プロローグ
「明石くん、また再テストですか……」
先生の低い溜息が、重く職員室に響いた。机に置かれた成績表を見つめるその表情には、どこか諦めにも似た憂いが漂っていた。
「……はい」
俺は目線を床に落としながら、かすかに返事をした。自分の声が、やけに空虚に感じられる。
「君ねぇ……やればできるんだから。もっと気持ちを入れて取り組まないと、留年なんてことになりかねないよ?」
「はい……」
言葉が口を通り過ぎるたびに、自分がどんどん薄っぺらくなっていく気がした。どんなに答えても、虚しさは募るばかりだった。
「全くどうしてかなぁ……。君、入学試験の時は学年トップで、2年の中間テストも上位だったのに、今回の期末テストはどうしたんだ?正直、クラスでビリだよ」
先生がホラ、と成績表を俺の前に差し出す。ちらりと見たそれは、まるで自分自身の無力さを証明するように、赤い数字が突き刺さっていた。
「最近、出席率も悪くなってきているしね。成績の上がり下がりがこんなに激しい子なんて、早々いないよ?」
「……はい」
心の中で何かがくすぶるような感覚はあるが、それが何なのかは分からない。ただ、その場にいる自分がどんどん意味を失っていくように思えた。
「明石君、授業中もボーっとしてるけど……もしかして、何かあったのかい?悩みがあるなら、先生に相談してくれていいんだよ?」
「……いえ、特に何も」
「そうか……。でもね、これからの進路を考える時期なんだ。勉強は頑張らないと。ところで、進路についてはもう考えているのかい?」
「……さぁ……まだ何も」
「もう3年だよ?そろそろ決めないと。みんな進路先を決めているし、今日は家に帰って、家族とも相談してみるといいよ」
「はい……」
俺は「失礼しました」と、淡々とした言葉を残し、職員室を後にした。成績表を握りしめ、廊下を歩く。確かに、成績は酷いものだ。だが、なぜだろう。胸の中には、少しも焦りが湧いてこない。ただ、心が冷たく静かに沈んでいくのを感じるだけだった。
ふと気づくと、廊下の壁にもたれていた男子生徒が俺に声をかけてきた。
「よっ、お疲れ未来!また先生に怒られてたか?」
彼は俺の友人、佐竹だ。いつもどこか楽天的で、軽やかな存在感を纏っている。
「……ああ、まぁね」
俺が答える前に、佐竹は無遠慮に俺の成績表を覗き込んだ。
「ちょっと待て、これヤバいだろ?お前、ずっと窓際で外見てボーッとしてるから、こうなるんだよ」
「そうか?」
「そうだって!今だってボーッとしてるしさ」
「……そうかもしれないな」
本当のところ、どうでも良かった。佐竹が何を言おうと、自分の無気力さは揺るぎようがない。
「おい、もう帰るぞ!」
佐竹は俺を強引に引っ張り、学校の玄関へ向かって歩き出した。靴箱の前で、上履きを脱ぎながら、彼はまた話しかけてきた。
「未来、お前、進路はどうするつもりなんだ?」
「あー……正直、何も決まってない」
「マジかよ。俺は普通に大学行くけど、お前は?」
「普通、か……」
俺にとって「普通」という言葉が、どれだけ遠い存在か。世間の基準に合わせて生きることが、どれほど難しいかを知っている。
「お前、何かやりたいこととかないのか?」
「早く帰ってゲームがしたい」
「バカ!俺は真面目に言ってんの!」
佐竹の言葉が、どこか遠くの音のように聞こえる。自分の未来について真剣に考えたことなんて、一度もない。何がしたいのか、どこに向かうべきなのか。そんなこと、考えても分かるわけがない。
「やりたいことなんて……何も分からないんだよ。未来のことなんて、たかだか3年で決められる方がおかしいだろ?自分が何を求めてるのか、何を目指してるのか、そんなもの分かるはずがない……」
「いやいや、普通は決めるもんだって!このままだと社会不適合者まっしぐらだぞ?」
「……俺はとっくに社不だよ。この世界に生まれてくるべきじゃなかった、言わばバグみたいなもんだ。俺はバグ人間なんだよ。あーあ、次生まれ変わるなら、異世界で無双しまくって、美少女に囲まれて過ごしてーな~」
