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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

或る男のささやかな願いの果て

作者: パンダダダ

「―――よろしく、勇者様」


 ただの平民の三男だった俺に突然勇者の印が刻まれたあの日、平凡だった日常の幕は閉じた。

 混乱のままに周りの勧めで王城に誘われ、貴方が今代の勇者だと持ち上げられ、あれよあれよと言う間に王様に魔王退治の旅を仰せつかって呆然と立ち尽くした。旅の仲間として魔法使いや剣士といった一般市民の俺でも知っているような有名な方々に囲まれ、その麗しさに恐縮しっぱなしだったその時、目の前に飾り気のない言葉と共に差し出された掌があった。

 黒手袋に覆われたそれは聖女のお姫様よりも大きく、かと言って剣士の精悍な顔をした男の無骨な腕よりは余程頼りない。場違いとすら言えるような普通の男性の掌を辿った先には、頭にタオルを巻いた青年がにこりと柔和な笑みを描いて握手を求めている姿があった。

 見た目からしてまだ随分と若い。身に付けている衣類も平民が普段着るものより余程上物だが、謁見の間で羽織るにはみすぼらしいと称してしまう程地味で野暮ったいものだ。俺と同じくらいの、オーラも何もなさそうな普通の青年の気配に強張っていた肩の力が抜ける。彼は確か、弓使いとして紹介に上っていた人物だ。周りのきらきらしい人達は見た目通り貴族で、きっと旅をする中で住民との交渉や生活に困るだろうからと、戦闘よりは主に間に入る仲介役としての役目を任されていた。


「あ、あぁ。よろしく…」


 確かに彼らと旅をするのはお互いの価値観や今までの生活基盤を鑑みて至難の業だろう。そう考えると王様にしては随分と堅実的なアドバイザーを付けてくれたものだ。まあ、周りの宰相たちが助言したのかもしれないが

 驚いてただ眺めていれば、一向に握手に応じない俺に困った様に微笑んで引っ込めようとしていたので慌てて引き留めた。握った掌は剣ダコのない、筋張った普通の少年の手の感触をしていた。何だが少しだけ昨日までの友人との馬鹿話やくだらない喧嘩をした日々を思い出し、安堵と共に広がった切なさに泣きそうになったのは誰にも内緒だ。

 こうして、王様からの勅命で俺達は魔王討伐に向けて旅を行うことになった。あまり気は進まなかったが、勿論王命に逆らえるはずもなく俺たちの長い共同生活が始まったのだ。


 旅は散々だった。

 故郷から出たことの無い俺は慣れない生活と魔物との戦いに何度も挫折しかけたし、仲間たちとの言い争いも徐々に増えていった。

 最初は勇者ということもあり粛々と従っていたメンバーが徐々に不満を零すようになったのだ。予想通りお貴族様方、特に女性陣の聖女と魔法使いは毎日十分に身を清められないことが堪えたようで宿に泊まる際には上級ランクの宿しか嫌だと言いだしたのが始まりだったか。その内剣士の男二人も主人としての俺の振る舞いにあまり良い感情を抱いていないことも発覚した。

 なんだそれ。俺だって別に好きで勇者になったんじゃないのに。王の命令で仕方なく来ただけのただの一般市民だってのに、なんでそんな風に言われなくちゃいけないんだ。風呂なんて旅の最中毎日は入れるわけがないし、いきなり一般人に理想的な主人の振る舞いを要求されても困る。貴族じゃない平民は手桶に手拭いで身を清めるのが一般的だし、今まで剣もまともに握ったことの無い素人が弱いのなんて当たり前だ。それをあいつらは全然分かっていない。なんで俺が死ぬかもしれない危険な旅に喜んで行くなんて思っているんだ。それならもっと相応しい奴を選んでおけばよかったじゃないか。

