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授業終了とともに立ち上がる猿渡。そのたび機嫌を悪くするユーリ。へしょげるアホ毛とギャル委員長の鋭い眼光から逃れるべく、窓の外を見つめる史郎。
この構図をくり返すこと数回。迎えた昼休み。
「かっみえー!」
立ち上がるなり叫びながら突進してきた猿渡の姿を見て、颯爽と逃げようとした史郎の肩にぽん、と誰かの手が置かれた。
(誰だ!?)
もしや猿渡に加勢する陣営が現れたのかと史郎は錆びた機械のような動きで嫌々振り向いた。
肩に乗る手は指が太い。爪が四角い。骨格がしっかりしているし、手の甲の筋がくっきり目立つ。
(これは、男の手だ)
作画のための資料で男女の手をいくつも見て来た史郎の勘が告げていた。
(誰だ……?)
資料としての手はいくつも見てきたが、クラスメイトに関しては手どころか顔すらまともに見ていない史郎には、相手が誰だかわからない。
「上江、ちょっといい?」
そんな史郎の耳元でささやかれるさわやかボイス。
声のイケメン具合で史郎は相手がわかった。と言っても友だちではない。史郎の前の席に座っている、ただのクラスメイトだ。
「王子……」
「あは。上江、俺のこと認識してくれてたんだ」
さわやかに笑いながら史郎の肩を抱いて歩き出したのは、クラスメイトの大司晴。名字の響きとその顔面のつくりの良さからから「ハル王子」と呼ばれるさわやかにチャラいイケメンだ。
「え! なんで王子が上江と!?」
「あは。上江は俺と昼休みを過ごすんだ。ごめんね、楓花ちゃん」
史郎の机にたどり着いた猿渡が驚愕の声をあげるのに、王子は笑って片手を振る。猿渡がショックに固まっている横をすり抜けて、王子は史郎を促して教室を出た。
(ていうか、さりげなく強引だな!?)
史郎は気づけば教室を出て、生徒でごった返す廊下を歩いていた。
呼びかけてきた王子を認識してその名を呼んだだけであるのに、いつの間にか連れ立って歩いていたという現状に、史郎の頭が追い付かない。
(どういうことだ。リア充の固有魔法か?)
「あの、なんの用が」
これまでの接点といえば前から回されてきたプリントを渡すほうと受け取るほう、というレベル。当然、連れ立って歩いたことなどない史郎は戸惑う。
「んー? まあまあ、いいからいいから」
なにがいいのかまったくわからないが、うまいこと囲い込む腕と絶妙な力加減のせいで史郎は逃げるに逃げられない。もう片方の手にはビニール袋を提げてぶらぶらさせる余裕すらある。
(なんだこの隙のなさ!)
リア充に慄きながら連れられるまま校舎の階段を下り、たどり着いたのは。
「プール……?」
校舎が建ち並ぶ一画から体育館、運動部が身体を鍛えるためのトレーニングセンターとさらに弓道場を挟んだ先にあるのは、プールだ。
都内にしては珍しく屋外プールのあるこの高校はほどほどに古く、後からいろいろと足りない施設を増やしていったのだろう。敷地内において校舎群とは対角線上に位置するプールは、移動するだけで時間がかかるから気を付けるように、と先日担任教師から話があったばかりの場所だ。
「あ、もう水が張ってある」
スリッパ履きのままプール横の階段を登ると、並々と水の張られた青い水底がよく見えた。陽光を受けてきらめく様は、いかにもさわやかな青春の背景に相応しい。
「はやいクラスは明日からプール授業あるからね~」
手にしていた袋を史郎に押し付けた王子は軽い声で言って、フェンスの上を舞った。
「は?」
プールをぐるりと囲うフェンスは、当然のことながら閉められている。閉めてますよ、と主張するように出入口部分のフェンスには南京錠がきらりと輝いている。
それをきれいに無視して、王子はプールサイドに降り立った。そして、勢いよく制服のシャツを脱いだ。
「脱いだ!?」
「あはは。生着替え~」
王子は笑い、ためらいもなくズボンも脱ぎ捨てる。
(あ、いい背筋)
思わず史郎が見とれるほどに、しっかりと筋肉がついた背中は厚い。脚も筋肉質で、長いうえに無駄がない。イケメン、イケボイスなうえに高身長で体つきも良い。
(さすが王子だ。資料用にポーズ取ってくれないだろうか)
などと眺めていた史郎は、つるんとむき出しにされた王子の尻を目にして叫んだ。
「裸夫!」
「やーん、上江のえっちぃ」
全裸である。史郎がぼうっとしている間にプールサイドの王子はボクサーパンツすら脱ぎ捨てて、生白い尻を陽光の元にさらしていた。
(変態か?)
