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2

 翌朝、史郎はさわやかな目覚めを迎えていた。

 DMの主であり、家電量販店で会った史郎のファンを名乗るフォロワーがしっかりはっきり『シロの三次元についてネットに流さない』と宣言してくれたおかげである。何度かメッセージのやり取りをした結果、彼が善良な人間だとわかって史郎の気持ちはずいぶん楽になった。

 そうして、引きこもり計画を破棄した史郎はいつもより早く学校に向かうことにした。

 はじめてできた友人に浮かれていたせいではない、と断言はできないけれど。あれこれ気遣ってくれた担任へのお礼と差し入れへの感謝を告げるというのがメインイベントだ。

(朝早く来ると、誰もいないから資料写真が撮り放題だな)

 ひともまばらな校舎内で、日ごろは撮れないいろんなアングルの写真を収めながら職員室に向かった史郎は、用事を終え機嫌よく自分の教室に向かう。始業時間が近くなり、にぎわいはじめた生徒の波を縫う史郎に笑顔と呼べるほどの表情はないけれど、心のなかはご機嫌だ。

(DMのひと、また絵をアップするの楽しみにしてるって言ってくれてたな。依頼された絵はまだできあがらないし、なにか描きかけのを完成させようかな)

 絵を描く算段をつけながら史郎が教室に入ると、駆け寄ってくる人影があった。

 視線を合わせないためうつむく史郎の視界に見えた脚は、すらりと伸びた女子生徒のもの。けれど、史郎と大差ない大きさの足は小柄な猿渡のものではない。

(猿渡……じゃ、ない……?)

 誰だろう、と史郎が視線をあげるよりはやく、上から声が降って来た。

「上江ぇ、ちょっと話があんだけど」

 ハスキーな声と少々ガラの悪いことばづかいに、史郎は思い当たる相手がいた。

 恐る恐る顔をあげれば、そこにいるのは長い髪を高い位置で結い上げた長身の美女だ。

「ギャル委員長……」

「ぶはっ! それ、ユーリちゃんのことだよね!?」

 いつの間に寄ってきたのか、王子がとても楽しそうに笑いだした。

(そうだ、猿渡の友人のユーリだ。ちょっと怖いギャルでクラス委員長で、陸上部の)

 持てる限りの情報を思い浮かべた史郎には、ユーリにからまれる心当たりがあった。

 猿渡の態度について、勘違いするなと釘を刺されたことだ。

(勘違い……はしてない。してないけど、俺なんかが猿渡に絵を教えるなんて、調子に乗ってるって言われても当然だ……)

 思い当たる節がありすぎて、史郎の顔は真っ青になる。腹を抱えて笑う王子はそれに気が付かず、ヘビとカエルの睨みあい、もといユーリと史郎の硬直状態は手洗いに行っていた猿渡が戻ってくるまで続けられたのだった。

