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 史郎は基本的に学校が好きではない。

 小学校低学年のころの記憶は薄いが、高学年にもなると落書きばかりしている史郎に周囲はあれこれ言って来た。「似てない」「下手くそ」「女の絵を描くなんてキモイ」。好意的な意見もあった気はするが、史郎の記憶に焼き付いているのはどれも彼の絵を貶めるものばかり。なかには絵を描く史郎自身をけなすことばもあった。

 中学校では知識がついて悪口のレパートリーも豊富になり、そのぶん史郎の心につく傷も大きくなる。それでも気づけばノートに落書きをする癖は無くならなかった。描写する媒体がノートとシャーペンからスマホのイラスト作成アプリに変わっても、史郎が絵を描くことに変わりはなかった。

 それでも史郎が高校に通うのは、ひとえに史郎のことを心配してくれる家族への感謝があるからだ。

 本当は通いたくなどない学校に通うために地元を離れた。本当は絵を描くことがクラスメイトにバレたから教室に入りたくなかったけれど、重い足取りながらも教室に向かった。

(高校ではうまいこと息をひそめてやり過ごそうと思っていたのに)

 学校についてつらつらと考えていた史郎は、現実逃避を諦めてこっそりとため息を吐く。本当は盛大に「はあー……」とやりたいところであるが、彼の気持ちを重くさせる原因に囲まれてそうできるほど史郎の神経は図太くなかった。

「どしたの上江、朝からため息なんてついて。やなことでもあった? 相談乗ろっか!」

 一方で、猿渡の神経は図太いらしい。

 憂鬱をこっそり吐き出す史郎の机に両手をついて、朝から元気いっぱいに目を輝かせている。史郎は首を全力で窓のほうに向けて朝っぱらからやってきた猿渡に「迷惑です」という態度を隠しもしていないのに、猿渡の攻めは止まない。

「いえ、間に合ってますから」

 会話を途切れさせようと意識してそっけない態度を取る史郎を相手に、猿渡がオーバーリアクションで声を弾ませる。

「ええー! っていうかなんで『です』『ます』つけるの? クラスメイトなのに~。もっと気楽にしてよー、ほら、手始めにあたしに気軽なあいさつ! 『アモーレ、フーカ』はい、リピートアフターミー?」

「それは朝のあいさつじゃないですから。たしか、愛してる……?」

 漫画か何かで得たうろ覚えの知識で答える史郎に、猿渡が両頬に手をやって身もだえる。

「上江からの『愛してる』入りましたー! 朝から熱烈! ミートゥーだよ、ミートゥー! あたしもです!」

(アモーレってイタリア語じゃなかったか。何で返事は英語なんだ)

 きゃあきゃあとひとりで騒ぐ猿渡に、史郎はぼんやりと空を眺める。

 陰キャに構って何が楽しいのだろう、さすがは何でも楽しめるギャルだと偏見に満ちた感想を抱く史郎と、現代を生き抜く現役JKのなかでも元気いっぱいな部類の猿渡の温度差は激しい。放っておけばひとりでいつまででも騒ぎかねない猿渡に、史郎はため息交じりに返事する。

「いえ、間に合ってますから」

「ガーン! 上江、すでにミートゥしてくれるひとが!?」

 ゲームのNPCのごとく同じ返事をくり返す史郎に猿渡がアホ毛を揺らしてショックだと叫ぶ。ひとりでにぎやかな猿渡に、史郎はいっそ感心してしまう。

(それにしても、好奇や嘲りに満ちた視線が向けられてこないあたり、クラスメイト全員に俺が絵を描くことを暴露はされなかったみたいだな)

 もしもそうなっていたら史郎の高校生活は本日をもって終了のお知らせになっていたのだけれど。ときおりクラスメイトから向けられる視線は重に猿渡を見ており、それもなんとなくほほえましげな視線である。かつて史郎を苛んだひとを見下すような嫌な雰囲気はどこにもない。

 身構えていた気持ちが抜けた史郎を眠気が襲う。

「……おやすみなさい」

 会話を続けないコツは、最低限のことばで済ませること。そうすれば相手は話を膨らませられず引き下がるしかないし、実際、史郎は眠たかった。

 史郎は昨夜、悩んでもどうしようもないことで悩み、三次元女子高生の柔らかさと温もりを思い出しては布団のうえを転がり、ろくに寝られなかったのだ。

「そっか。おやすみ、上江」

 はしゃいだ声がすこし勢いを弱めて、机に突っ伏した史郎の後頭部に落ちる。

(落ち着けば、意外に耳に心地いい声、だな……)

 寝る気はなかった。寝ているポーズを取って離れてくれるなら儲けもの、くらいの気持ちで「寝る」とくちにした史郎だったけれど。

 あまりにも素直に聞き入れられて戸惑う気持ちは、やわらかい「おやすみ」の声にふやけて溶ける。人気女性声優ほどかわいいが詰まった声ではないのに、どこか甘く感じるのはそれが女子高生という生き物なのか。

(三次元、未知数だ……)

