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不思議体験談

生まれ変わったら君になりたい

作者: K

 生前のあいつとは下らない会話ばかりしていた気がする。

 『無人島で生き残るには』『大金と超能力どちらを選ぶか』『都会で一文無しになったら最初に何をすべきか』

 ありもしない条件を提示され、もしもその条件下に自分たちが置かれたらどのような選択をするのかという事を淡々と語るのだ。

 毎日のように繰り返されるそんな会話の数々の中で、特に心に引っ掛かっている物がある。

 それは『生まれ変わったら何になりたいか』という話だ。

 私の答えは『高山帯の花』であった。

 人里離れて何もせずに生きたい。そんな願望の表れだった。

 対して、あいつが語った答えは『あなたになりたい』だった。

 一体何故、と訊くとあいつはただ黙って微笑んだ。


 容姿端麗、学力も悪くない。両親の仲も良好。少し大きな家に住み、毎日健康的な食事をしていた。

 そして将来の夢は画家で、並々ならぬ情熱を持つ努力家で、コンクールで受賞した事もある。職業が職業なため険しくはあるが、叶わない夢ではなかっただろう。

 私からすれば、あいつの方が多くの物を持っていたように見える。

 対する私は、平凡な容姿、最低限の学力。両親の仲に関しては同じく良好で、でも家の大きさは少し小さい。その上共働きなため食事は適当。肝心の将来の夢は"どこかの会社員"。

 子供の頃の夢はあいつと同じく画家であったが、今は趣味としてささやかな創作活動が出来ればそれでいいと思っている。


 果たして、こんな私になる意味があるのだろうか。


 尋ねても答えてくれず、再び尋ねる前にあいつは死んだ。

 死因は聞いたが、思い出せない。

 急に聞かされて気持ちも頭も整理が出来ないまま花の中で静かに眠るあいつを見た。

 涙は出なかった。あまりにも現実離れしていて、感情が追い付かなかった。そんな私を見て幻滅しただろうか。


 『もしも私が死んだらあなたはどう思うか』なんて話は振られなかった。

 一体私は今何を思い、何を紡ぐべきなのだろう。分からない。

 まるで脳内にあいつが宿ったかのように、いつものような議論が頭の中で巻き起こった。

 "あいつ"が死んだら、きっと"私"は悲しむだろう。

 だが今の私はどうだ。この虚無感は悲しみから来ている感情なのだろうか。

 純粋な喪失感ともとれるし、微かな希死念慮ともとれる。あるいは本当に何も思っていないのだろうか。


 『あなたになりたい』

 願わくば、そうして欲しい。私の身体に移って、私の代わりに生きてほしい。

 私の命なんかよりも、あいつの命の方がはるかに価値がある。社会的価値という話ではなく、私から見たあいつの存在そのものの話だ。そう思える程に尊かった。大事だった。

 私は『あいつになりたい』とはとても思えなかった。


 幾ばくかの夜を経て取り繕えるようになった頃、遺族が私宛の遺書を見つけたという事でうちに来た。必要以上の言葉を交わす事も無く、あいつからの手紙と遺品である数冊のスケッチブックを渡してそのまま帰った。

