第3話 ギルドの街、クウェール
結局、俺は船を降りることなく、ラプラスと同行することに決めた。彼女に「逃がさない」と言われた瞬間、逃げ場はなかった。抵抗しようにも、ラプラスは自身の手首と俺の手首を手錠で繋ぎ、自由は奪われていた。彼女の小船の操縦は荒っぽく、波間に揺られるたび、胃が翻るような感覚に襲われる。どうにも落ち着かない。「もう少しゆっくり操縦できねーの?」と尋ねると、彼女は「君の手錠が邪魔なのだ!」と苛立ちを隠さずに返してきた。いや、手錠をかけたのはお前だろ、と心の中で呟き、再び海に向かって吐き気を堪えた。
幾度かの嘔吐を経て、ようやく船は港町へと到着した。
「さあ、着いたぞ。ようこそクウェールへ」
「……うぅ、はい……」
「なにをしているんだ。早く立ちたまえ」
ラプラスの言葉に応じるように、ふらふらと立ち上がる。足元に広がるのは、白く輝く石畳の道。それを囲むように立ち並ぶ建物は、石材と木材で作られた西洋風の構造で、美しさと落ち着きを感じさせる。しかし、俺の頭にはその風景を楽しむ余裕などなく、船酔いで体力を奪われた俺は、その場に崩れそうになるのを堪えるのが精一杯だった。ステータス的には999のHPを誇っているはずなのに、船酔いだけはどうにも対処しきれないらしい。
「こっちだ、着いてきたまえ」
ラプラスに促され、俺は無理やりその場を離れることにした。街を歩く人々は、一様に好奇の目を俺たちに向けてくる。そんな視線が痛いほど突き刺さるのは、高校の制服を着た俺がこの世界では完全に異質な存在だからだ。周囲の人々は民族風の衣装や、硬そうな鎧を身にまとい、中には明らかに人間でない者まで混ざっていた。
「皆、君に興味があるようだね」
ラプラスが小さく笑いながら言う。俺は微かに身震いをしながら答えた。
「な、なんか、そうみたいですね……」
「無理もないさ。その装備、彼らにとっては珍しいものだからね」
「あの、俺、どこに連れてかれてんの?」
「ああ、来てもらいたい場所があるんだ」
ラプラスの言葉には、どこか含みがあるように感じた。そのまま歩き続け、やがて一軒の屋敷にたどり着く。赤レンガで作られた外壁が一際目を引く立派な建造物だ。
「さあ、ここだ。中へ入ろう」
ラプラスに促され、恐る恐る屋敷の中へ入る。途端に鼻を突く、酒と肉汁、そして汗の混じった臭い。思わず顔をしかめる。
「うげっ……なんだここ……?」
昼間だというのに、屈強な男たちが酒を煽り、テーブルに並ぶ大きなステーキに貪りついている。その光景に、思わず目を見開いた。
「ああっ、ラプラス!」
場違いなほど美しい金髪の女性が、こちらに向かって足早にやってくる。メイド服を着た彼女の表情は、どこか怒りを含んでいた。
「げっ、エーレ……」
「この数日、どこに行ってたのよ!連絡もなくて失踪したのかと!捜索隊を呼ぼうとしてたんだからね!」
ラプラスは、女性の問いに対してしどろもどろになりながら答えた。
「え、えーっと、すまない……釣りをしてたんだ」
その言葉は明らかに嘘だと、何も知らない俺でもすぐに察することができた。
「はぁぁ?釣りぃぃぃ??数日も?」
「そ、そう!釣りに夢中になってしまって……あ、そうだ、今度君も一緒にどうだい?」
「行くわけないでしょ!で、釣った魚はどこ?」
「え?あー……キャッチアンドリリースさ!ハハハハ……」
彼女は明らかに納得していない様子で、ラプラスを睨んだ。俺はため息をつき、真実を話す決意を固めた。
「俺がフェーベル島で迷っていたところ、この人に無理やりここまで連れてこられたんです」
俺の告白に、彼女は一層驚愕の表情を浮かべた。
「フェ、フェーベル島ですって!アンタ、またあんなところに!」
彼女の反応から察するに、ラプラスは許可もなくフェーベル島に立ち入ったようだ。それにしても、よくもまあ俺に「この島への上陸は禁止されている」などと説教じみたことを言えたものだ。
「おい、なんで言うんだよ」
ラプラスは俺を睨みつけるが、俺は軽く肩をすくめただけだった。
「で、貴方は誰なんですか?」
金髪の女性が、俺に視線を向けてくる。彼女の眼差しは鋭く、俺は思わず戸惑った。自分がこの世界に来た経緯を説明するのは難しい。家でゲームをしていたら、気がついたら異世界に飛ばされていたなんて話をしたら、彼女は信じるだろうか?