 などとぼんやりしていられたのは、朝だけであった。


 ~~~


「ねえねえ上江! 起きた? 師匠になってよ!」

 一限が終わるなり、これである。

 場所は教室のなか。授業が終わったとはいえクラスの全員が着席したまま先生すらまだ退室していない状況で、ひとりだけ席を離れて史郎の元に向かった猿渡は、それはもう視線を集めている。ほほえまし気に見つめる視線や生暖かく見守る視線だ。

 とはいえ、史郎にそれを気にする余裕はない。

(顔が近い!)

 飛びつく勢いでやってきた猿渡は着席したままの史郎の顔をのぞきこんでいる。パーソナルスペースが守られていない。窓と掃除用具入れに囲まれ逃げ道を猿渡にふさがれた史郎は、盾にするには心もとない教科書に隠れて窓の外に視線を固定した。

「……なんのことでしょう」

 見なくてもわかる。前のほうの座席から突き刺さるユーリの視線を黙殺しつつ、史郎は平静を装う。

(こういうのは相手のペースに呑まれたら負けだ。ここは心を落ち着けて、冷静な対応を)

「何って、きのう上江が描いてもがっ」

 冷静さをかなぐり捨てて、史郎は猿渡の顔に教科書を押し付けた。

 吊り上がっているであろうユーリの眉毛など知ったことか、と史郎は猿渡の耳に顔を寄せた。

「ちょっといいですか」

 押し付けた教科書のしたでもごもご言っていた猿渡の声が止む。じわじわと赤みを増す猿渡の耳にも「耳元でささやきボイスぅ……!」とうめく声にも気づかず、史郎はユーリからの冷ややかな視線に肝を冷やしていた。

(俺はとうとう気配察知の能力を手に入れたのかもしれない。三次元にもレベルという概念があれば良かったのに。というか、ギャル委員長のあの眼光の鋭さは只者じゃないぞ)

 しかしいくらにらまれようと目を合わせなければ怖くない、とばかりに史郎はさっさと席を立つ。

(クラス中の視線が突き刺さる……針の筵だな)

 好奇の目を向けられる経験は不本意ながら豊富な史郎だが、豊富だからこそクラス中の視線は苦痛だった。この苦痛から逃れる方法はただひとつ。立ち去るのみだ。

 誰とも視線を合わせないまま歩き出した史郎が向かうのは、教室の後ろ扉。

「あ、上江、待って!」

 追いかけて出て来た猿渡には返事をせず廊下を進んだ史郎は、階段のあたりで立ち止まる。

 本当はひと気のない場所まで行きたかったが、授業間の休み時間は短い。屋上手前まで行く時間はないからと、階段そばで妥協した史郎が窓を向きながら告げる。

「昨日から言ってますが、なんのことですか」

「え。だから、上江にね。絵を描くの教えてもらおうと思って」

「絵。絵というと、昨日俺のスマホに表示されていた、あの?」

 はずんだ声をぶった斬るため、史郎は意識して声のトーンを低くする。

(嘘だ。単に緊張して声が震えそうなのをこらえるため低くなってるだけ。でもこれ、客観的に見たらサスペンスの犯人の独白シーンみたいなのでは?)

 カメラに背を向けて低い声でポツポツと喋る。しかも妙なところでことばを切る思わせぶり。

(さしずめアホの子は探偵か刑事だろうか。刑事は無理だな。アホな刑事なんて嫌すぎる。アホ毛探偵。ううん、謎が解けなさそうだ。犯人を間違えてそこからラッキー展開で事件が解決するとか……誰得だ)

 そこまで考えて、史郎は思考を止める。

(……いかん、心が空想の世界に逃げようとしている。アホの子をやり過ごすのに、今が最大のポイントなんだ。絵師のはしくれの根性を見せねば!)

 今こそ、夜通し……というわけでもないし半分は煩悩との闘いであったけれど、考えに考えたセリフをくちにする。

「昨日のあれはSNSでたまたま見かけた絵ですが。ですので、俺から教えられるようなことなどなにも」

 ありません、まで言わせてもらえなかった。

 ことばの途中で、史郎を追いかけて来た猿渡が彼の腕に飛びついたのだ。とっさに顔をそむけそこなった史郎と猿渡の視線が絡む。

慌てて顔を逸らすまでの一瞬で史郎の目に焼きついたのは、きらめく瞳。

(なんで、どうしてそんなに真っ直ぐな目でひとを見つめられるんだ)

 呆然としたのが、隙になった。

 史郎の腕に絡まる細い腕にぐっと力がこもって、引っ張られる。たたらを踏んでよろめいた拍子に史郎と猿渡の顔が近づいて逃げられない。

「そんなことないよ。だってあれ、描きかけてるときの画面だもん!」

 きらめく瞳で断言された。

 つまり、史郎のしらばっくれよう計画が打ち砕かれたのだ。考え抜いた末の断り文句を容易に撃破された衝撃に史郎はうなる。

(く、このギャル、イラストアプリ使用者か! ならば……)

「……俺も独学で覚えたことばかりだから、教えられないんです。おすすめの描き方動画なら教えますから」