 ぽつんとその場に一人になった私は、去ってゆく車へ会釈もせずに家の中に戻った。そして手紙とスケッチブックは読まずに仕舞い込んで寝た。

 どうでもいい訳では無かった。ただ、私は未だあいつの死を実感していない。と言うより、実感しないように必死に別の事で頭を働かせている。

 感情に追い付かれる事を恐れて、止め処なく前進する日常に縋っているのだ。

 『だから今の所日常の変化と言えばあいつが居ないだけだ』と、そう思い込んでいる。

 『何かの事情でこの周辺を離れて会えない日が続いているだけだ』『その気になれば会いに行ける』。そう思い込んで、辛うじて生きている。

 そんな状態で"死を見据えたあいつが私へ宛てた言葉"を見ても、理解を拒んでしまう気がしたのだ。

 ちゃんと受け止めて、泣いて、心が暴れて耐えきれなくなって、この世の何処かにあいつの存在を求めた頃にようやく読むべきなのだ。

 それが三日後になるのか三年後になるのか分からないが、とにかく今はまだその時ではない。


 そう思っていたのだが、結局私は次の日に遺書を読んだ。

 あいつの死因や私との数々の会話の真意、『あなたになりたい』と思った理由など、色々と知りたい事があったからだ。

 掴み処のないあいつが赤裸々に気持ちを語っているのだろうと、そう思い込んでいた。

 しかし実際に出て来た言葉は違った。


『私が死んだら、あなたはどうする?』


 それしか書いていなかった。

 一体何なんだと悪寒を感じながらも、他に何か書いているのではないかと裏面を見るとそこにはまた別の事が書いてあった。


『あなたが死んだら、私はきっと』


 その先は無数の消しゴムの跡のみが残っていた。結局、あいつ自身も友人が死んだ後の自分自身の事など想像できていなかったのだ。

 ただ、私には少しだけ分かる。もし仮に『死んだのがあいつじゃなくて私だったら』、きっとあいつは意気消沈することなく強く生きる。

 流石に悲しんだりはしてくれる筈だ。でも悲しみ続ける事を是とせず、己の見据えた夢を追い、彼女なりの弔いをしてくれるだろう。

 そう思うと今の自分の姿は一体何なんだという気持ちが湧いた。


 『君が死んだら私はどうする?』

 一体どうするのだろう。今の所何もしていない。

 過去の自分を思い浮かべても分からない。


 さらに数日が経過して、私は遺品のスケッチブックを開いた。あいつをもっと理解したいと思ったのだ。

 友人として、私はあいつの事を良く知っていたと思う。しかしあいつの価値観の根幹となる世界観はあまり知らなかった。あいつ自身も詮索される事は好まなかった。

 あいつの世界の一片として出力されたのがあいつの作品だろうとは前から思っていたが、それのみで全てを推し量るつもりは無い。完成品として出された作品は、ある程度他人に見せる為に成型された物のように見えたのだ。

 反対に、他人に見せるつもりが無かったであろうこのスケッチブックにはあいつ自身が見ていた世界があるのではないかと思った。

 見た物を見たままに、見えた物を見えたままに。といった具合に。


 思った通り、中に広がっていた世界はあいつの何かを象徴しているようだった。

 しかし、奇妙でありながらも何もかもが何気ない。言葉にするならば平凡を特別に飾り付けるような、それでいて他の者には理解し得ないような。日常の一部のようでありながら心理学すらも寄せ付けないような世界が広がっていた。

 そんな世界を一目見た程度で理解できる訳など到底無く、しばらく圧倒されるように淡々とページをめくった。

 全てが理解できない絵ではない。所々に挟まる暇潰しのような落書きには動物や花、漫画のキャラクターなど単に好きで書いたのだろうと思える物も多数見られた。

 思考と想像を巡らせながらページをめくり続ける事数時間、一冊目の最後のページが白紙である事に気付いた時には既に空には月が浮かんでいた。

 記憶の何にも重ならないその光景から逃げるように、水を飲んで寝た。


 昼の11時に目を覚ました私は、昨晩見たスケッチブックの白紙のページが気になった。

 その一つ前のページに描かれているのは数年前にあいつが完成させていた作品の下書きと言うか、アイデア図のようなものだった。この絵以降にもたくさんの絵を描いていた筈だ。だから『死んだのでそのページが埋まることは無かった』的なドラマチックな事情は無いと思える。単に最後のページを埋める前に新品のスケッチブックへ移行しただけだろう。

 案の定、次のスケッチブックにはその後にあいつが完成させていた作品に関する絵があった。


 あいつが描く世界という物はある程度固定化されているようで、スケッチブックの絵は何枚目においても、いつの時間においても変わらない世界観を有していた。もちろん内容はそれぞれ大きく異なっている。それでも全てが"あいつの絵"だった。

