを傷つけたのかも、なんて。
傲慢もいいところ。
タツキさんは、私に過分な評価をくれただけ。
それに、小人の言う通り、タツキさんも烏丸さんも別世界の人だ。
(それでも……私がもう少しまともな態度をとっていたら、お友達くらいにはなれたのかな)
公園で烏丸さんの話題なんか出さなかったら。
この後、タツキさんと友達になって。
タツキさんと何かの楽器のセッションして、それを烏丸さんに見てもらって。
推しとほんの少し触れ合える、夢みたいな時間を過ごすことができたのかな……。
ああ……私って……。
しょんぼりしてしまうが過ぎたことを悔やんでも仕方ない。
「大事なのは今、ここからだ」
推しの言葉が蘇ってきた。
パチンと頬を両手で叩き気合をいれる。
よし。
今から自分の道を歩こう。
一歩踏み出そう!
「おい」
突然誰かに肩を掴まれた。
振り向くと……烏丸さんがいた!
「う、うわあ」
恐怖に私は震えあがる。
冷ややかな目と視線があった。数秒前、病室にいた時とはまるで違う。これはまさに魔王モード。
私は駆け出した。
「待て」
呼ばれるけど、当然待たない。
しかし廊下の途中で捕まってしまった。
あっという間に腕を掴まれて捕獲。ううう、怖すぎる。
「あ、あ、あのっ」
恐怖に私は震えあがる。
首と背中を大きく逸らせて見上げれば、冷ややかな目と視線があった。病室にいた時とはまるで違う。これはまさに魔王モード。
また悲鳴をあげそうになるが、背後から抱えられるようにして大きなてのひらで口を塞がれた。
「うっ……ううっ」
私の呻き声が、大きなてのひらに吸収されていく。
「静かにしろ」
ばたつく私を難なく抱え込み、烏丸さんは大股で廊下を歩く。
いかにもな拉致スタイルだが、すれ違う人たちは皆、烏丸さんの素敵なルックスに目がいくようで、ぽっと頬を赤らめている。
私など眼中にないらしく、助けてくれそうな人は皆無だ。
烏丸さんは階段を下り、暗い踊り場で立ち止まった。
私ははあっ、と息を吐く。
「す、す、す、すみませんっ」
恐怖のあまり私は情けない声を上げた。
「なんで謝る?」
「なんとなく!」
片方の目が値踏みするように細められる。
彼が一歩足を前に踏み出し距離を縮めてきた。
逃げを打つ。が、すぐに壁へと追い詰められる。
お約束のようにどんと右肘を壁に押し付け、威圧的な眼差しがひた、と私を見据える。彼の体の熱が伝わってくるほどの至近距離だ。怖い。やたらと胸がドキドキする。
「おいこら、無駄が大好きなピアノ講師」
「やっぱり気付かれていましたか」
「当然だ!」
顎を摘まれ上向かされる。
まるでキスの直前みたいなジェスチャーに、心臓が大きく跳ね上がる。
「君は一体何者だ? 老人を騙して利を得る詐欺師か? それとも俺に復讐したいのか? 元ピアノ講師の経歴も嘘か?」
「嘘なんかじゃ……」
「ならば何故、俺から逃げた」
「逃げてなんか……」
「たった今逃げたろ」
「……それは……」
私は口ごもる。
もうタツキさんのせいでバレてるけど、できれば……理由を自分の口から告げたくない。
「俺が確かめてやる」
ごまかしを許さぬ鋭い目でしげしげと見つめられた。
多分、ほんの数秒間。それが永遠に続くかと思えるほど長く感じる。
やがて指と体が離れた。熱い体温が遠ざかるのを感じ、私はやっといつもの呼吸をする。
「何か企める顔じゃないな。典型的なアホづらだ」
彼は腕組みしてそう言った。
どうやら疑いは解けたらしい。
私は死ぬほどほっとした。
「そ、そ、そうですよ。こうなったのは、ただの偶然で……」
この期に及んで怒るでもなく、まだ言い訳を続けるなんて、私は本当に小心者だ。
ああ……自分で自分が嫌になる。
「なら、なんでそんなにビクつく。理由がないとは思えない」
案の定突っ込まれ、
「ううっ」
これ以上、隠せない。
「すみませんっ」
私は烏丸さんに一部始終を話した。
タツキさんとの出会い、そして……流れで烏丸さんとのことを喋ってしまったこと。
「……悪口を言うつもりじゃなかったんです! 誹謗中傷で株価を下げる気もありません! 会社名も、烏丸さんの名前も伏せましたし……でも、でも! ごめんなさいっ!」
そう言って頭を下げる。
やっと言えた……。
沈黙が続く。
恐る恐る顔をあげると、烏丸さんは顎に手を当てて不可思議な表情を浮かべていた。
「……君の頭の中はゴミだらけだな」
目が合った瞬間、そう言われる。
「は?」
「全く、よくもまあ、そんな無駄なことで悩めるもんだ」
「あの、どういうことでしょう?」
「言いか。聞け」
烏丸さんは鋭い目で私を睨む。
「君が俺の悪口を触れ回ったところで、俺様には何の影響もない。俺を舐めんな」
「ひいっ」
「……それ以前に、そんなのが悪口になるか!」
「えっ……そうなんですか?」
私は両眼を見開いた。
「あれだけ酷いことを言われたんだ。愚痴ぐらい言いたくなって当然だろう」
「酷いって、そう思ってたんですか?!」
「……ああ、悪かったな」
踏ん反り返った、王様みたいな傲慢な顔で烏丸さんは言った。
「謝った……!」
私は、彼が頭を下げてきたことに驚きを隠せない。
「どちらにしても、ノーダメージだよ」
断言されて、肩からすーっと力が抜けていく。
「良かったぁ……」
自分が極悪人にでもなった気でいたが、どうやら、さほどの事はなかったらしい。烏丸さんは呆れ顔で私を見ている。
「全く……最初から堂々としていればいいのに。嘘をつくから疑われるんだ。嘘はこの世で一番、リスクの高い行為だ」
そう言われると、少しだけ反発したくなる。
私はジト目で彼を見た。
「烏丸さんだって……」
「は?」
「タツキさんに隠してるじゃないですか。私とのこと」
ぐっ、と烏丸さんが言葉に詰まる。
「それは……」
目が泳いだ。
魔王らしくない、新鮮な表情に私は引き込まれるが、
しかしそれも一瞬で、
「別にそんな事はどうでもいい」
明らかにごまかされてしまった。
でも、少しだけホッとする。完璧で自信満々なだけじゃない、普通の烏丸さんが今の感じで見えた気がした。