 

 ~~~


「上江、ごめんっ!」

 ぱちん、と合わせた手のひらの向こうで猿渡が勢いよく頭をさげる。

 昼休みのプール付近はひと影もなく、不審げに眺めてくる生徒の姿もなく落ち着いて話すにはもってこいだ。

 とはいえ夏を迎えるこの季節、太陽に容赦なく熱された大気に満ちた屋外は相応に暑い。日陰に腰を下ろした王子も服脱ぎこそしないがにじむ汗が不快なのか「あちー」と言いながら制服の胸元をつかんで涼を取ろうとしている。

 けれど、史郎の背中を流れる汗は暑さのせいではなかった。

 頭を下げる猿渡の隣では、不機嫌そうに腕を組んだユーリが史郎を見下ろしている。

 今朝、ユーリに「面貸せや」と言われてから(※史郎視点)今までその真相がわからず怯えていた史郎は、死を覚悟して身体を固くしていた。

 詳しく話すからと昼休みになるなり呼びだされたときには「か、家族に今までありがとうって伝えてほしい」と王子に頼んで大笑いされもした。それほどの覚悟を持って向かった先で告げられたのは。

「ユーリちゃんに、上江がイラスト描くひとだってバレちゃった……」

「え」

 心底済まなそうな猿渡の隣でユーリが鼻を鳴らす。

「楓花がイラストアプリいじってたから、どうしたんだ、って聞いただけだろ。そしたらしまりのない顔してあんたの席のほうを見つめるから」

「『上江が師匠とか言ってたけど絵の師匠なの?』なんて聞くから! 思わずうなずいちゃったんじゃん! ユーリちゃんのばかあ!」

 内緒にするはずだったのにい! とむくれる猿渡のとなりで、ユーリは「さて」と腕を組みなおした。

(終わった)

 やっぱり過去が繰り返されるのだ、と史郎は身構えた。

 猿渡と王子がやさしいから今回はいつもと違うのかもしれない、と期待しかけていた心に鍵をかける。これから浴びせられるであろう悪意を思って史郎が震えたとき。

「あたしだって絵の描き方習いてえよ!」

 ユーリが吠えた。

「へ?」

 思わず顔をあげた史郎の前で、こらえきれないとばかりにユーリは喋りだす。

「店の液タブで絵を描いたんだって? ライブドローイングじゃねえか。しかもファンに見られたって、ファンがつくレベルの絵師だろ。そんなんもう神じゃねえか。神絵師の生絵描きをなんであたしは見逃したんだ! っつーか、神絵師が同じクラスにいるのに気づかず今日まで過ごしてたとか……」

 弾丸のようにことばをつむいだユーリはうつむいて、硬くにぎった拳を震わせる。かと思うと、その手で史郎の胸倉をつかんで吠えた。

「超・大損害じゃねえか! どうしてくれんだ!」

「えっ」

 意味が解らなかった。

 胸倉をつかまれて「調子に乗ってんじゃねえよ」と殴られることまでは想定していた史郎だったが、大損害の意味が解らない。

 そんな史郎をよそに、ユーリはますます拳に力を込めて吠える。

「あたしだって絵師に弟子入りしてえ! いや、むしろ絵師に依頼してえっ」

「え、ええ……?」

 叫びの内容は史郎にも覚えのあるものだった。

 どうしたらうまくなるのか、自分より絵がうまいひとばかりで気が滅入ることなどしょっちゅうある。描いても描いてもうまくなっている実感などなく、かと言って気晴らしにひとの絵を見れば自分より優れた点ばかりが目についてますます気が滅入る、負のループ。

 大変に身に覚えがあるし共感もできる叫びであったけれど、それを叫んでいるのがクラスメイトのギャルであり委員長であるユーリであることが史郎の理解をにぶらせる。

「えっと、ギャル委員長は、絵を描くひと……?」

 まさかそんなわけはない、と思いながらも問いかける史郎のうしろで王子が「ぶふっ、ギャル委員長! 何度聞いても笑えるっ」とむせている。静かにしていると思ったら、おにぎりにかぶりついていたらしい。ひとりで笑い転げる王子をよそに、猿渡が大真面目にうなずいた。