 なんで、なんで、と。そんな愚痴や泣き言を、俺は唯一中立の姿勢を保っていた弓使いの彼に全部ぶちまけた。

 彼は親身になって俺の言葉に耳を傾けてくれた。自分だって大変だろうに、言葉少なに相槌を打っては背中をさすってくれた。

 弓使いは元平民らしく、俺と聖女たちの価値観の違いにも気付いていた。戦闘ではあまり役に立たなかったが、その代わり放浪歴が長かったらしく旅の極意や野宿の知識にやたらと詳しかった。

 ピリピリとしたチーム内で一人笑みを絶やさず、時には仲間内の仲介役になって仲をとりもってくれた弓使いの尽力のお蔭で、旅の中頃当たりには自然と結束や信頼関係のようなものが芽生え始めていた。

 自分と同い年か、もしくは少し年下の青年に大きな負担をかけてしまったと反省したが、実は一番年上だと明かされた時には驚いたものだ。どう多く見積もっても二十代半ばくらいにしか見えない。もしやエルフの血でも混ざっているのだろうか。


 様々な苦楽を共にした。

 楽しいことよりも苦しいことの方が多かった。でも、旅を始めた当初よりも嫌ではなくなった。剣ダコが潰れ、随分と厚くなった己の掌を眺めて頬を緩める。

 旅を始めてから既に3年が経とうとしている。俺は初め剣も振れない弱小勇者だったから、普通の勇者よりも余計に時間がかかってしまった。

 あれから魔族の侵略はより激しく、被害も拡大しているという。魔族に襲われ壊滅した村々を何度も見た。親を亡くし、あるいはようやく授かった命を奪われた親を何人も見てきた。こんなことはもう終わらせてほしいと懇願してきた彼らの涙を前に、勇者なんてと弱音を吐いていられるほど俺は人を捨てられはしなかった。

 本当に勇者になるとはこういうことなのかもしれない。

 初めは何故右も左も分からない若造をそのまま放り出すのかと神経を疑った。しかし誰でも最初はただの人なのだ。そこから経験を積み、現実を知って、そこから責任と自覚が生まれる。王宮に籠って丁寧に座学をするよりも、現状を己の目で確かめた方がより効果的だ。

 多くの悲しみを見て、多くの嘆きを知って、己の、“勇者”の価値と責務を胸に刻み込む。この過程を得て、初めて人は勇者になるのではないだろうか。

 俺は今、本当の勇者になれているだろうか。

 確認するのは気恥ずかしくて、ただ無言で周りを見渡した。3年共に過ごした仲間たちは全員、初めの頃よりも成長し、顔つきも大分変わった。ふんわりとお淑やかで気弱そうだった聖女は芯の通った凛々しく美しい女性に、慇懃無礼な態度だった剣士は今では頼れる兄貴分的存在に変貌した。人はこれだけ変わることが出来るのだと密かに感心したのはつい最近のことだったか。


「勇者様」


 背後から弓使いの声がする。振り返れば砂埃で汚れた顔を拭い、普段よりも緊張した面持ちで此方を見上げてくる。彼はトレードマークのタオルをしっかりと頭に巻き、身の丈程はある弓を握り直した。

 俺もこの3年で身長が10㎝弱伸びた。そのせいであまり変わらなかった俺達の目線は随分離れてしまった。この旅の中で外見的変化が一番少なかったのは彼だろう。しかし、それはあくまで外見上の話で、俺達の中での彼の存在の変化は計り知れない。きっと彼がいなければ、俺達はここまで来ることはできなかっただろう。


「いよいよですね」

「あぁ……」

「とうとうここまで来てしまったのですね」

「怖いやら、興奮するやら。不思議な気分ですわ」

「長かったようで、案外短かったな」


 仲間たちが言葉少なに呟きを漏らす。眼下には樹海の中に聳える漆黒の城。あれが魔王城、旅の目的地。どこからともなく固唾を飲む音が聴こえる。心臓が緊張か興奮か、喧しく騒ぎ立てる。


「それじゃあ…行こうか」


 労いの言葉はまだ早計だろうと、それだけを振り絞った俺は仲間たちと共に崖から飛び降りた。



 ◆◆◆



 何が起こったのか、分からなかった。


「勇者様」


 誰かの声が聴こえる。こちらに手を伸ばした聖女が口から血を吐き出し、呆けた表情のままその場に崩れ落ちた。

 俺はそれを助け起こしに行こうにも金縛りにあったように動けない。何故? どうしてこうなった? 何が敗因だというんだ?

