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ボロアパートの階段をのぼる史郎の足取りは軽かった。
(帰ったらギャル委員長にキャラシート送らなきゃな。キャラクターの設定を埋めてもらって、本人が描きかけた絵とか集めた資料があるならそれも見せてもらって)
はじめての対面での依頼、それもクラスメイトからのものについて考える史郎の気持ちは浮き立っている。静かに歩いてもカンカン鳴るさびた階段の音さえ楽しげに聞こえるほどだ。
(悪いのは俺の運だって。俺は悪くないんだから好きなことしていいんだって……へへ)
絵を描くことが好きでいて良いと言ってもらえたことはこれまでに積もり積もった自己嫌悪を打ち消しはしないけれど、史郎の気持ちをずいぶん穏やかなものにしてくれていた。
すんなり回らない鍵穴さえも今日は鼻歌まじりに戦える、そんな史郎のポケットでスマホが鳴る。
「ヒヨだ」
画面に表示された名前を確認しながらようやく扉を開け、部屋に入りながらスマホを耳に当てた。
「どうし」
『お兄ちゃんおめでとうっっっ!!!』
「たんだ……?」
開口一番、うるさいくらいの大声が響いて史郎の左耳から右耳に抜ける。頭を貫く大音量に衝撃を受けた史郎が回復するのを待たず、ヒヨの声は続く。
『すごいよ、すごいよ! やっぱりお兄ちゃんはすごいんだよ! あたしの自慢のお兄ちゃんだ!』
「いや、ちょっと落ち着けヒヨ。何の話をしてるんだ」
ダメージを負った四郎は背中を玄関扉に預けると、スマホを耳から遠ざけて妹をなだめようと試みる。きゃあきゃあと騒ぐ声からは何の情報も得られず、たぶん悪いことではなさそうだとしかわからない。
『何のって、イラコン! 春に応募したイラストコンテスト! お兄ちゃん、優秀賞だよ! 優秀賞!!!!』
「は……」
息が止まる。
たしかに聞こえたはずのヒヨの声が史郎のなかでうまく形にならない。それはスマホのスピーカーから飛び出た声が大きすぎるせいではないだろう。
(イラストコンテスト……ゆうしゅう? ゆうしゅうって、あの優秀? 優秀、賞……)
扉に預けた背中がずるりとすべる。
手のなかでスマホがヒヨの声を届けるのにも応えられず、狭い玄関に尻もちをついたまま四郎は宙を見つめていた。
『お兄ちゃんのうえは最優秀賞だけど、二番だよ! 二番! お兄ちゃんの絵が二番目に良かったってことだよー!』
史郎が応募したイラストコンテストでは一位が最優秀賞、二位が優秀賞と称される。三位以降はすべて佳作だ。
ヒヨに何度も促されてコンテストに参加した史郎としては、佳作にでも引っかかればうれしいなあという気持ちだったのだが。
『ねえ、聞いてる? 優秀賞の賞品! 液タブだよ、液タブ! お兄ちゃん憧れの液晶タブレット!』
「液タブ……」
優秀賞に選ばれるなどと夢にも思っていなかった史郎は賞品チェックなどしていなかった。
聴き慣れた妹の声で連呼される単語が頭のなかでうまく像を結べず「液タブってなんだっけ」とぼんやりしてしまう。
何も言えないでいる史郎に構わず、ヒヨの声は続く。
『お兄ちゃんが自分の力で勝ち取ったんだよ。お兄ちゃんの絵はすごいんだって、認められたんだよ。やったね、やっぱりお兄ちゃんはすごいんだって、あたしずっと信じてたんだから……!』
喜びのにじむ声が、史郎の胸に巣食う過去の記憶を揺り起こす。絵を描く史郎をなじり、史郎の絵に価値などないと笑う声はどこか遠い。
何度も何度も苦しめられて、それなのにちっとも薄れなかった過去が今日、ユーリや猿渡や王子のことばでようやく軽くなったと思った矢先。入賞という第三者からの評価が史郎を否定することばから心を守る力になってくれた。
「あは……はは……」
力なく笑う史郎の目からこぼれたのはうれし涙だった。史郎は笑いながら鼻をすする。
『お兄ちゃん、泣いてるの? ふふ、良かったねえ』
そう言うヒヨの声もまた、湿っていた。長年、兄の不遇を見つめて応援してきた彼女の胸にも迫るものがあった。
けれど祝いの場に占めっぽさは似合わない、と涙をぬぐったヒヨは明るい声をあげる。
『お兄ちゃん、これからは液タブでばんばん稼げるね!』
「はは。そしたら、家族旅行でも行きたいなあ」
妹なりの声援に笑った史郎はおだやかな顔でつぶやいた。『またそんなこと言ってる! まずは自分のために何か使いなよ!』とヒヨは言うけれど、史郎にとっては家族への恩返しは最優先事項だ。
どのクラスでもうまくいかない息子は、両親にずいぶん心配をかけたことだろう。それなのに、知り合いのいない土地で一人暮らしをしたいと申し出たときにも「史郎がそうしたいなら行っておいで」と送り出してくれた。もちろん、妹のヒヨも「お兄ちゃんが不摂生しないようにあたしが抜き打ちで電話するからね!」と応援してくれた。
おかげで今日の自分があると
(俺、ほんとに絵を描いてていいんだ……)
史郎の胸にじわじわと実感がわいてくる。
明るい未来がこの先にある。史郎はそんな気持ちに浸っていた。