 夢の様に綺麗な淡色、今まさに私の手元にもあるような馴染みのある物、それと花々、動物。時々魚。ありふれた物に焦点が当たり、その上で描きたい物がしっかりと表現されている。

 『思うがまま』という言葉が似合うその世界は可愛らしくて綺麗だった。それと同時にどれだけ細部を見ても理解できない特異性も持っていた。

 昨日と同じく圧倒されるようにページをめくっていると、また最後のページが白紙になっている事に気が付いた。あいつの癖なのだろうかと思いつつも私は次のスケッチブックを手に取った。

 次も、その次も。変わらない世界観の絵と気まぐれな落書きは続く。そして決まって最後のページは白紙の状態だった。

 夕日と共に手に取った最後の一冊においてもそれは変わらず。ページいっぱいに展開されたあいつの世界を眺めて、最後にたった1ページの空白を見つめた。


 最後の絵は、あいつがこの間仕上げたばかりの作品に関する絵だった。正真正銘、"最後の絵"だ。

 あいつはこのスケッチブックを使っている途中で死んでしまったと思っていたのだが、1ページの空白を除いた全てのページにちゃんと絵が描かれていた。使っている途中に死んでしまったのではなく、使い終わってから死んだのだ。

 不謹慎である事は分かっているが、まるで『このスケッチブックを使い終わったら死ぬ』と決めていたかのように思えてしまった。そんな考えをかき消すように、これまでに鑑賞したスケッチブックを纏めて保存用の箱に納めた。


 そうして一通りあいつの世界に触れた私は、改めてあいつの手紙を取り出して紡がれた言葉を受け止めた。


『私が死んだら、あなたはどうする?』


『まず最初に君のスケッチブックを覗き見する』


 実際の行動を基にペンを用いてあいつの問いに答えてやる。すると不意に涙が零れた。

 生前に同じやり取りをしていたら、きっとあいつは嫌がりながらも笑っただろう。

 だが、あいつはもう存在しない。その事を認識して感情を迎え入れる事が出来た。


 号泣から連鎖的に引き起こった過呼吸に襲われて、私は机に突っ伏したまま気を失うように眠りに就いた。

 目を覚ました時の私は、さぞかし酷い顔をしていただろう。涙も拭かず、毛布も被らず、着替えもせず。寝心地の悪い場所で、いい夢を見られる筈もない精神状態で眠ったのだ。

 喪失感に震える心を動かすようにため息を吐いて座席を立つと、カーテン越しに朝日が見えた。思えば、ここ数日ずっとカーテンを閉めっぱなしにしていた。朝日が上る時間に目を覚ましたのも久々だ。

 暗いと気分も沈むという話とは特に関係無く、私は気まぐれにカーテンを開けてみた。すると部屋いっぱいに降り注ぐ光が私の影を大きく作り出した。

 細かな埃の一粒でさえも照らす鮮麗な光に目を細めると。なんとなく時間の経過をこの身に感じた。

 そして、変わらなければいけない気がした。もとい、戻らなければいけない気がした。

 今の私は、あいつがなりたがっていた"あなた"ではないだろう。

 何を以てあのような発言をしたのかは相変わらず分からないままだが、少なくともあの時あいつが言葉を交わした"あなた"と今ここで燻っている私が全くの別人である事は分かる。

 ささやかな創作を心から楽しみ、努力を重ねる友人の作品を真っ直ぐな感情で鑑賞し、下らない問いの答えが出るまでバカ真面目に考察する。そんな自分に戻らなくてはならない。


 ようやく追いついた感情が今度は私を置いて先走っているような感覚だ。

 その感情に必死にしがみ付くように、机に向かって私の世界が広がるスケッチブックを手に取り真っ新なページを開いた。

 線を走らせる。感情のはけ口にするように、先端の欠けた鉛筆を用いて今の私が持つ全てを紙にぶつける。意図しない筆圧と太さで引かれる線すらも取り込むように、一心不乱に。