 視線を逸らした史郎の答えは嘘ではない。それらしく見せるコツや描き方のアドバイスくらいなど『描き方 動画』で検索すればいくらでも出てくる。三次元の人間に耐性のない史郎が教えるよりよっぽどわかりやすく親切な動画ばかりだ。

(さあ、会話を切り上げて教室に戻ろう)

 これで満足だろうと足を踏み出した史郎だったが、腕が引っかかって立ち止まった。見下ろせば、彼の腕に絡まる女子の腕。

(なぜまだしがみついている? これだけ明確に断られればふつうは心が折れるだろう。それとも何か、三次元を謳歌する者には物理攻撃でないと効果がないのか)

 史郎の見当違いな思考を否定するように、猿渡が首を横に振った。

「ちがうの。そうじゃなくてあたしは、上江に教えてほしいの!」

 必死だ。

(なぜこうも食い下がる?)

 大きな目をうるませて懇願する猿渡に史郎は戸惑った。

(解説動画ではだめ。あえて俺に頼む理由はなんだ? 動画だけでは心もとないから直接会って指導を受けたいタイプか? しかし、そんな理由で俺のような三次元のレベルが低い人間に頼むだろうか。それ以外の理由、俺でなければダメな理由……)

 考えて考えて、考えて。

 何度も却下したし自意識過剰なんじゃないかとも思ったけれど、でもこれしかないだろう、という結論を史郎はくちにした。

「……それは、SNSかなんかで俺のふぁ、ファン、だっていう、こと……?」

 言いながら史郎の顔が熱くなる。

(うつむいていてよかった。見目麗しくもない俺が赤面してきょどっているところなど、見られたら通報ものだ)

 勇気を振り絞った史郎に対して、猿渡はきょとんと眼を丸くする。

「え、上江の絵ってネットとかで見られるの?」

「はい、逮捕ー!」

「え!? なになに、どしたの?」

 猿渡の声などにもはや構ってはいられない。

 羞恥の限界に達した史郎は強制的に腕を回収し、両手で顔を覆ってうずくまる。

(いやいやいやいや、馬鹿だろ俺、なにが「俺のファンなの?」だよ! 完全なる自意識過剰、有罪です、ギルティ、処刑! 恥っず、恥っず! 穴を掘ろう、穴を掘って埋まろう。俺が恥ずかしい生き物だから、今日は穴掘り記念日!)

 穴を掘る妄想で頭をいっぱいにしながらも、史郎はうずくまったままもだえる。

(恥ずかしすぎる。恥ずかし過ぎてログアウトしたいけど、残念ながらここは三次元。二次元ならいくらでもログアウトして布団にこもってのたうち回れるのに。あーーーーーーー! 二次元に帰りたいっ)

「あの、上江……?」

「楓花!」

 うずくまる史郎と戸惑う猿渡のもとにハスキーな声が届いた。軽い足音を立ててやってきたのはギャル委員長ことユーリだ。

「そいつ、なにしてるの?」

「わかんない。なんか、急にしゃがみこんじゃって……大丈夫? 上江」

 頭上でやりとりする声を聞きながら、史郎は心のなかの大声を鎮める。

(大丈夫じゃないので放っておいてください)

 実際に声に出すにはダメージが大きすぎて心で返事をした史郎に、ユーリが呆れてため息をつく。

「なんでもいいけど、楓花。次の授業がはじまるから教室戻るよ」

「え、わ。ほんとだ! 急がなきゃ!」

 ぱた、と猿渡が駆けだした途端。

「走らない!」

 刺すような声が飛んだ。

 廊下は走らないと注意するような生易しい響きではなく、思わず史郎の赤面も冷めて息を飲むような、鋭い静止。

 一気に凍り付いた空気に息を詰めて、史郎はそろりそろりと自分の顔面から指をはがす。

 駆け出したポーズで止まる猿渡は立ち止まり、その背中を見つめるユーリは険しい顔。かけることばが浮かばない史郎にできるのは、黙ってふたりを見守ることばかり。

「……これくらい、大丈夫だよぉ」

 振り向いた猿渡はへにゃりと情けない顔で笑っているのに、見つめ返すユーリの視線はやわらがない。そこに宿る感情は、何なのか。

 ひりりと痛むような何かを感じて、史郎はつい視線を逸らす。

(……青春は、俺がくちを挟むにはリアルすぎる) 

「おーい、お前ら何してんの。席ついて、授業はじめるぞー」

 助け船は思わぬところからもたらされた。

 いつの間に来ていたのか、担任教師が教室の前扉から顔を出してだるそうに言う。今日ばかりはその声が天の救いのように聞こえる史郎だった。学園ものの担任のキャラボイスはもうちょっときれい系か渋めの声がいいのだけど、などと史郎の脳裏をよぎるが、おっさんにそこまで期待するのは酷というものだろう。

 どうでもいいことを考えて思考をにごし、史郎はさっき見た猿渡の表情を振り払った。

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