「そう。言っちゃっていいんだよね、ユーリちゃん?」

「……ああ。背に腹は代えられねえ」

 唇をかみしめてうめくように言うユーリのせいで、場の空気が一気にシリアスモードに塗り替えられていく。王子は相変わらず笑っているのだが、気にする者はいない。

「あのね、上江。ユーリちゃんはオリジナル小説書いてて、そのキャラクターを描きたいんだって! だから、だから……」

「いい、そこから先は自分で言う」

 言いよどむ猿渡をユーリが制した。

 緊迫した横顔を見せる長身美女と、その横で暗い顔をする美少女。そこだけ切り取れば何やら重大な告白をするかのようだが。

「あたしに絵を描いてくれ!」

 意を決して放たれたことばは平和だった。

「絵……?」

「そう!」

 呆然とつぶやく史郎の胸倉をつかんだまま、ユーリが興奮を抑えきれないとばかりに手を振り回す。

「小説ってただ書いただけじゃ大してだれも読んでくれねえんだよ! 宣伝するって言ったってSNSに文字ずらずら並べただけじゃ目に留めてももらえない。でもネットで絵師に依頼するのってハードル高えし、頼むにしても自分のイメージを明確にしときてえと思って描いてみたんだけどよ……」

 ことばを切ったユーリは、それまでの勢いをすっかり失った様子でうなだれる。

「まったく思い通りに描けねえんだ。描いても描いてもうまくならねえ自分の絵はもう見飽きたんだ。だから、頼む! 上江! あたしのイメージを形にしてくれ!」

 ユーリの熱い思いをぶつけられた史郎は、猿渡がイラストアプリの描画画面を知っていたのはユーリつながりか、と納得しながらもおろおろする。

(さ、三次元のひとからの依頼! いや、有名な絵師になると企業から声がかかって打ち合わせに行ったりするってネットで読んだことあるけど。でも、俺にそんな事態が降りかかってくるなんて。しかも同級生からの依頼! ど、どうしたら……)

 いつもであれば引き受けるか悩む案件は妹のヒヨに相談する史郎だが、今回はいつもと勝手がちがう。依頼者は目の前にいるし、頼れる妹の中学校は校内では携帯電話の電源を落とす決まりだ。電話をして泣きついたところで気づかないだろう。

 どうしよう、どうしようと混乱した史郎だったが、依頼に対して無反応はよくないとくちを開いた。

「ほ、本気ですか……?」

 自分に依頼をするなんて本気で言っているのだろうか、という自信の無さから出た発言であったけれど、ユーリは違う意味に捕えたらしい。

「ああ? あたしが嘘ついてると思ってんの? わざわざ創作してます、なんて暴露してまで嘘つくような奴だと思ってるわけ?」

 盛大に眉をしかめて口の端を吊り上げるユーリは、どこに出しても恥ずかしくない不機嫌面で史郎をにらみつけた。

 そのあまりの眼光の鋭さに震えた史郎は、慌てて首を横に振る。

「いいえ! その、そうではなくて」

「だったらあれか? タダで描かされそうだとでも思ってるんだろ」

「いえ、そんな!」

 史郎の否定も耳に入らないのか、感情も露わなユーリが肩を怒らせて史郎に詰め寄る。

「依頼料は払うに決まってんだろ! キャラのカラー立ち絵ひとり分で一万円、キャラデザをお願いするんだから五千円上乗せ。加えて衣装に手間がかかるから手間賃三千円も出す!」

 一万円+五千円+三千円千円=一万八千円。

 日頃、提示しているものを上回る金額を提案された史郎は驚いた。

 妹のヒヨに常々「自分の技術を安売りするな!」と怒られながらも、こんなにお金をいただいていいのだろうか、とびくびくしていた史郎が固まるには十分な値段だ。

 その硬直をどうとったのか、ユーリはすこし考えて付け足す。

「足りないなら、あと三……いや、五千円までなら追加できるけど」

「えっ! いえ、あの、十分です!」