「あ、えっと……記憶喪失でして……訳も分からないまま、フェーベル島にいたんです」
その言葉に、彼女は眉をひそめ、俺を疑いの眼差しで見つめた。
「記憶喪失ですって……?」
「フッフッフッ、エーレ、よくぞ聞いてくれた!彼こそボクが新たに発見した、史上最高の異物さ!」
ラプラスは誇らしげに俺の腕を掴み、俺の腕時計を彼女に見せつけた。
「こ、これは……!」
「腕時計だ。彼は異物を当たり前のように身につけている」
彼女は腕時計に驚きを隠せない様子だったが、同時に首をかしげた。
「でも、それだけで彼が異物だという証拠になるの?」
ラプラスは自信満々に続けた。「あるとも!彼はボクが所有する異物の紙を簡単に解読したんだ。彼は紛れもなく異世界の住人だよ!」
彼女はラプラスの言葉に対し、ゆっくりと頷いたが、すぐに指摘する。
「でも、この人は異物じゃなくて異人でしょ?」
その一言に、俺は救われた気がした。
「え?」
ラプラスが眉をひそめ、戸惑ったような表情を見せる。
「だって、どう見ても彼、人間じゃないの」
「えぇ!?いやいや、異物だよ!」
彼女は腕を組みながら、まるでラプラスの言葉が信じられないかのように首を傾げた。
「異物?いや人だわ。それにアンタ、異世界の住人だって自分で言ってたじゃない!」
「え?い、言ったっけ?」
「はぁ…分かったわ。アンタ、また異物として登録して解剖しようとしてるんでしょ?前にもそうやって動物解剖してランク下げられたじゃない!」
ラプラスは苦笑いを浮かべて、肩をすくめた。
「そ、そそそんなことないよ~」
「彼が人間である以上、異物として登録することは絶対に認めません。ラプラス・レイザー、あなたがフェーベル島に無断で立ち入った件については、上に報告します。彼のこともね……。
上の判断が下るまで、彼はギルドの管轄下に置かれます。拾った以上、あなたが彼の世話をすること。くれぐれも変なことはしないように!あと彼を宿舎に案内しなさい」
「は、はーい……」
俺はラプラスに促され、ギルドの酒場を後にした。
「まったく、君がもう少し話を合わせてくれていたら、解剖の許可くらい貰えたのに」
「貰えてたまるか!」
少し歩くと、宿舎らしき場所が見えてきた。だが、その建物の外観を一目見て、俺は背筋が凍る。物凄くボロい。
「ここだ」
ラプラスは無感情に言い放ち、扉を開けた。
「なっ……!」
扉の向こうに広がっていた光景に、言葉を失った。そこは冒険者の中でも最低ランクの者たちが詰め込まれる、まさにタコ部屋だった。床には粗末な茣蓙が乱雑に敷かれ、冒険者たちは怠惰な姿勢で横たわっている。部屋全体に漂う不潔な空気は、精神的にも衛生的にも劣悪なものだった。
「これ……何……?」
「君の寝床だよ。しばらくここが君の家だ」
「嘘でしょ……これ、俺、どこに居ればいいの?」
「さあ?空いてる場所に適当にいればいいんじゃないか?」
茣蓙を見渡すと、あちこちに嫌な染みがこびりついている。寝るどころか、座ることさえためらわれるほどだ。
「うっ……ぷ……」
換気もろくにされていないその場所は、息をするだけで吐き気がこみ上げてくる。俺は耐えきれずに外へ飛び出し、深呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着けようとした。
「はぁ……」
これから、俺はあんな場所で異世界生活を続けなきゃいけないのか……。
「大丈夫かい?」
ラプラスの声に、俺は無理に笑顔を作る。
「だ、大丈夫。……だけど、ちょっとトイレに行きたい……トイレはどこ?」
急に腹の奥が痛み出す。身体は正直だ。大丈夫と言いながらも、腹痛が襲ってくる時は決まって最悪の状態だ。
「トイレなら、さっきの酒場に──」
「ありがとう!」
ラプラスの言葉を最後まで聞かず、俺は猛ダッシュで酒場へ向かった。
───
──
─
「ふぅ……」
トイレのドアを開けた瞬間、再び安堵の息をつく。
「大丈夫かい?」
トイレから出ると、ラプラスが静かに椅子に座って待っていた。
「う、うん……大丈夫……」
「まったく、君は強いのか弱いのか、さっぱり分からないね」
その通りだ。俺も自分のことがよく分からない。ステータスを見る限りでは、めちゃくちゃ強そうに見えたのだが……。
「酒場に戻ったついでだ、ボクの自室とパーティメンバーと紹介しよう。ついてきたまえ」
そう言い、ラプラスは酒場の奥へと俺を導いた。そこには緑色に光る不思議なパネルが浮かんでいた。
「これ、なんだ?」
「乗ってみたまえ」
俺は渋々ラプラスと共にパネルの上に乗った。すると、突然視界が緑色に輝き、気づいた時には全く別の場所に移動していた。
「すげえ!ワープだ!」
「その通り。もっとも、地下に移動しただけなんだけどね。そんなに珍しいものでもないはずだが、君の世界にはなかったのかい?」
「いや、こんなの初めてだ!」
目の前に広がるのは長く続く廊下で、壁にはマンションのように扉がずらりと並んでいる。
「ボクの部屋はここだよ」
ラプラスは足を止め、『83』と書かれた扉を指差した。
「なんか……俺の住む場所より良さそうだな」
「ボクの冒険者ランクはCだからね。住まいはランクによって変わるんだ」
ラプラスはそう言いながら、扉を開けた。
「お邪魔します……」
ラプラスの部屋は予想以上に散らかっていた。無造作に積まれたゴミ袋、そしてリビングにはコタツのような物が置かれ、その周りにはだらしなく座り込む二人の女性の姿があった。
「紹介しよう、ボクのパーティメンバーだ」