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一ヶ月前、私は突然無職になった。
勤めていた音楽教室が倒産したのだ。ピアノ講師歴五年目の五月。寝耳に水の出来事だった。
母からは散々「だから普通のОLになりなさいって言うたでしょ!」となじられ、上司には「悪かったねえ。倉田先生の未来を潰してしまって」と謝罪された。
短大秘書課出身の私。
ピアノ講師は間違った選択肢だったのかも。
新卒後の貴重な時間を無駄にした?
この世で一番嫌いな感情、後悔が、どこにいても押し寄せてくる。
そんな時、つけっぱなしにしていた動画サイトから、烏丸さんの切り抜きショートが流れてきたのだ。
オフィスらしき背景をバックに一人語りの撮影スタイル。
『変わろうと思った瞬間に人は変われる。過去も未来も関係ない。大切なのはたった今、前へと一歩、踏み出す勇気だ』
よく通るバリトンに、鼓膜と心を思いっきり殴りつけられた錯覚を覚え……。
即座に会社説明会への参加を決めた。
半端者の私は過去を悔やみ未来が見えなくなっている。
そんな私の背中を蹴飛ばすパワーが、この声と言葉にはある気がしたから。
そして会社説明会本番の今。
「弊社は創立100年を超えました。しかし老舗という立場にあぐらをかくつもりはない。さらなる上を目指し世界を牽引していきます。実際、四年前に代替わりしてから業績は右肩上がり。成功の秘訣を今から皆様にお教えしましょう」
烏丸さんはピッと人差し指を天に立てた。
「それはゴミ時間をなくし目の前のタスクに集中することです」
私はうっとりと、そのパフォーマンスに見とれてしまう。
自信がないと取れないポーズ。私には一生無理だろう。
「どんなに長生きしたところで人の寿命はたった100年。そう。人生には限りがある。それなのにほとんどの人は、毎日を無駄なことに費やして時間をドブに捨てている。それではいくら足掻いても理想の未来は掴めない」
(無駄時間の排除! 確かに……!)
なりたてほやほやの烏丸信者は、首振り人形と化し、心のメモ帳にその言葉を書き込む。
背中を蹴飛ばされるほどのインパクトはないものの、前向きなパワーを浴びてる気がする。来てよかった。
(今日から無駄のない新しい自分になろう)
私はそう決意した。単純である。
「さて。今ここにはたくさんの人材が集まっている。この機会をただの説明会で終わらせてしまうのは……宝をドブに捨てるようなもの」
烏丸さんは演台に両手を置いて、にっこりと、美しい笑みを浮かべた。
「というわけで、今から宝探しを始めましょう」
宝探し?
一瞬意味がわからなかった。
私だけではなかったらしく、会場へざわめきが広がっていく。
「これだけの人がいるわけだ。ダイヤの原石が沢山落ちているだろう。拾わない手はない。採用面接を開始する」
舞台袖から現れた茶系のスーツを着た男性が、両手でバツ印を作っていたが烏丸さんはそれを無視している。
つまりこれは予定調和ではなく突発的な行為らしい。
最前列の大学生ぽい男性が手をあげた。
「ファーストペンギンだな。どうぞ」
烏丸さんが、発言を促す。
「あの、エントリーシートがまだなんですが」
「不要です。ディスカッションで十分」
「準備不足です」
「素顔で勝負すればいいじゃないですか」
烏丸さんは周りを見渡した。
「お互いの人生に必要な人物なら、数分、いや、一瞬でわかるでしょう。うちは完璧な買い手市場だ。能力のない人間……いや、勇気のない人間は必要ない。御膳立てがないと何一つできないなんて子供と同じだ。不満ならどうぞお帰りください」
「えっ?」
「時間は有限。命より大切なものだろう。君と弊社の価値観は合わない。これ以上ここにいるのは無駄では?」
しん、とその場が静まり返る。
「わかりました」
男性は一礼すると出ていった。
私の隣を通りすぎる時、赤くなっている顔が目に入った。
(衆人環視の中、気の毒だわ……)
私は彼に同情する。
「今の彼は有能だな。選択が速い。不要な時間はカットすべきだ。切り捨てられたのは残念だがね」
烏丸さんは軽快な足取りで客席へと降りてきた。
ネクタイの結び目に指を入れシュッと緩め、第一ボタンを外し、にやりと笑う。
「ボルテージが上がってきたな。ここからは俺も素顔で行く。このノリが合わないなら、どうぞ、今すぐ出ていってくれ」
ラフな口調になった烏丸さんに、ますますその場が凍り付く。
心臓がとくとくと早鐘を打ち始めた。
私でさえそうなのだから、就活生たちは心臓が止まりそうだろう。その緊張が伝播してきて拳に冷たい汗が滲んだ。