 黙っていて値段を吊り上げられてはたまらない、と史郎が声をあげれば、ユーリはなぜか「そうか?」と不満げに言って続ける。

「んでもって、あたしのイメージとのすり合わせもしてほしいからラフのリテイク一回ごとに千円プラス! 著作権はあんた持ちで、公開時にはもちろん絵師の名前も表記する。完成した絵はあんたの仕事実績として公開してもらって問題ないし、急ぎの案件じゃないからいまあんたが受けてる依頼のあとで構わないし、手が空いたときに進めてもらうのでも構わない」

 まるで事前に用意していたかのような文言だが、実際に用意していたのだろう。ユーリのくちはまだ止まらない。

「それから、絵柄の指定はなし。楓花からは『きれいでかっこいい』って聞いてるから、むしろいつもの絵柄でお願い。イラストサイズは衣装とか顔がつぶれない程度なら指定なし、表情差分とかバックスタイルはいらない、背景もなし。あとはなんかあったかな……」

 ずらずらと並べられるどれも、史郎にとって不満のある提案ではなかった。むしろ、絵師に依頼するためによく調べていると感心するほどだ。

 けれど受けやすい依頼か否か以前に確認しなければいけないと、史郎はユーリの声を遮るための声を決死の覚悟で発した。

「あの!」

 ぴたり、とことばを切ったユーリに「なに?」と促された史郎は、彼女がまたもやあれこれと絵師に有利な条件を足そうとする前に叫ぶ。

「俺なんかの絵で、いいんですか!」

 切実な叫びだった。悲痛さすら感じさせる叫びに、黙って見守っていた猿渡が思わず史郎に歩み寄る。

「そんな、俺なんかなんて」

 言わないで、と続けようとした猿渡を手で制して、ユーリが「それもそうか」とうなずいた。

 納得する気持ちがこもった声がうつむいた史郎の耳に届くと、彼の胸に安堵が広がると同時に、じくりとした痛みが走った。自身が期待されていないことを受け入れるためのかすかな痛みだ。

 ネットの世界では依頼主たちは史郎を知らない。少なくとも、史郎が三次元でどのように生きているか知らない。

 絵しか見せずに依頼を受けて金銭を受け取ることは、依頼主をだましているようで気が引ける。だから、史郎を知っているユーリが依頼を取り下げることにほっとする気持ちがあった。

(当然だよな、俺みたいな根暗に絵の依頼をするなんて、あり得ないから)

 自虐の痛みをいつものこと、と史郎が意識の隅に追いやろうとしたとき。

「じゃあ、あんたの絵、見せてよ」

「えっ」

 話はそこで終わりではなかった。

 驚いて顔をあげた史郎に、ユーリは「まだ時間あるし」と笑顔を見せる。

「SNSでもアプリに入ってる描きかけのやつでもいいからさ」

「え、でも……」

 本気で依頼を考えているらしいユーリに史郎は戸惑う。史郎の視線がさまようのを目にしたユーリは首をかしげた。

「あんたスマホで描くって聞いたけど、もしかして絵を描く用は学校に持ってきてない?」

「いえ、そんなことはないんですけど」

「だったらいいじゃん。ネットで公開してるんでしょ?」

 煮え切らない史郎の態度に、ユーリはしびれを切らしたらしく、はやく寄こせとばかりに手の平を差し出した。

 猿渡は親友を止めたものか悩んでいるようで、ユーリの背後でうろうろおろおろと史郎の様子をうかがっている。

 史郎はと言えば(確かに公開してるから……いやでも三次元のひと、とくにクラスメイトに見せるのはどうなんだ……)と差し出された手とスマホの入ったポケットの間で視線をうろうろさせていた。

 さわやかな陽光に似つかわしくない沈黙がじわりと広がりかけた、そこへ。

「史郎、ユーリちゃんにも約束してもらったら?」

 くちを挟んだのは王子だった。注目を集めながら片手に持ったコロッケパンに大きくかじりつく。

「「約束?」」

 思わぬ提案に史郎とユーリの声が重なる。一方は眉を下げて不安そうに、もう一方は眉を吊り上げての異口同音に、パンを飲み込んだ王子は楽し気に笑った。