 やがて出来上がった絵は"思うがまま描かれた世界"とは対照的に、"感情のままに描き散らされた世界"だった。作風こそいつもの私と大差無いが、出来はなんとも酷いものだ。しかし、この上なくスッキリできた。


 誰もが首を傾げ、君だけが目を輝かせる。これが私の創作だ。


 誰かへと見せつけるように鉛筆を置いて席を立つと、ふらりと足元がもつれた。思えば、ちゃんとした睡眠も取れていないし食べ物も飲み物もまだ口にしていない。万全の体調にして改めてあいつと向き合うために、私はリビングへ行き食事を摂った。

 それから私は、空回りとも言える程に色んな事をした。

 あいつの絵をもう一度見てみたり、あいつの絵を真似てみたり。外へ出て通学路を歩いてみたり。そうやっていろんな角度から自分の感情を確かめ、あいつの感情を探った。

 そして『あいつは死の間際にも私になる事を望んだのだろうか』という疑問が浮かんだ頃、私は半ば無意識にあいつの親へ『家に行きたい』と電話をかけていた。


 あいつの家に着くと、両親はまず私に深い謝罪をした。心底戸惑いながら理由を訊くと、どうやら遺書を渡しに来た時にまともな言葉をかけられなかった事を深く悔やんでいたそうだ。

 精神的にいっぱいいっぱいだったのはお互い様だ。私だって、上の空で気の利いた言葉などかけられなかった。そう伝えて同じように頭を下げると、両親は目尻に涙を浮かべて頷いた。

 私がこの家に来た目的は三つある。一つは仏壇に手を合わせる為、もう一つは気持ちが落ち着いた状態で改めて死因や生前の話を聞く為。最後に、あいつの部屋を見る為。最初はともかく、後の二つはまだこのタイミングでするべきではないと自覚している。だが、今じゃないと駄目な気がした。

 仏壇には気の抜けた笑顔を浮かべるあいつの写真があった。私が最後に見た顔との差に心を打たれながらも手を合わせた。家に漂う"いつもと違う香り"が線香の香りだと気付いたのはその時だった。


 一先ずあいつへの挨拶を終えた私は、あいつが私に見せた顔について両親と語った。

 下らない会話の数々を頻繁にしていた事、癖のある私の作品を好きだと言ってくれた事。絵に関しては並々ならぬ情熱を持っていた事。

 色々話した。でも『あなたになりたい』と言われた件については何故か話せなかった。

 同じく死因についても躊躇が生まれて訊けなかった。それが目的の一つでもあったのに。

 しかし、あいつの部屋を見たいと伝える事は出来た。生前幾度となく互いの家を行き来して遊んでいたから抵抗なく伝えることが出来たし、両親も笑顔で『見てやってほしい』と言った。


 久しぶりに訪れたあいつの部屋は遺品整理で物が減りつつも、だいたいいつも通りだった。まるで夕暮れ時になれば帰宅して来そうだと思ってしまう程に、あいつの日常が残っていた。

 テーブルには所狭しと置かれた画材、机にはデジタル絵を描くための機材とパソコン。開かれたクローゼットにはついこの間買っていた新品の服があり、ベッドには去年私がお泊りに来た時に使っていた毛布があった。客人用ではなく普段使いしていた物だったらしい。

 呼吸の度に感じてしまう"覚えのある香り"と泊まった時の記憶が重なったその瞬間、私は空間の中心でふと記憶が消えたように何もかもが分からなくなってしまった。まさに頭が真っ白になったとしか形容できない感覚が脳内の全てを覆い尽くすように走り抜け、次の瞬間には腹の底から嗚咽が出た。自分でも気づかない程の速度で感情が揺れ動き、涙が頬を伝っていたのだ。