露出癖に付き合わされているのだろうか、と警戒した史郎をよそに王子はプールサイドを歩いていく。
「上江、見張り役ね!」
言うが早いか、王子の姿が消えて水しぶきだけが残る。
かと思えば、透明な水をまき散らしながら王子が顔を出した。プールサイドに寄りかかり、史郎に向かって笑いかける姿はまるで何かのプロモーションビデオかのようにきらめいている。
(髪からしたたる雫すら様になる男が三次元に居ようとは……)
呆然と見つめる史郎の視界でさわやかに笑いながら王子が指をさす。
「そこ、階段のところ日陰になるっしょ? そこに座ってさ。その袋の中身、賄賂ね。好きに食べて良いから、見張りよろしく!」
言いたいだけ言うと、王子はまたとぷんと水のなかにもぐってしまう。透き通った水のなかをイルカのように身体をくねらせて遠のいたかと思えば、ざばんと水から顔を出してクロールをしたり、平泳ぎしてみたり。
「自由だな……」
恐ろしいまでの自由さに史郎はフェンスをつかんでいた手を離し、指で示されたあたりに目をやった。
王子が言った通り、プールに続く階段の横には小ぶりな建物があって影を落としている。部室棟であるため、放課後になればひとでにぎわうだろう付近は、昼休みには人影どころか話し声すら聞こえない。すぐそばの弓道場が広場になっているおかげか、涼しい風も吹いてきて居心地は悪くない。
「喧騒が遠いのも、まあ、アリだな」
王子は泳ぐために見張りが欲しかったらしく、結果として猿渡から逃げられた史郎は静かな空間は落ち着くからまあ、悪い状況ではない、と結論づけた。
気持ちを切り替えたところで階段に腰を下ろした史郎、さっきほど押し付けられた袋のなかを覗いてみた。
なかに入っているのは、高校からほど近いコンビニの名物、爆弾おにぎりと総菜パンが三種類。それからペットボトルのお茶が一本とフェイスタオル一枚。
「おにぎり五つは多くないか……?」
賄賂、と王子は言っていた。つまり食べてもいいということなのだろうか、と史郎は顔をあげる。
校舎のほうに目をやれば、ひとの姿はまったくない。量が多いから誰か後から来るのかと思ったけれど。
(これはもしや俺と王子のふたりぶんなのか)
いやまさか、と思いながらもためらいの残る史郎は、のどの渇きを覚えて視線をさまよわせた。
「飲み物は、と」
プール横からすこし戻ったところ、体育館前に自動販売機があった。プールと体育館は一本道でつながっており、校舎側から誰か来たとしてもすれ違うことになる。史郎が飲み物を買いに行ったところで、誰かが全裸の王子と鉢合わせる危険は限りなく低い。
そう考えて史郎は立ち上がった。幸い、財布はポケットのなかにある。
飲み物を買って戻ると、プールからはかすかな水音が聞こえていた。
(ひとりで泳いで楽しいのだろうか)
ふと浮かんだ疑問に、楽しいかもしれないと想像する。
ひとと接触することに気を配らずに全身を水に預けるのは、楽しそうだ。とはいえ、史郎は格別泳ぐのがうまくはないから想像するだけで十分だとも思ったけれど。
「……ここなら誰も見てない、か」
あたりを確認し、途切れない水音から王子もまだあがってこないだろうと判断して、そわそわとスマホを取り出す。
暗い画面に目を落として、もう一度周囲を確認する。
(昨日の今日でまた学校で描こうとするなんて、俺も大概だな……)
自嘲しながらも、手は止まらずイラスト作成アプリを開いていた。
そして画面のなかで選択するのは描きかけの絵ではなく、新しいキャンバス。
(水のなか。透明感が出したい)
真っ白いキャンバスに乗せる色は暗い青。キャンバスをべったりと同じ色で塗りつぶしてしまう。
暗い青を置いたうえに人物を描く。素っ裸ではなく、腰に布を巻いた男の姿。
男が画面の下に泳いでいくところを描きかけて、史郎はふと手を止めた。
人物の画像の向きを上下反転させて、きらめく水面に向かわせる。人物の塗りは格別青色にこだわらず、肌を肌の色で、髪も布もそのものの持つ色そのままに塗っていく。
できあがったのは濃い青を背景に上を向く男の絵。髪の毛や布がやや浮いて見えることを除けば、水中にいるようには見えない。
「はー! 気持ち良かった!」
後ろから聞こえた声にハッとして、史郎はスマホを胸に押しつけて振り向いた。
「やだ、上江くんのえっち!」
「……はい」
素っ裸で胸元を隠す王子にビニール袋から引っ張り出したタオルを投げ渡し、そっと背を向ける。人体とあればデッサンの練習になる、と思う史郎であるがぶらつく股間に興味はない。