 分からない。分からないことが恐い。先程まで善戦していたというのにあっという間に傾いた戦況に理解が追い付かない。

 剣士は自慢の魔剣を噛み砕いた牛面の魔者にそのまま胴体を食い千切られた。あっさりと絶命した男の姿に恋人だった魔法使いの女にも隙が出来た。彼女は対峙していた魔王の幹部の拳を諸に受け、腹を突き破り臓腑を撒き散らして壁に磔にされた。そしてたった今、聖女が突如血を吐いて倒れた。魔力の乱れから、恐らくは呪いか何かを掛けられたのだろうと辛うじて分かったが、それだけだ。

 今、この場には己と弓使いの二人しか残っていない。

 何故、と呆然とする頭の中で疑問が湧き上がる。


 強くなったはずだった。

 これまでの旅の中で、何度も窮地を彼らと共にしてきた。ピンチは多々あったが、それでも、全て乗り越えてきた。その自信が命取りだったとでもいうのだろうか。

 仲間を殺された怒りと、喪った悲しみと、次は自分かもしれないという恐怖に足が竦む。けれど撤退するだけの時間と戦力は、もう自分たちには残っていないことを自覚し剣を握り直した。

 大丈夫、まだ、大丈夫。だってまだ俺一人ではない。彼がいるならば、俺はまだ耐えられる。まだ、戦える。


「勇者様」


 思考を巡らせてここからの離脱方法を必死で考えていたところで、背後から耳慣れた声が聴こえた。きっと彼も不安なのだろう。なんとか彼だけでも無事に脱出させたい。いいや、二人で逃げるんだ。今は逃げて、態勢を整えて再び仲間たちの仇を取りに来るんだ。死んだらそこで終わってしまう。絶対に死んではいけない。

 きっと大丈夫だ、諦めるな。そう言葉を続けようとして、代わりに別のものがこみ上げてきた。


「―――………ぇ、」


 声帯を震わせるよりも早く、ごぼりと血痰を吐き出す。遅れて喉に走った激痛に目を見開いた。

 目の前の魔族との距離は開いている。何か術をかけた様子もない。視線だけを下に下げれば、俺の喉を突き破った一本の血濡れた矢じりが目に入った。

 けれどおかしい。それはおかしいんだ。

 だって今、俺の後ろにいるのは。その矢を放つことが可能な人物は、


「勇者様」


 背中を預けている弓使いだけなのだから。

 痛みも忘れて呆然とするしかない俺の耳に、遠くから魔族の嘲りを含んだ笑い声が届く。同時に、刺さっていた矢が勢いよく引き抜かれ、激痛と失血による眩暈でその場に崩れ落ちた。


「ゆ゛、み……つか、い」


 どうして、と唇だけで目の前の男に問うた。脳が、現状を理解する事を拒否して回らない。気が付けば何年振りかの涙がボロリと落ちた。

 見上げた弓使いは、この3年間見慣れた、変わらない優し気な微笑みを浮かべて自分を見下ろしていた。


「嗚呼…あなた方との旅路。楽しかったですが、実に長かった」


 その、変わらない微笑みのまま、彼は理解しがたい言葉を囁いた。肩の荷が下りたような、この場で、己がこんな目に遭っていることが場違いに感じる程穏やかな表情をしていた。