 そんな私の様子を見た両親は慌てた様子で私をその場に座らせ、水を汲んだコップを目の前のテーブルに置いた。

 受け止めたからと言って、悲しみが潰えた訳ではない。

 だからと言って部屋の中心でこんな号泣されたらあいつとしても迷惑だろう。


 帰ってから、私は更に一枚の絵を描いた。

 今抱えている感情はあまりにも苦しく暗いのだが、それでも形として残したいと思ったのだ。

 きっとこの感情でしか描けない絵がある。そう思うと居ても立っても居られない気持ちになった。

 もしくは、この感情を紛らわせる手段として絵を選んだのかもしれない。

 どちらにしても、完成した絵は以前と変わらず酷いものだった。だがこれでいい。これでこそ私の絵だ。

 それに、書いている間は純粋な楽しさのみが私の全てを支配していた。

 あいつの言う"あなた"に少しずつでも戻れている事を実感して満足した私は、布団に潜って目を閉じた。

 そして、あいつが死んでから初めて"あいつの夢"を見た。

 内容は大した事の無い物だった。私とあいつが二人並んで通学路に居る夢だ。久しぶりに写真越しじゃないあいつを見られて少し嬉しい気分になった。同時に辛くもあった。

 夢の中でもあいつは死んだ事になっていて、なのに私の隣に居て。互いに言葉を交わさずに帰路を歩くのだ。

 死が無かったことになっている訳ではない。夢の中でも私はあいつが既に死んでいる事を理解していた。だがそれとは別に隣を歩くあいつの事は当たり前のように受け入れていたのだ。

 微かな違和感は感じ取っていたのか、『なんでだろうな』とは思っていた。だが特にその事に言及しないまま夢は終わった。

 起きてから、私は暫く放心に近い状態で考え事をしていた。

 生前、最後に話していた内容を思い出したのだ。


 夏休みも残すところ一週間となった。

 休暇に入って二日目にあいつが死んで以降私は夏休みを"夏休み"として過ごせるような精神状態ではなかったのだが、ここにきてようやく穏やかな気持ちになりつつある。

 しかし同時に、ありもしない事への考え事ばかりが思考の大半を占めるようになってしまっていた。『あいつが生きていたら云々』と、何事も無かった日常に関する想像が消えないのである。中でも特に『あいつが生きていたら次にどんな絵を描いたのか』という想像は常にある。

 あいつの部屋で見た画材の数々は整理されつつも片付けられているような感じがしなくて、聊か過剰な表現にはなるが"まだ生きている"ような気がした。

 そんな部屋であいつが本当に生きていたのならどのような世界を描くのだろうと、今この瞬間も考えている。

 穏やかでありつつも大きな靄を孕むその感情に従って、私はアルコールマーカーを手に取った。


 夏休み前日の下校中、家の前に着いたあいつは思い出したように『次に描く絵はいつもと違うテイストにしようと思っている』と語った。

 期待を込めてどんな感じか訊くと、なんとあいつは『あなたが普段描いてる感じ』と言ったのだ。

 『私の絵は"万人受けしない"なんてもんじゃない。誰にも受けない』なんて事を必死に話しながら『それはお勧めしない』と切実に伝えると、あいつは口元に手を当てて微笑み『そんなことない』と言って家に入って行った。

 それがあいつとの最後の会話だ。


 曖昧なイメージを色に乗せて空を描き、夢見る心地を空気に溶かして雲を生む。葛藤に揺れる思考回路が迷路となり、導き手の花々が風に踊る。

 私もあいつのような絵を描いてみたいと常々思っていた。

 自分にはどうすればいいのか分からない物を当たり前のように描き、一見難しそうな表現を意のままに形にする。そんな姿に憧れた。その想いは合作程度では埋められない。まさに、君のようになってみたいと思った事すらある。

 あいつも、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。私の絵を描いてみたいから、私が抱える世界観を理解したいからこそ、私になる事を望んだのだろうか。