「そ。俺と楓花ちゃんにお願いしたでしょ? クラスのみんなには絵を描いてること内緒で、って」

「した、けど……」

 王子と猿渡が了承してくれたのはふたりが同情してくれたからだと認識している史郎だ。それをユーリにまで望むことはできないとくちごもる。けれど。

「いいよ。っていうか言いふらすようなことでもないでしょ」

 あまりにもあっさりとユーリは了承した。そして「サンプルの絵が公開されてる場所と、依頼用のメアドとかあるなら教えて。そっちのほうが良いんでしょ」とまで言う。

「なんで……」

 スマホを取り出して待つユーリに、史郎は思わずつぶやいた。疑問でありながら形を成さないその声にユーリが器用に片方の眉をあげる。

「なにが」

「なんで、そんな……そこまでして、俺なんかに依頼をしてくれようとしてるんですか」

「なんでって、あたしは自分のキャラを作り上げたいの。そのための絵師がよりどりみどり過ぎて決められないし、依頼なんてはじめてだから。そこでクラスメイトに有償依頼を受けてる絵師がいます、って聞いたらお願いするでしょ」

 当然だろうとばかりに言われた史郎は、絵を描くという行為に抱いていた劣等感を揺さぶられて混乱した。

「なんで、俺のこと気持ち悪いって言わないの」

 言ってから、史郎は自分がなにを口走ったのか気が付いた。

 はっとしてくちに手をあてるけれど、もう遅い。

 驚いたように目を丸くする猿渡と王子に見つめられ、うつむいた史郎の頭にユーリの声が落ちる。

「はああ? 意味わかんねえんですけど」

 不機嫌だ、という感情を思い切り込めた声だった。同時に、痛いくらいの視線を感じた史郎は黙って耐えて済ませられるものではないと悟る。

「……えっと、あの、絵を描くのなんて、気持ち悪い、とか」

「誰かそう言ったのか?」

 くちごもりながらも告げた史郎にユーリの詰問が飛ぶ。

「前の……学校で」

「中学か」

 短い問いは鋭く、史郎が黙り込むことを許さない。

「えっと、中学と、小学校と」

「クラスのやつが言ったのか」

「…………」

 史郎は返事の代わりにこくりとうなずいた。身体の横で握りしめられた拳を目にした王子が気づかわし気に眉をひそめ、史郎の心中を思いやった猿渡がまるで自分が傷ついたかのように悲し気な顔をする。

 かけることばに迷ったふたりをよそに、ユーリは何でもないようにくちを開いた。

「お前、運がなかったんだなあ」

「う、ん……?」

 思いもよらないことばに驚く史郎に、ユーリが首をかしげる。

「そうだろ? ひとの趣味にくち出すのは野暮ってもんだし、絵が描けるのってすげえじゃん。お前、クラスメイトの運が無かったんだなあ」

「運……」

 これまで何度も苦しめられてきた人間関係を、ユーリが『運』のひとことで片付けてしまったのが史郎には信じられなかった。信じられなかったけれど、嫌な気持ちではなかった。

(俺、運が悪かったんだ)

 そう思えば、そんな気がしてくるから不思議だ。

 あのとき、絵を描く史郎を馬鹿にしたあのひとがいたことは史郎にとって不幸だった。あのとき、史郎の絵を貶める声があったことは史郎にとって不幸だった。あのとき、史郎の周りにいるひとまで侮辱する誰かがいたことは史郎にとって不幸だった。

 それらは当時の史郎にとって、何とかできることではなかった。

(あいつらがいろいろ言って来たのは、俺が悪かったからじゃない……? あいつらが俺の友だちまで悪く言ったのは、俺が悪かったせいじゃない?)

「料簡のせめえやつらばっかりだったのは運が悪いってことだろ」

 悪いのは史郎ではなく、悪く言う者たちと会ってしまった史郎の運だった。

 そう告げるユーリのことばは、史郎の胸に新鮮な響きを持って転がり込む。