「けれど無為に時間を使った今までと比べたら、明確なゴールがあるというのは心持ちが違いますね」

「……ずっと、」

「はい?」

「ずっと、裏切るつもりだったのか…最初から? 全部、嘘だったのか……?」

「……」


 弓使いは一瞬黙した後、静かに笑みを深めた。肯定も否定もしないその姿に期待と絶望が混ざり合う。


「あなた方の…いえ、あなたとの旅は、けっこう楽しかったですよ? でも、あなた方を裏切ってでも叶えたい願いが、俺にはあったんです」

「願い…」

「覚えていますか? 以前、あなたが俺の故郷の話をねだった時のことを。あの時言った俺の最愛の人のこと。俺ね、彼女にもう一度、どうしても逢いたいんです」


 “彼女”の話をする弓使いの表情はいつもよりずっと柔らかで、本当にその女性のことが大切なのだと、言葉にせずとも分かった。彼の故郷の話はとても興味深いものだったが、それよりも俺は、最愛の人を思い出して微笑む彼を見るのが好きだった。


「だけど、あの国の人間は俺を働かせるだけ働かせて、全然帰る方法を探してくれない。そうしたら、魔族の方から打診があったので、そっちに乗り換えちゃいました」


 しかしそこで、初めて弓使いは眉を潜め、嫌悪を滲ませて吐き捨てた。それは一瞬のことで、すぐに表情はいつもの微笑みに変わっていた。けれど、いつだって微笑みを絶やしてこなかった弓使いの、初めての表情の変化に息を飲んだ。

 弓使いが片膝を折って俺の前にしゃがむ。


「彼らが出した条件は一つ、あなた方を排除して人族の国力を削ぐこと。それさえクリアすれば、俺は彼女の元に帰れる」


 彼は己の胸に片手を添えて、まるで礼をするかのような姿勢で微笑んだ。


「だからね。死んでください、勇者様」


 どこまでも身勝手な願いを吐いて男は笑う。今まで彼の微笑みは皆を勇気づけ、場を和ませてくれるものであったのに、今は何故こんなにも恐ろしく見えるのだろう。

 首から流れる血が、目から流れる涙が、溢れて止まらない。


「それが…君の、本当の願い…?」

「えぇ。騙していて、すみません」


 視界が霞む。彼の声も、徐々に遠くなっていっている。きっと死が近付いてきているのだろうと本能で分かった。


「私の願いを、叶えてくださるのでしょう?」

「私の願いは、故郷で彼女に再会すること」

「そのために、どうか死んでくださいますか? 勇者様」


 君の故郷に行きたかった。

 この戦いが終われば、ずっと遠くにあると語った、弓使いの国を尋ねたかった。

 残してきた者がいると。愛しい相手がいると、目許を優しく緩めた弓使いの様子に、絶対に彼を故郷に返すと約束したあの日。

 思い出の中の彼と、目の前の弓使いの姿が重なる。


「私のために、なんだってしてくださるのでしょう?」


 そうさ、そうだとも。

 今まで散々世話をかけた君のために、俺は何だってしてやりたかった。どんな願いでも、叶えてやりたかった。だから約束した。あの日、勇者として、君の願いを必ず叶えると。

 流石に、こんな形で叶えることになるなんて、夢にも思わなかったけれど。


 ―――ねえ、弓使い。


 たとえ利用していただけだったとしても。俺達には少しの情もなかったとしても。


 俺は、君のことが、大好きだったんだよ。




 ◆◆◆


「……ようやく死んだか」


 事切れた勇者の亡骸を見下ろして、魔族の男が弓使いに歩み寄る。


「流石女神の加護を一身に受けた人間だ。他の人間はどうとでもなるが、お前がいなければ勇者を葬ることは難しかっただろう。礼をいう」

「女神の加護が強すぎて、魔族だと勇者を傷付けられないんでしたっけ。厄介なことですね」


 弓使いは笑みを消して勇者を見下ろし、開いたままの目蓋をそっと下ろして瞑目した。その姿に、ひょいと魔族は片眉を上げる。


「なんだ、その勇者に思い入れでもあるのか? 確かに随分と旅の中で目を掛けていたようじゃないか。信用させるためとはいえ、いつか裏切るんじゃないかと部下が気を揉んでいたぞ」

