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ピアノは基礎練が何より大切だ。
特にはじめたばかりの頃は愚直に講師の言いつけを守り、基礎を繰り返すべきである。
私はピアノの上達が早かった。
与えられた課題をこなしてさえいれば前に進めた。
指はさほど長くないし音楽センスがあるわけでもない。
大きな夢があったわけでもない。
でも素直だから上達するのだと先生にいつも褒められていた。
素直さは何も持たない弱い自分の唯一の武器なのだろう。
だけど、その素直さが……時として己の首を絞める。
私はすぐ他人の言葉に引きずられる。
何を言われても素直に納得してしまうのだ。
「ピアノみたいな無駄の塊に投資できたのは君が馬鹿だったからだろうな」
(はい。おっしゃる通りです……)
私は猫背でよろよろと歩く。
馬鹿という評価は納得した。
出て行けと言われたのも温情だろう。
私に必要なのは、確かに就職活動だもの。
なのでヒーローさんに怒りも恨みもないが、落ち込むくらいは許してほしい。
だって……。
(どうしよう……烏丸さんを傷つけてしまった……)
どんな地雷を踏んだのだろう、と考えているうちにわかったのだ。
烏丸さんは烏丸商事という会社にこの上ない誇りを持っていた。
だから、「御社に就職する気はない」なんて言われて、とてもショックだったのではないだろうか。
しかも、私のような無駄の塊のポンコツ女に。
大切なものを冒涜されたと感じたのだろう。逆の立場なら私だってそう思うもの。
(こんなことなら、引きこもってれば良かった……最初から転職サイトでも見てれば誰も傷つけなかったのに)
はあああああ。
時を巻き戻したい……。
烏丸さんはある意味私の推しだった。
前を向く勇気をくれた大切な人だった。
モニター越しに見ていたら良かったのに、まさか、こんな事になってしまうとは。
その時ひゅーっという、聴き慣れない音色が耳に飛び込んできた。
視線を横に向けると、公園のベンチで草笛を吹いている小柄な老人が見えた。
日焼けした肌に真っ白な短髪。
カーキ色のつなぎを着て、髪だけ見ると七十歳は超えていそうだけれど、若々しい印象だ。
男性は、口に緑の葉をあてて古いミュージカルの曲をかなでていた。
「すごい。ちゃんとメロディになってる……」
独り言が届いたらしく、老人は演奏をやめて私ににっこり笑いかけてきた。
その笑顔も草笛の音色と同じくらいヒーリング効果満載で、私も思わず笑顔を返す。
手招きされて、私は公園へと入っていった。
「お嬢さんもやってみるかな?」
老人は背伸びして細い枝に生えている新しい木の葉をプチっとちぎった。
「是非! 教えてください!」
普段なら見知らぬ人とそんな簡単に言葉を交わしたりしない。
でも音と笑顔に魅了された私は、木の葉を受け取ると唇へ当てた。
息がそのまま空中に漏れていく。
「む、難しい」
老人は笑うと隣に座った。
「こうやるのじゃ」
草笛のレクチャーが始まった。
老人はタツキさんと名乗った。
会社を退職して悠々自適な毎日を過ごしており、今日は朝から都内の公園をまわり、バードウォッチングを楽しんでいたのだという。
「朝目が覚めると、ワクワクするのじゃ。今日は何をしようかの、と。会社勤めの時には知らなかった感情じゃわい」
タツキさんは精悍に笑う。
「すごく豊かな毎日ですね……そんな風に生きられたらいいなあ」
心の底から称賛すると、タツキさんは嬉しそうににっこり笑った。