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(なんで烏丸さんがここに?! じゃあさっきのは本人だったの?! タツキさんの知り合いってことよね? もう、わけがわからない!)
心臓がパクパクと音を立て、全身からじっとりとした汗が噴き出す。
蛇の穴に迷い込んだカエルの気分だ。
被害妄想……ではないと思う。
私の立場なら、誰だってこの場から逃げ出したくなるはずだ。
(なんで冷徹なんて言っちゃったかな?!?! クールより印象悪いじゃない……! ああ、聞こえてませんように)
私は必死にそう念じる。
「会長。トマトジュースです」
烏丸さんはタツキさんに缶ジュースを差し出している。
(会長?! なんの会長なの?)
「おお、わしの好みを熟知しとるの。さすがは我が自慢の孫じゃ」
(孫?!?!?!)
点滴のタグに「カラスマタツキ」と書かれてあるのが目に入る。
(タツキって、名前!? 普通苗字を教えない? て言うか身内なのに敬語なの?)
謎が深まってしまった。ひらめき力に欠ける私には解けそうにない謎である。
(逃げなさい。それ以外ないわ)
私は自分で自分に言い聞かせると、ドアに向かってジリジリと後退した。
ところが
「ひかりさん。紹介しよう。孫の怜じゃ」
あっけなく呼び止められてしまう。
私はビクッと肩をいからせ、立ち止まる。
「怜よ。わざわざここに呼びよせたのは会わせたい人がいたからじゃ」
タツキさんは私と烏丸さんを交互に見ながら言った。
「この方は命の恩人、倉田ひかりさんじゃ。素晴らしい女性での。公園で年寄りの話し相手になってくれただけじゃなく倒れたわしを救急車にのせ、付き添ってくれた。その手際ときたら……感心するばかりでの。善人ぶるのは誰でもできる。しかしいざと言う時、なかなか体は動かないものじゃ。咄嗟の時にこそ人としての真価が問われる。彼女は今時珍しい善良な人間。ダイヤの原石ぞよ」
うわあ……タツキさんったら。
褒め上手の本領発揮だ!
そして人間をダイヤモンドに例えるあたり、烏丸さんと流石に似ている。
というよりも、烏丸さんがタツキさんの影響を受けたのだろう。
ありがたいけれど冷や汗が止まらない。
だって目の前にいる烏丸さんは、私がダイヤモンドどころか、無駄のプロフェッショナル、ダメ女だって知っている。
「は? どこが?」
なんて言われたら……。
(立ち直れない……)
私は髪の毛をとっさに肩へと垂らし、顔面積を圧倒的に狭くしながら「いやいやいや、そんな……人として当然のことをしたまでです」と早口で言った。
烏丸さんは深く頭を下げた。
「祖父を助けてくださりありがとうございました。心よりお礼申し上げます」
おそるおそる彼の目を見る。
そこには、訓練された礼儀正しさ以外の、どんな感情も読み取れない。
焦りまくっていた心に一筋の光がさしかかる。
(もしかして私のこと、覚えていない?)
私にとってはトラウマ級な出来事だったけれど、烏丸さんにはよくある日常の一コマで、しがない元ピアノ講師のことなんて、すでに頭の中から消えているのかもしれない。
(そうだったらいいんだけど……!)
「わしが戻したものをあんたは素手で受け止めた。なかなかできんことじゃ」
私の戸惑いに気づいてないらしく、タツキさんは私を褒め続けている。
通常運転なら恐縮しまくって溶けてしまいそうなシチュエーションだが、それどころじゃなかった。
私の意識は魔王に向けられており、タツキさんの声はBGMと化していた。
烏丸さんは神妙な顔で聞いていた。
(……気づいてるのか、気づいてないのかわからない……ポーカーフェイスにも程がある……)
でも……ちょっと良かったかも。
馬鹿で無駄なピアノ講師。
そのイメージが上書きされたわけではないけれど、倉田ひかりとしては、身内を助けた恩人として記憶される。
そんな事を考えていたら、しれっと爆弾が投下された。
「しかし、わしの命が助かったのも、馬鹿社長が彼女を追い出したおかげじゃの。人生万事塞翁が馬。運命はうまいことできておる」
(ええええええええ、今ここでそれを言いますか……?!)
消えていた記憶が蘇ったらどうするの?!