 そういう事であれば私だってそうだ。生まれ変わったら君になりたい。

 君の世界を理解し、描き、『やっぱり君は凄い奴だ』と元に戻った後で君と語り合いたい。


 私の自我を宿した絵は、やはりあいつの絵のようにはなれなかった。その事に何故か少しだけ安心しながら別のページを開いて自分の絵を眺めた。

 全てのページに所狭しと走り書きの如く感情がぶちまけられている。改めて客観的に見ると『やりたい放題』という言葉が浮かび失笑が出た。

 同時に、真剣な眼差しで私の作品を鑑賞するあいつの横顔が思い浮かんで笑みが消えた。あいつは私の絵に何を見出したのだろう。

 スケッチブックを閉じて布団に横になり、天井を見上げる。

 結局いかなる行動を起こしてもあいつへの理解を深める事は出来なかったように思う。

 だが、今更ながら分かり合えたような気はした。

 今の私ならあいつの『あなたになりたい』とか『あなたのような絵を描きたい』という言葉を否定しない。むしろ、素直に『私もそうだ』と言えるだろう。


 あいつはそろそろ生まれ変わっている頃だろうか。

 夢の中の私は、隣を歩くあいつを見てそんな事を考えていた。

 スピリチュアルな事はあまり信じない派ではあるが、あいつの望み通りになってほしいという気持ちはある。

 しばらくの間を置いて『だがあいつが私になったら今の私はどうなるのだろうか』という考え事へと移行したその時、夢の中のあいつはようやく口を開いた。

 が、声が聞こえない。何かを喋っているかのように口を動かして、微笑んだ。

 どういうことなのか理解できていない私を見て、あいつは再び口を動かした。

 亡くなった人間に関する事で最初に忘れるのは声だという話を聞いた事がある。その事を思い出して悲しくなった。まだ忘れてはいないのだが、この先そういう事が起こり得るという事実が私の心を強く締め付けた。

 私はあいつの声を記録した物を持っていない。わざわざ声を録音して残しておこうなんてなかなか思わないし、動画を回して遊ぶような性格でもなかった。

 このまま君は記憶の深淵へ消えてしまうのかと問いかけるように瞳を見つめるとあいつはしばし考えるように立ち止まり、自分の口元を指さしてハキハキと口を動かし始めた。文字数からして明らかに先程まで喋っていた内容とは違う、ただ一言の言葉を伝えようと繰り返し同じ言葉を口にしている。

 『ありがとう』。そう言っているように見えた。

 分かったよ、伝わったよと伝えると今度は私の声が聞こえていない様子だった。私の声が聞こえない事に気付いたあいつは酷く寂しそうに、何かを思いつめたような表情を浮かべた。

 その顔を見ながら私は何故か『会えるのは今回で最後なのだろう』と思った。

 だから一息置いてあいつと同じく『ありがとう』と伝えた。その一言に、数えきれない程の思い出を乗せて。


 目を覚ますと夜の2時だった。

 目の周りが乾いた涙でカサカサになっている。瞼を傷つけないように温めたタオルで拭き取ろうとリビングへ降りると、熟睡する私へ宛てた母からの置手紙があった。

 内容は『夕飯を食べていないようだったから作って冷蔵庫に入れてある』という事だった。

 生姜焼きを温めずに貪り、水を飲む。そして歯を磨いて眠りに就いた。


 あいつの夢は見なかった。それが原因ではないが起きてから暫く呆けていた。

 悲しみも喪失感も残ってはいるが、別れを受け入れられたような気がする。

 私は、どれだけ時間を重ねようとも『あいつが居なくても大丈夫』なんて言う事は出来ないだろう。だがあいつに恥じない自分を取り戻す準備はもう出来た。

 窓を開けて机に向かいスケッチブックを開き鉛筆を手に取る。そして想いのままに線を引き、次にアルコールマーカーを手に取った。

 こういう世界があってもいいだろう。

 そう語りかけるように色を広げると、爽やかな風がカーテンを揺らした。

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