「確かに、彼と過ごす時間は楽しかったですよ。最後に殺さなければならないのが本当に残念で…でも、彼女と天秤にかけるまでもありません」

「お前のその妻とやらへの執着はいっそ恐ろしいな…いやしかし惜しいな。不死の手駒は随分と使い勝手がよかったんだが」


 そう零した瞬間、弓使いの視線が魔族に向いた。殺気があるわけではない、分かりやすく睨んでいる訳ではない。本当に、一切の感情を削ぎ落したような、能面のような顔で見つめられ、魔族は背中を粟立たせて否定した。


「いや分かっている、きちんと約束は果たそう。人族の王はお前との契約を反故にしたせいでこうして報復を受けているんだ。恐ろしくて私には出来んよ」

「それはよかった」


 にこりと愛想のいい笑みを向けられて、魔族は二の腕をさすった。どれだけ使い勝手の良い人材だとしても、目の前の男は劇薬だ。こちらが裏切ったと悟った瞬間に喉元に食らい付き、それこそ死ぬまで追い回されるだろう。

 きっとあの勇者も、万が一魔族が欲を出して条件を渋った時の保険として目を掛けていたんだろう。強かな男のことだから、きっと他にも何かあるに違いない。


「(本当に、人族の王は馬鹿な真似をしたものだ。まあそのお蔭でこうして魔族が勝利することが出来たのだから、有り難い話だな)」

「それで、約束の儀式はいつ?」

「おいおい…一応言っておくが、あの儀式は目的地に確実に行けるものではないから、本当にお前の妻のいる世界に行けるかも分からんのだぞ?」

「いいですよ。もしそこもダメだったら、また別の手段を探します」


 今までこの世界で築いてきた富も人脈も投げ打って、目的地に辿り着くかも分からない旅路に身を投じようとする弓使いに老婆心で最後の忠告をする。けれど尚も嬉しそうに急かしてくる男に一つ溜息を零し、魔族は準備していた儀式の間に歩みを進めていくのであった。



 ◆◆◆



 あれから、幾十、幾百の世界を渡り歩いてきただろうか。足を踏み入れた大陸の数を数えることはとうの昔にやめてしまった。

 善良な現地人を騙し、人生を狂わせてきた自覚は十二分にあるつもりだ。それでも、諦めることは出来なかった。それでも、彼女に会いたかった。

 既に彼女の顔や声さえあやふやな中、それでも彼女を追い求める必要があるのかと、次元の狭間で何度も自分に問い直したほどだ。

 けれど答える必要さえなかった。わたしは、いや俺は、彼女と再会するためにこうして新たな生を得たのだから。むしろ、彼女に会うために出会った命を無駄にするよりも、きちんと出会うことで今まで散っていった命も報われるのではないかと、そう半ば本気で思ったことを伝えたら、前回いた世界の相棒は引き気味に聴いていたっけ。


 それでも、今回渡った世界は本当に別格だった。

 少し大陸の形は変わってはいたが、概ね俺がいた元にいた世界と変わらない地形を保っていた。そしてなにより、歴史をたどると現在は異なる地名を名乗ってはいるが、過去には私も知る、『旧人類』の地名が使われていたという事実。

 これが期待せずにいられるだろうか。

 今までなかった“1回目の世界の名残”。それが保たれた世界への期待。何千何万という世界で彼女と逢えなかった故の渇望。それらが一気に叶う可能性への果てしない期待と不安を、有象無象の民は想像が出来るだろうか。


「—――旧◆◆山へようこそ」


 にこやかなガイドの挨拶に微笑を返し、その背にある山を見やる。

 それは嘗て、俺が妻と生涯を共にあろうと決意し、けれども先に命を散らした山であった。


「―――菫、もうすぐだ。もうすぐ、逢えるよ」


 俺は吊り上がる口角を押さえられず、震える声でそう呟いて、足を踏み出した。


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