そうしている間にガシャガシャと音を立てて王子がフェンスを越えてくる。
ちら、と見やった史郎は王子がズボンは履いていることにほっとした。上半身裸なのは暑いから仕方ない、と放置する。
「あれ、上江まだ食べてなかったの? もしかして俺のこと待ってた?」
頭をがしがしと拭きながら史郎のそばに来た王子は、なぜかうれしそうに笑う。
「いや、単にちょっとスマホいじってて」
いじっていた詳細は聞いてくれるなよ、と念じながら足元を向いていると、王子は史郎より一段高いところに腰をおろした。
一段差があるというのに足を置いている段は同じという、現実の厳しさから史郎はそっと目を逸らす。そもそも身長が違うのだ。頭半分の差は大きい、と自分を慰めながら。
「次俺ね」
「はい」
次、と言って待たれてしまえばひとつ取らざるを得ない。史郎は適当に爆弾おにぎりをひとつもらって、袋を後ろに渡すと巻き付けられたラップをはがして、おにぎりにかぶりついた。
(チキン南蛮か)
肉と米だけで構成された潔さが高校男子の味覚にストライクだった。野菜を排除し、タレとタルタルソースで濃いめに味付けされているのがまた憎い。
健康のためと節約のため、野菜中心になりがちな史郎の暮らしのなかで、たまに食べるガツンとした肉はとてもうまかった。
「上江、次どれにする?」
二口目を飲み込んだところで王子に問われた史郎が「は?」と振り向く。
王子は今まさにコロッケパンにかじりつこうとしていた。その尻のそばには、クシャクシャに丸められたラップが転がっている。
そして史郎の見ている前でコロッケパンが見る見るうちに消えていった。
(三くちで食べたぞ、この王子。くちでけぇ)
「遠慮してると俺、全部食べちゃうよ?」
言いながら、新たなおにぎりを手に取ってかぶりつく。勢いがまったく衰えていないあたり、誇張じゃなくて本気のことばなのだろう。
「……いや、俺はひとつでじゅうぶんなんで」
「そう?」
王子は不思議そうに首を傾げながらも、すぐに引き下がった。
(無理に勧めてこないやつで良かった)
ほっとする史郎は、この付き合いやすさもまた王子と呼んで慕われる由縁なのかもしれないと覆う。
さわやかな風が吹き抜けた。
六月もそろそろ終わるこの時期は気温もずいぶん上がるけど、今日は屋外でも過ごしやすい。空には雲が散らばって、適度に太陽を隠してはまた通り過ぎて地上はほどよく明るく照らされている。
こんな心地いい季節に同級生とプールサイドで並んで昼飯を食べることが訪れるなんて、と史郎は妙な気持ちになった。
うれしいような、くすぐったいような、おかしな気持ち。不思議と居心地の悪さを感じないのは、王子が変に気を遣ってこないし、かといって史郎をいない者としているわけでもないからだろう。
「はー、食べた食べた!」
(ほんとに全部食べたよ、こいつ)
つい、空になったビニール袋とむき出しの王子の腹を見比べてしまう。
あれだけあった食べものをすっかり入れたというのに、引き締まった王子の腹はわずかに膨れただけ。
(どうなってるんだ? っていうか、腹が六つに割れてるのリアルで初めて見たわ。ほんとに溝ができるのか、すごいな)
「いいっしょ、肉体美。でも俺、燃費悪いんだよね~」
「うん、すごい筋肉だ。これを維持しようと思ったらあれだけの食事が必要なのか……」
漫画の大食いキャラはあながちネタというわけではないのかもしれない、とまじまじとむき出しの腹筋を見つめていると「くっ」とこらえそこねたような笑い声が落ちて来た。
「ふはは! 上江って素直なのな。あれこれ言ってこないし、俺好きだわ!」
「……そうか、ありがとう?」
王子はあははと楽し気だ。「そこでお礼言うんだ~」と笑っているけれど、馬鹿にしたような響きがないから、嫌な気はしなかった。いきなり「好き」と言ってくる距離の詰め方には動揺してしまったけれど。
「もっと早く話しかければ良かった。上江、構われるの好きじゃないのかと思ってたからさ」
笑いをおさめた王子に言われて、史郎は面食らう。
「俺に? なぜ?」
どうして話しかけようと思っていたのか。そもそも、構われたくなさそうだと認識して遠慮してくれていたのは、なぜなのか。
王子は入学当初から多くのひとに囲まれてにぎやかに過ごしていたし、実際友人も多い。教室でもいつも誰かしらと笑い合い、楽しそうな声をあげている。
(だというのに、なぜぼっちを選んだ俺を気に掛ける?)
