18
2人の男性スタッフによって急遽舞台上にあげられたグランドピアノ。
(あそこで演奏を……どうしよう。手が震えてきた)
緊張して指が動かなくなったら悲惨である。
「公園の天使のパフォーマンス、楽しみにしてますよ」
永保社長に声をかけられる。
「無名の元ピアノ講師なのに……本当にすみません」
と言いたいところを
「素敵な舞台をありがとうございます」
と無理やり言い換えて伝える。その声が震えており、ますます私は縮こまった。
永保社長は優しい口調で言った。
「ひかりさん、リラックスしてください。私は上手な演奏が見たいんじゃなくてあなたの演奏が見たいんです。タツキ会長と草笛を吹いて遊んだんでしょ。そんな女性の弾くピアノ……楽しみっていうのは社交辞令じゃありませんからね」
「でも、そのことを知っているのは二人だけです……」
山田社長が優しいから、私はついそんなことを言ってしまう。
「それでいいじゃないですか。私たち二人を楽しませれば大成功ですよ」
そう言われてハッとした。
確かに芸術とはそういうものだ。私はいつのまにか完璧主義になっていたのかも。
「俺に君はすごいと言わせてみろ」
魔王烏丸も便乗する。
この人の感情を揺らせるチャンス。
(それって、かなり凄いことだわ)
「わかりました。あなたに音楽の魅力を気づかせてあげます!」
そして……。
私は背筋を伸ばして舞台に上がった。
「音楽万歳!」
ほろ酔い加減の永保社長がそう言って、一瞬だけフロアがしん、とした。
皆の注目が私に集まり緊張が高まった。
私は舞台下の烏丸さんに目をやった。ビジュアルに華があるのですぐわかる。
彼は腕組みをして、まっすぐに私を見つめていた。
目と目があった瞬間、ニヤリと笑う。
『俺をうならせてみろよ』
心の声が聞こえた気がして、背筋が震える。
と、菊池さんの顔が見えた。
私をすごい顔で睨んでいる。
多分、烏丸さんが何らかの方法で呼び寄せたのだろう。
彼女の前でかっこよくプレイする私を見せつけ、自信を取り戻せと言いたいのだろう。
私の流儀とは違うけれど、誰かが私のために動いてくれる。
それが普通とは思わない。
私みたいな道端に転がっている、平凡な石ころみたいな人間の生き方を、彼は変えてくれようとしているのだ。
なんてありがたいことだろう。
(もう、こうなったらやるしかない)
自分で自分に言い聞かせ、フロアに向かってお辞儀をすると、たちまち拍手に迎えられた。
烏丸さんも真剣な目で手を叩いている。
私は椅子に腰掛けると、深呼吸をした。
選曲は「皇帝円舞曲」。
第一音を聞いた瞬間に心が震えた。
ああ、久しぶりのピアノの音……。
気持ちがいい。音が指を使って体へと侵入し、フロア全体へと広がっていく。
聞く人たちの心を震わせられているといいな。
指が走る。ようこそ。皆さま、音楽の世界へ。
私はこの世界の魔法使い。非現実の魔法を、クールな魔王とそしてここにいる全ての人に届けてあげる。
無我夢中の数分が過ぎ、演奏が終わると拍手喝采が待っていた。
笑顔で応えながら、彼を探す。
永保社長はさっきと同じ場所にいて、両手を高く上げて拍手をしていたが、その横に烏丸さんの姿は見あたらなかった。
(どこなの)
たちまち不安になる。
私は思わずハイヒールを脱ぎ捨てた。
何故か小さな歓声がわいた。
私は鍵盤に指を置く。
チョイスしたのはベートーヴェンの『英雄』だ。烏丸さんのための選曲だった。
傲慢で冷徹でクールで魔王のように神秘的で、凛とした彼にはこの曲が一番合うと思う。
(あなたにこの曲を捧げます)
そう思いながら、私は指を滑らせていた。
演奏を終えて、頭を下げる。
不思議だ。こんなに沢山の人が私に注目している。
それなのに……一番聞いて欲しかった人は、今どこにいるんだろう。
拍子抜けしつつも靴を履く。もう一度見回してみたが彼はいない。
飽きてどこかに行ってしまったのだろうか。音楽に興味はなくとも勝負事には好きだと思った。だから聞いてくれると信じていた。それなのに……。
がっかりしながら階段を降りた。
「素晴らしかったです!」
永保社長が私に握手を求めてくる。
そして、小声で囁いた。
「烏丸社長がバルコニーで待ってます。行ってください」