第2話 やべー女
背後を振り返ると、ひとりの女性がじっとこちらを見つめていた。まるで、この瞬間を待っていたかのような静かな目で。
彼女の外見は、十代後半から二十代前半といったところだろうか。顔立ちには若さが漂っているが、その瞳に宿る光はどこか冷ややかで、年齢以上の経験を感じさせる。紫を下地にした銀色に輝く髪は、無造作に切りそろえられたウルフボブ。軽やかさと同時に、何か鋭さを感じさせる。頭には黒いシルクハットをかぶり、その縁に金色のゴーグルを載せている。彼女の身にまとっているのは、フリルのついたアンティーク風の服に、短めのスカート。そして、足元には茶色い革製のショートブーツに黒のニーソックス。細い首には、黒いチョーカを身につけている。全体として、時代錯誤とも言えるスチームパンク風の衣装だが、そのバランスの取れたスタイルに彼女自身の美しさが際立っていた。
だが、なによりも彼女のハイライトのない四白眼が異様な印象を受けた。グルグルと渦を巻く同心円状の瞳孔が、何か普通ではない不敵なものを感じさせる。彼女の笑みは小さく、猫のように「ω」の形をしていた。その瞳と笑みの不気味さに、俺は胸の奥がひやりと冷たくなるのを感じる。彼女が、俺の元いた世界の住人ではないことは、ただその姿を見るだけで明らかだった。
「あ、あの、すみません。ここって、どこなんですか?」
俺はまっすぐに質問をぶつけた。状況が掴めないまま、混乱と焦りが声ににじむ。
「待ちたまえ。質問はボクが先だ」
彼女は俺の声に耳を貸さず、淡々とした口調で話し始めた。
「君、さっきワイバーンを一撃で倒したね?」
「……あ、はい……」
まるで答えを求めているわけでもないような彼女の質問に、俺はなんとなく肯定するしかなかった。
「言うまでもないだろうが、あのワイバーンはAランクの魔物だ。冒険者のベテランが総出で挑んでも、大きな被害を覚悟しなければならないほどの強敵だ。それを一撃で倒すとは、一体君は何者なんだい?」
彼女の目が鋭く俺を見据える。その視線は、まるで俺の内面を覗き込むかのようだった。だが、俺には答える言葉が見つからない。というのも、俺自身がどうしてこんな状況にいるのか、何も分かっていないからだ。
「いや、その、俺、よくわからないんです。さっきまで自分の部屋でゲームしてたんですけど、気がついたらここにいて……それで、ワイバーンが現れたから、何とかしたんです……」
言葉を絞り出すように説明する俺の頭の中は、まだ混乱していた。自分が何を言っているのかすら、あまり理解できていない。目の前の彼女に伝わるのかどうかも不安だった。
「ん?何を言ってるんだね君は?まるで理解できないが?」
彼女は冷淡に言い放つ。その冷静な口調に、自分の置かれた状況の深刻さがさらに実感として迫ってくる。
「ここはフェベール島。冒険者ギルドが管理している場所だ。この島には、ワイバーンのような危険な魔物が多数生息していて、例え冒険者であろうと、上の許可がない限り立ち入りは固く禁じられている。君がどうやってここにたどり着いたのかは知らないが、普通の方法ではありえないことだ」
彼女の言葉が突き刺さる。この世界が、俺の知っている地球とはまったく別の世界だということは、彼女の話し方からも明らかだった。
「は、はぁ……。俺は、どうやったら家に帰れるんですか?」
不安に駆られながら、俺は再び問いかけた。しかし、彼女の答えはどこか軽いものだった。
「どうって、帰りたいのなら来た道を戻ればいいじゃないか?」
「いや、だから……気づいたらここにいたんですよ!戻る道なんてわかりません!」
焦燥が高まり、俺の声が自然と荒くなる。けれど彼女は変わらず、冷静に俺を見つめた。
「気がついたらここにいた、だって?瞬間移動でもしたのかい?それに、その奇妙な服装、どこから来たんだい?」
「埼玉です……」
「サイタマ?どこの国だ?」
「日本……」
「ニホン?そのような国は聞いたことがないなぁ」
彼女の眉がわずかに動く。俺の言葉が彼女の常識を外れていることは、もはや疑いようがない。ここが別の世界であることを再認識させられる。
「ホントっす。俺、日本の埼玉県から来たんです」
事実を伝えるしかないが、それがまるで虚構のように聞こえることが、俺自身ももどかしかった。
「…………ふ~ん、まあいい。君も冒険者なのかい?その装備は一体何だ?」
彼女の視線が俺の体を舐めるように走る。その眼差しに、俺は軽い緊張感を覚える。
「いやー、ただの高校生です」
「コウコウセイ?なんだいそれは?役職かい?」
「高校生ってのは、えーっと、」
「ん?ちょっと待て」
突然、彼女は俺の左腕をつかんだ。その表情は、先ほどまでの冷静さとは打って変わって、驚愕に満ちていた。
「こ、これは……腕時計じゃないか!なぜこんな貴重なものを持っている!?」
「いや、普通に自分で買ったものですけど……?」
「どこで買った!?」
「普通にお店で……。安物ですよ?」
「安物だと?」
彼女は黙り込み、しばらく顎に手を当てて思案し始めた。
その沈黙の後、彼女はふとポケットから一枚の紙を取り出し、俺に手渡してきた。
「これは……スーパーのチラシ?」
俺が差し出されたのは、馴染みのある、地元のスーパーの特売チラシだった。なぜこの世界でこんなものが?