「おいおい、そらアニメの見すぎだわ」
佐竹の軽口を適当にあしらいながら、俺は校門を抜けた。彼とはそこで別れ、帰路につく。下校中の小学生たちが楽しげに駆け回っているのを見て、胸に懐かしさが込み上げてくる。あの頃は、ただ無邪気で、全てが輝いていた。
「鬼ごっこしよっ!」
「いいね!」
彼らの声が、俺の中に眠っていた記憶を呼び起こす。鬼ごっこ……俺が一番好きだった遊び。あの頃のスリルや、逃げるための作戦。それは、純粋な楽しさに満ちていた。いつからだろう。俺の人生がこんなにも味気なく、無意味に感じられるようになったのは……。
いつの間にか、俺は自宅の前に立っていた。重い足取りで玄関の鍵を開ける。暗い家の中に、一人きりで踏み込む感覚は、もう慣れきっていた。
「ただいま……」
もちろん返事はない。家族はまだ帰っていない時間だ。無機質な沈黙が家を支配している。俺は二階の自室へ向かい、カバンをベッドに放り投げた。
「…もう、疲れた。」
椅子に腰掛け、深い溜息を漏らした。机の上に置いたパソコンの電源を入れる。画面が起動すると、俺はFPSゲームをプレイし始めた。ゲームの世界だけが、俺の逃げ場だ。現実を忘れ、ひたすらゲームに没頭する時間。それが俺の唯一の救いだ。
しかし、1時間後、ゲームの画面には「敗北」の二文字が虚しく浮かんでいた。薄暗い部屋の天井を見上げながら、深い吐息をついた。心の奥底で神に祈るような気持ちが渦巻く。
「……ん、なんだ、これ」
ふとホーム画面に視線を落とすと、中央に見慣れないファイルが現れていた。文字化けした表示が目に入る。
「え?これ、何だ?」
こんなファイルを作った記憶はない。それに、なぜ文字化けしているのかも分からない。疑念と不安が胸を締め付ける。
「ウイルス、とかじゃないよな……」
他のページやファイルを確認しても、特に異常は見当たらない。しかし、文字化けの表示をコピーして検索バーに入力しても、結果はゼロだった。
「一体、何なんだよこれ。バグったのか?」
ウイルスの可能性も完全には否定できない。とはいえ、その好奇心を抑えきれず、ファイルを開く決意を固める。
「まあ、もしヤバかったら消せばいいか……」
ファイルを開いた瞬間、画面が真っ暗になり、プツンと音を立ててパソコンがフリーズした。
「……え?はァ!?嘘!!マジかよ!?」
キーを押しても、マウスを動かしても、電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なままだ。完全にブラックアウトし、途方に暮れたその時、画面に白い文字が浮かび上がった。
「ん?なんだ?」
──最初から始める。
「は?」
文字が示す意味が分からず、呆然とするしかない。画面は操作できないままだが、マウスは反応しているようだ。どうやらパソコンが壊れたわけではないらしい。
──プレイヤー名を登録します。
「は?プレイヤー名?どういうことだ?」
突然、画面から強烈な光が射し込み、部屋がその光に包まれる。パソコンの唸り声が部屋中に響き渡り、光は次第に強くなっていった。
「うわ、眩しい!」
思わず目を瞑り、その光の中で何が起こっているのか分からないまま、時間が過ぎていく。光が徐々に収束し、部屋の静けさが戻ってくる。おそるおそるまぶたを開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「え?」
目の前には広大な草原が広がっていた。空は澄み渡る青空で、周囲はまるでサバンナのような風景だ。確かに、自分は数秒前まで自室にいたはずだ。夢でも見ているのか?しかし、この地面の感触、草の柔らかさ、風のささやき、そして陽の光は、まぎれもない現実のものだ。
「どこ、ここ………」
自分がどこにいるのか、理解を超えたこの状況に呆然と立ち尽くすしかなかった。