卒倒しそうな私の前で、烏丸さんは首をかしげる。
「馬鹿社長?」
(ああ、スルーして欲しかった……)
「会社説明会でな、元ピアノ講師だったひかりさんに、ピアノは無駄とか説明会に来るのは無駄とかウザ絡みして、説明会から追い出した社長がいたらしいわ」
「なるほど。確かに馬鹿社長ですね」
意味深な目が私に向けられて……。
あまりのショックに卒倒しそうな私の全身を舐め回す。
「じゃろ? 同じ社長でも腰の低いお前とは大違いじゃ。しかし己も同じ間違いをしないよう、今以上に気を引き締めていくのじゃぞ」
「肝に銘じます」
はい。終了。
心の中で血の涙を流す。
これで思い出さないわけがない。
っていうか、ここまでとぼけるってことは、最初から気がついてましたね?
「まあ、心も見た目もねじまがっとるんじゃろうなあ。ひかりさん曰く、見た目は宇宙人、性格は魔王じゃと。同じ社長でもルックス、人格共に恵まれたお前とは大違いじゃ」
ダメだ。
タツキさんの暴露は止まらない。
「あっと……私はそろそろ帰ります……」
「待ちんしゃい」
タツキさんは私を引き留めこう続けた。
「わしはあんたの優しさに惚れた。というわけでお願いがある。うちの孫と結婚してくれんか?」
え。
今なんと言いました?
烏丸さんに向けていた矢印がググッとタツキさんに方向転換した。
「血痕……」
私はキョロキョロと、どこかについてないかと己の衣服をあらためる。
「結婚じゃ」
結婚!
しかも烏丸さんと!
大型爆弾が落とされた。
「あの、それは……ええと……」
一気に全身の血液が顔へと上がっていく。
「あらゆる人間を見てきた75歳のわしが言う。ひかりさんは天然のダイヤモンド。ここで拾わねば宝をみすみす捨てることになるぜよ」
タツキさんは力のある声で言い切った。
やめてください。タツキさん。
烏丸さんにそんな気は一切ありません!
だって無駄のプロフェッショナルと命名したのはあなたの孫、この人なんです。
効率化の鬼が無駄のプロを娶るなんて100%ありえない!
「結婚ですか」
烏丸さんは顎に手を当て呟く。
ほら、困った顔してるじゃない……!
これ以上は放置できない。
不毛なやり取りに決着をつけなきゃ!
私は盛り上がってるタツキさんに向かって叫んだ。
「それはできません! 絶対に無理です!」
しん、と病室が鎮まりかえる。
タツキさんだけでなく、烏丸さんまでもが驚いた顔をしている。
ああ、説明をすっ飛ばして結論だけ言ってしまった。
「我が孫に不満かの?」
タツキさんは縋るような目で尋ねてくる。
もちろん、そんなわけではなくて、この人は私の推しなんです。そして、その推しの窮地を救う義務が私にはあるの。
「怜は総合商社烏丸商事の社長じゃ。昔から真面目で文武両道。身内が言うのもなんじゃが、いい男じゃぞ」
「いや、でも……」
「わしにはわかる。この出会いは運命じゃ」
ええ。
タツキさん。
私もそう思います。
烏丸さんと対峙した、そのどれもがドラマティックでした。
でも、その運は悪運なんです!
「恩返しなんて……私はタツキさんが元気になってくれただけで嬉しいですし、それに結婚は……好きな人とするものだと思います……義務でするものじゃないですよ」
烏丸さんは黙っている。
タツキさんは残念そうな表情で額を撫でた。
「こりゃ正論じゃのう。すまんかった。ひかりさん」
「あ、いえ、すみません、こちらこそ」
烏丸さんも遅れて言った。
「結婚相手など自分で選びます。会社に最も利益をもたらすメリットの大きい女性を」
どこの馬の骨ともわからん女性ではなくて、と小声て言われ、耳朶まで赤くなってしまう。
本当にその通りだ、と私は大きく首を縦に振った。
タツキさんは肩を落とした。
「そうか……いかんのう。本人の意向を無視して願望を押し付けるとは……わしもやきが回ったようじゃ」
タツキさんは落胆し切った様子で項垂れている。
(あああああああ! いいことをしたはずなのに気が咎める……)
でも。
烏丸さんもタツキさんも素敵な人だからこそ。
この場のノリで、適当な返事でお茶を濁すなんてできなくて。
だから……。
「私、帰りますね……長居してごめんなさい。タツキさん……お大事に」
「ああ……気をつけて……」
よっぽどショックだったのか、タツキさんの声が小さくなっている。
(ごめんなさいっ)
私はぺこりと頭を下げ病室を後にした。