警戒心がじわりとにじむ。
目の前でさわやかに笑う男が悪意を持っているとは思いたくない史郎だが、過去に心を折り続けてくれた者たちはほとんどが悪人ではなかった。何気なく、ふとした拍子に「絵なんか」とこぼして史郎に傷をつくってきた。
何度も、何度も、不意打ちだからこそ、防ぎようもなく深く傷つく。
(友だちになれるかも、と思ったときが一番危ないんだ。もう何度も経験してきた。もうたくさんだ)
身構えた史郎に、王子が告げる。
「だって、上江おもしろいもん」
「はあ?」
斜め上、バッターの頭上をはるかに超える大暴投。
史郎には打ち返せない。会話のキャッチボールどころか投げられたことばに返すことさえ困難だ。
(え、やばい。俺、漫画と小説の読みすぎ? 会話に脈絡がないと返事できないとか、三次元スキルが低すぎるのか? いや、あるいは王子が俺をからかって……)
目が合わないようにそうっと王子の顔を伺えば、まぶしいほどにさわやかな笑顔が史郎を迎える。
そこにこいつをけなしてやろうという暗い感情はないように見えた。史郎の願望でそう見えるだけかもしれない、けれど。
「俺、面白いやつ好きなのよ。上江はひとと関わるの苦手そうな割に、ひとのことよく見てて良い奴そうだから、気になってたんだけど。話してみたらやっぱ良い奴で、しかも面白いなあって。それに、楓花ちゃんに詰め寄られて困ってるみたいだったし」
「……はあ」
ふわっとした笑いとともにさわやかに言われて、構えていた史郎はあっけにとられた。
(良い奴? 俺が? 王子は俺のどこを見てそう思ったんだ? っていうかやっぱり、助けてくれたのか……)
猿渡に捕まる前に連れ出してくれたことにお礼を言おうとしたところで、王子が「あ!」と立ち上がる。
「やば、時間ギリギリ。上江、走れる? スマホしまって。急ぐよ」
「え、うん」
史郎は急かされるまま立ち上がり、先に駆け出した王子を追いかけた。
王子が肩にかけた白いシャツが風に翻って青空に映え、なんとも絵になる図だ。
(さすが王子、絵に描きたくなる男)
「っていうか、あれだけ、食って、よく! はし、走れる、な!」
涼しい顔でプールから校舎までの距離を駆け抜ける王子に、史郎は息も絶え絶えだ。王子は史郎に合わせて速度を落としているのだろう、息も乱さず微笑みすら浮かべる横顔は余裕たっぷりである。
(さりげなく速度を合わせるあたり、俺なんかより王子のほうがよっぽど良い奴だろ)
息切れで声に出せないまま思う史郎に、王子が笑う。
「これでもバスケ部ですから。補欠だけどね!」
昼休み終了間際、ひとの少なくなった校舎の階段をふたりそろって駆け上る。史郎がせっせと一段ずつ登って息を乱すのに対して、王子は長い脚で二段飛ばし。その脚の長さはいっそ二次元だろ、とツッコミたいが、余裕がない。
「うん、どう、不足……!」
教室のある階まで階段を登ったところで史郎が力尽きた。
「あはは! それ言うより息継ぎしたほうがいいんじゃない?」
楽しげな王子に「正論すぎる」と返す余裕もなく、史郎はふらふらと歩く。
「ね、史郎って呼んでいい?」
ふと、前を行く王子が何気ない調子で問いかける。息も乱さず、照れもしないとは三次元を謳歌してる人間半端ねぇ、と史郎はくたびれた頭で思った。
(対人の距離の詰め方、ほんと半端ねぇ……)
「べつに、いーよ……」
「そ?」
嬉しげに笑う王子には、わざとらしさがまったくない。
(こんな相手を警戒していたなんて、俺はたぶんビビりすぎなんだ。ゲームに例えるなら俺のHPはすでに赤ゲージなんだろうな)
中学時代に食らった大ダメージが未だに尾を引いて、怯える史郎は今ではもう誰が敵かもわからない。だから不用意に警戒して、余計に三次元が居づらくなっていた。それがわかっていて、けれど警戒の解き方もわからずにいる史郎の隣に、王子はするりと入り込む。
「やー、ラッキーだわ。今日はプールで泳げたし、史郎とも話せたし、楓花ちゃんの勇気に感謝だね」
王子がさわやかに言ったことばは、史郎が鬱々と考えこむ間すらかき消した。
「勇気……?」