「読めるのか?」
「うん……これは俺の故郷のものだ」
「なるほど……やはり、そうか………ククク…」
彼女の口元に、不気味な笑みが浮かんだ。そしてその笑いは徐々に大きくなり、やがて狂気じみた高笑いへと変わっていった。
「フハハハハハハハハ!!」
彼女は狂気的な笑い声をあげ、目を見開き、興奮を隠さない。
「うわ!なんなんですか急に!」
「まさか、まさかだ!運命は私に味方している!ここで生きた『異物』に出会えるとは!」
「異物って……?」
「君のことだよ、サイタマ出身のコウコウセイ君。君こそ、私が求めていた異物だ!」
彼女は満足げに笑みを浮かべ、その表情は異様な輝きを帯びていた。差し出された手は、その見た目に反してどこか冷たく、不気味な雰囲気を漂わせている。その瞳の奥には、常識の範囲を超えた狂気を孕んでいるようだった。
俺の胸に広がる不安は、瞬間的に鋭くなる。彼女の言葉が何を意味しているのか、はっきりと理解できていないにも関わらず、その異様さだけは嫌というほど伝わってきた。
「……あ、あのー、さっきから1人でなんの話してるんですか?」
言葉を探しながら、何とか質問を返す。しかし、彼女の反応は淡々としたものだった。
「ああいや、なんでもない。案内するから、着いてきたまえ」
彼女は再び手を差し出し、微笑んだ。だが、その笑顔には微かな狂気の影が差していた。確かに、彼女は紛れもなく、俺の望んだ異世界の美少女だ。それは間違いない。だが、その美しさに隠された危険性が、次第に俺の中で大きくなっていく。冷静に考えれば、この人にはあんまり近づかない方がいいのだろう。彼女を俺の物語のヒロインにはできない。
【ステータス・オープン】
無意識のうちに、俺は手元のメニューを開き、再びRPGモードに切り替える。彼女の頭上に浮かび上がったHPゲージが、現実感を引き戻してくるような錯覚を覚えた。
「ラプラス・レイザー……Lv.25?」
声に出してしまったその瞬間、彼女の表情がピクリと動いた。
「どうしてボクの名前を知っているだい?」
その声には鋭さが増している。俺は焦りながら、言い訳を探す。
「ああ、いやほら、上のゲージに表示されてるから……」
「ゲージ?何のことだい?」
彼女の混乱した表情が一瞬で理解できた。どうやら、彼女にはこの表示が見えていないらしい。つまり、これは俺だけが持つ固有の能力なのか?
「あ、いや……なんでもない……」
俺はすぐに画面を閉じた。見られてはまずいと直感的に思ったのだ。これ以上彼女に疑念を抱かせるのは避けたかった。
「コウコウセイは、人の名前が分かる能力を持っているのか。非常に興味深いな」
「いや、普通はそんなことはないっすよ。あと、俺の名前はコウコウセイじゃない」
「ほう、なんて言うんだい?」
「明石未来です」
「アカシ・ミライ?変な名前だなぁ」
「失礼な!」
軽い言い合いを交わしながら、俺たちはしばらく歩き続けた。どこか浮遊感のある会話が、足元の砂の感触とは対照的に感じられる。やがて、海岸沿いにたどり着き、目の前には一隻の小船が見えた。
「さあ、乗りたまえ」
ラプラスの声に促され、俺は躊躇いながらもその小船に乗り込む。船体は小さく、揺れに合わせて微かにきしむ音がする。彼女が手際よく操縦を始め、船はゆっくりと岸から離れ始めた。
「今からどこ行くんすか?」
俺は内心の不安を抑えながら尋ねる。彼女の答えは予想外だった。
「まずは、君をギルドに連れ込み、研究資料として学会に発表する。そして、異物としての機能を確かめるため、一度解剖してみたい。ああ、想像するだけで気分が高揚するよ~」
「えっ」
彼女の言葉が胸に刺さる。冗談ではない、その声には本気の狂気が混ざっていた。
解剖?俺を解剖するって言ったかこの女?心臓が一瞬で冷たくなり、全身が硬直する。彼女が何を考えているのか、すでに俺の理解を超えている。今すぐ逃げるべきだ。
「あのー、すみません。や、やっぱ俺、船おります……」
思わず出た言葉に、ラプラスは動じない。ただ、微笑みを保ちながらこう言った。
「いや、船は降りない」
「……あっ、違います。俺が降りるんで、船止めてくれますか?すみません」
「降ろさないよ」
その瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。彼女の静かな笑顔の裏に、確固たる決意が見える。
「い、いや、降ろしてよ」
「うん降ろさない」
「ちょっ、こわ!降ろして!船止めて!」
「ううん、船は止めないし、君も降ろさない」
「ヤダ!降ろせ!」
「いや降ろさん!」
「降ろせ!」
「降ろさん!」
「降ろせ!降ろせ!降ろせ!降ろせ!」
「降ろさん!降ろさん!降ろさん!降ろさん!」
次第に言い合いはエスカレートし、気づけば二人とも声を荒げていた。息が上がり、船の揺れが不安定さを強める中、彼女の狂気は一層増していく。
「はぁ、はぁ………。あー、じゃあもういいよ、俺は勝手に降りる」
俺の一言に、ラプラスはついに船を止めた。その瞬間、彼女は優雅に振り返り、にっこりと爽やかな笑顔でこう言った。
「じゃあ殺します」
「えぇー!!」
俺の悲鳴が、海の静寂に響き渡った。