「俺が、悪いんじゃない、の……?」

 呆然とつぶやいた史郎の頭にぽん、と大きな手が乗った。

「史郎はなんか悪いことしたの?」

 王子に微笑みかけられて史郎は目を伏せる。

「わから、ない。わからないけど、でも」

 史郎の胸をぐるぐると回るのは、ずっと抱いていた迷い。

「でも、もし俺が絵を描いてなかったらあんな風に言われることもなかった」

 絵を描くことが好きな史郎を誉めてくれる両親にも、史郎の絵を好きだと言って応援してくれる妹にもずっと言えなかったことば。行き場がなくて、けれど消えもしないまま史郎のなかで膨らみ続けてきた思いがここにきて、とうとう音になったのだ。

 史郎の心臓は痛いくらいに暴れていた。

(ああ、言ってしまった)

 反応が怖い。ユーリだけでなく王子や猿渡の反応も想像ができなくて、史郎はうつむいたまま固くまぶたを閉じた。

 大きすぎる諦めの気持ちに満たされて、史郎の心はむしろ凪いでいる。

 まるで断罪を待つかのように静かな史郎を見つめて、三人は顔を見合わせた。

 王子と猿渡がたがいに譲り合うように視線を交わすのを見てとったユーリは、ふたりを待たずにくちを開く。

「それでも絵を描きたかったんだろ。あり得ねえ『もしも』なんて言ってもしょうがねえし、考えるだけ無駄無駄」

 言いながらユーリはひらひらと手を振る。史郎がずっと胸に抱えて、何度も何度も考えた『もしも』を軽く吹き飛ばすように。

「そうだよ~。上江、絵を描いてるときすごくイキイキしてたもん。続けられるなら続けなよ」

 にこにこ笑う猿渡は心底からそう思っていると表情に表れていた。

「好きなんでしょ、絵を描くの。だったらもう、嫌になるまで描くしかないでしょ」

 軽い調子で言う王子に史郎は呆然と問う。

「俺、絵を描いててもいいの?」

「悪いわけねえだろ」

「描いてよ~。あたしもっと見たい!」

「俺も見たいなあ。俺が小学生のころなんて、絵が描けるやつはヒーローだったよ」

 ほろ、と史郎の目から涙がこぼれた。

 続けて落ちそうになる雫を腕でぐしぐしとぬぐって、史郎は鼻をすする。

「きょ、教室で描いたらまた馬鹿にされるかもしれないから」

 ネットに上げるのを見ていて、と続けようとするのを遮ったのは、呆れたようなユーリの声だった。

「お前それなあ、うちのクラスで言ってみろ。むしろみんな、怒るかもよ」

「えっ」

(怒る? なんで? 教室で絵なんて描くなって、言われるってことか?)

 そう思い至る史郎だが、どうにも文脈がおかしい。そんな史郎の様子に、ユーリはにやりと笑う。

「その顔はわかってねえな。昼休みは、もうあんま時間ねえし放課後は部活あるからな……まあ、そのうちわからせてやるから」

 意味深なユーリの笑みについて聞くより前に、王子が声をあげた。

「それじゃそろそろご飯にしよう。はやく食べないと、昼から持たないよ~」

「えっ、王子さっきから食べてるじゃん」

「まだ食べるのかよ、食いすぎだろ」

 猿渡とユーリがおかしなものを見るような目を向けても王子は笑顔のままだ。

「ほら、俺ってば成長期ですから。さあさ、史郎もいっしょに成長期、成長期!きのう、俺が食べちゃった手づくりおかずの分も遠慮なく!」

「え、う、うん……」

 パンやおにぎりの詰まった袋を差し出された史郎は、戸惑いながらも手を伸ばす。

 ユーリの発言についてきちんと聞いておきたいと思ったのだけれどそんな隙はない。あれもこれもと王子に手渡され、また今度部屋に行きたいと言う猿渡への返事に迷い、教えられたSNSを開いたユーリに「すげえ! すげえよ、こんな絵描いてもらえるんならもっと出すべきじゃね!?」と背中を叩かれているうちに昼休みは終わっていった。

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