不思議な文脈に首を傾げたところで、教室の後ろのドアからひょこりとアホ毛が飛び出した。その持ち主は史郎ももう覚えた。アホの子こと猿渡楓花だ。
「あ!」
史郎を見つけた猿渡の瞳がきらりと輝いた。史郎はそっと視線を逸らしながら、さりげなく王子の影に隠れる。
「先生まだ来てない?」
「え、うん。来てない、けど」
猿渡は話しかけて来た王子に目を向けつつ、視線がちらちらと史郎をとらえる。それを感じ取って史郎は廊下の床を意味もなく眺める。
「まじで。やったね! 間に合ったよ、史郎!」
「おー……それはなにより」
平板な声で返す史郎だが、遅刻しなくてよかったと胸をなでおろしていた。クラス中の視線を集める事態になどなったら、史郎の豆腐メンタルは悲鳴をあげるだろう。
今も、万一遅刻して教室に入るくらいなら直射日光をしばらく浴びてから素早く保健室に行って体温を計れば、微熱くらいの判定は出るだろう、と考えていた史郎である。
冬場であればあたたかい飲み物を買っておでこに当てるなど、穏便に学校をあとにする方法はいくつかあると中学時代に習得済みなのだ。
「楓花ちゃん、目が真ん丸」
くくっ、と笑う王子の声で顔をあげた史郎は、猿渡がまだ戸口のところに立っていることに気が付いた。
彼らが邪魔で廊下に出られないというわけではないだろう。あるいは、クラスメイトがそろっていないことに気が付いて外をのぞいていたなら、史郎も王子も戻ってきたのだから用事は済んだはず。
(なのにまだそこに立っている理由とは。あと、目ってほんとにあんな真ん丸になるんだな)
「名前呼び……」
呆然としたように猿渡がつぶやくと、王子が「あは」と笑った。
「そ。史郎と仲良しになったんだよ、俺。いいでしょ~」
何がいいのかわからないが、王子の笑いににじんだうれしそうな響きに史郎はちょっぴり照れる。恥ずかしくはあるが、嫌な気持ちはしない。
「う、うらやましい!」
(アホの子がなにか吠えた)
何がうらやましいのか。猿渡の思考回路は史郎には理解不能だが、王子には何かがわかったらしい。史郎の肩に腕を回したまま、もう一方の手で腹を抱えて笑っている。揺れるから離してから笑ってほしい、と迷惑そうにする史郎に構わず王子は笑う。
「あっはっは! 楓花ちゃんすなおー!」
「そうだよ、楓花はすなおでかわいいの」
(出た。ギャル委員長だ)
いつの間にやって来たのか、猿渡をかばうように前に出たギャル委員長ことユーリが下から王子をにらみ上げるように見て、それから猿渡に視線を移す。
「……女子の落とし方でも教わってたの?」
ハスキーボイスでなじるように問われて史郎の肩が跳ねた。
(俺と王子の組み合わせが客観的に見れば意外なのは同意する。だが、三次元の女子を落とす必要を感じたことはないぞ。ギャルゲーの女の子なら喜んで落とすが)
こういうときは変に否定するより沈黙するほうが話がこじれない。だから黙ってやり過ごそうと史郎は思っていたのだが。
「あは。ちがうちがう。ふたりで遊んでただけだよ~」
「え、え。どこで? 探したけどいなかったよね、お昼休み!」
王子は史郎の代わりに返事するし、猿渡はユーリの背中からひょこりと顔を出して話に入ってくる。現実の高校生の会話における秩序のなさと会話速度に、SNSにおける文字のやり取りに慣れた史郎はついていけない。
「えへ、なーいしょ」
「ええ~! あたしも一緒に遊びたいのに!」
猿渡のことばで、史郎の頭にはさっき見たプールでの王子の脱ぎっぷりが思い出された。パンツまで脱ぎ捨てたあの潔さを。
「……いや、やめたほうが」
「やめときなさいよ、楓花」
史郎の声とユーリの声がかぶった。それが不愉快なのか、ユーリが史郎をじろりとにらむ。
(偶然なんだから、そんな不機嫌な顔でにらまないでほしい)
「あ、先生来たね。ほらほら、みんな席につこう! 授業がはじまるよ~」
ユーリの冷ややかな視線になどお構いなく、王子が史郎の肩を押して教室に入った。勢いに押された猿渡とユーリもそれぞれの席に戻り、史郎は昼休みをやり過ごすことに成功したのである。