追跡
『・・・じゃあ、スマホを通話状態を維持したままポケットにしまえ。いつでも応答できるようにしておく。』
「ああ。」
返事をしてスマホをポケットへしまった。
会話を必要最小限にすることで隠密性を上げるためだ。
今の俺に奴を倒せる手段があるとすればネオの店でもらった食器だが、二度は通じないだろう。戦うにはあまりにもリスキーすぎる。
ネオの実力がどの程度なのかは知らない。
だが彼が奴を仕留める方がよっぽど現実味がある。
それとこの結界の特性についてだ。
ネオによるとこのタイプの結界内には原則として術者と獲物しかいない。
この状況下で俺が取れる行動は・・・
「(ここから30分・・・)」
俺も行動を開始する。ネオの言葉を思い出せ。まずやることは・・・
『ヴァンパイアとの鬼ごっこの基本は逃げることじゃない。見つからない事だ。』
俺が奴を刺した場所へ向かう。足音は消し周囲に聞き耳を立てる。
来た道とは違う道で現場へ移動し始めた。
恐ろしい程に静まり返った風景に少し身体が震えた。
深夜でさえここまでの静寂ではないだろう。
ともあれ、互いに場所が分からない状態で取るべき行動は「先に相手を見つける」ことだ。
ヴァンパイアは人間より優れた身体能力を持つ故に「鬼ごっこ」になればほぼ勝ち目はない。
よってまずは「かくれんぼ」から始まる。こちらが一方的に相手を視認できているならば有利に立ち回ることができる。
とはいえ一つのミスが死に直結する。その事実は変わらない。
心臓の鼓動は今なお激しく騒ぎ立てており、汗が頬を伝った。
常に周囲の風景、物音に耳を傾けながら元来た道とは違うルートで現場に戻る。
「ここだ・・・」
丁度俺が首を絞められていた場所、そして奴が倒れた場所には血だまりがあった。
奴の耳から引き抜かれたナイフもそこに転がっているが、奴の姿はない。
物陰から周囲の確認をする。ここを離れてから15分程度。まだ近くに居るかもしれない。
耳を澄ます。辺りは静寂に包まれており何も気配は感じられなかった。
次に痕跡を探す。あれだけ派手に倒れたのだ。足跡やら血痕の一つや二つ残っているだろう。
足元を見ると赤黒い血痕を見つけた。
点々と続く赤い印は俺が初めに逃げていった方向へ続いている。
丁度入れ違いになったのだろうか。血痕を追跡して奴の場所を把握すれば見つかりにくくなる。
その時。身体中に悪寒が走った。
第六感というのだろうか。視線を感じる。音は聞こえない。だが確実に周囲に奴がいる。
ネオの言葉が脳裏に蘇る。
『常に最悪の状況を想定しろ。自分が追われている側であることを忘れるな。』
汗が頬を伝う。周囲をゆっくり見まわす。
「・・・あ・・・ッッ!!」
息をのんだ。
いる。
約100メートル先。一瞬目が合う。遠くではあるが物陰に身を潜め俺を見ている。
奴も同じ考えだったのだろう。周囲の俺の痕跡を見つけ追いかけてきたのだ。
まずい。俺は気づかぬ間に数分前から尾行されていたのだろう。
緊張が高まり呼吸が荒くなる。心臓が跳ねる音が大きくなる。
振り切って逃げることはできるか。いや、ヴァンパイアの身体能力は人間の比じゃない。逃げ切るのは不可能だ。
反撃するか。それも無理だ。そもそも一撃目は不意打ちだったから成功した。正面切っての攻防で俺の利は無い。
一瞬のうちに俺の脳内は思考で埋め尽くされていた。
あらゆる可能性を思案し、直ちに否定される。
どうすればいい。どうすれば。
『追い詰められた時はまず冷静になれ。必ず活路がある。』
ネオの言葉だ。
そうだ。落ち着け。深呼吸をする。
奴は俺を視認している。しかし近寄ってこないのは何故だ。
奴の運動能力なら一方的に俺を追い回して仕留めることができる。しかしそうしない。
何か理由があるはずだ。何か・・・
ふと地面に落ちたナイフに目線が行った。
脳裏にはアレを突き刺した時のことが再生された。
『クッソォ!クラクラするぜ!あのナイフのせいかァ?この傷も治らねえしよぉ!?』
『ふらつくとはいえ、今俺の両手は自由に動く。お前がそのちんけなフォークを俺にぶっ刺す前に、俺はお前の腹に風穴を開けられる。』
多分だ。これは憶測だ。
俺を殺したくてもそうできない理由。
奴に突き刺したナイフは俺が予想している以上にヴァンパイアに対して有効だったのだ。
耳を貫通し脳にまで達したナイフは致命傷でこそないが、奴の運動機能を麻痺させている。
その証拠にこの程度の距離でさえ奴は攻勢に出ず慎重にこちらを観察している。
・・・と、仮定する。分の悪い賭けではあるがツキがあることを祈ろう。
もしそうならば逃げることに関しては俺に利があるはずだ。
「・・・・ッッ!!」
全速力で走る。
距離を取って時間を稼ぐ。今の俺がやるべきことは奴を仕留めることではなく、生き残ることだ。
ネオの到着までまだ時間がかかる。それまで逃げ続けるんだ。
疾走しながら後方を確認する。
奇妙な光景だった。
奴は歩くでもなく、ゆっくりと左手を壁につき身体を支え、右手の指を真っすぐ俺の方に向けていた。
突き出された右手には何も握られておらず、ただ俺が居る方角へ手を伸ばしていた。
顔は狙い澄ましたように真剣だ。
待て。
・・・狙い澄ます?
奴は俺に"近づけない"のではなく、"近づく必要がない"のだとしたら?
もしこの距離で俺を仕留める手段があるのだとしたら?
俺に向けられた五本の指になんの意味もないとは考えにくい。
いやな予感がして俺は咄嗟に右手側に跳躍した。
その瞬間、何かが爆ぜるような音がした。
同時に俺の真横を何かが高速で通り過ぎるのを肌と耳で感じることができた。
受け身を取り前を向くと先の塀にいくつかの窪みが出来ている。さっきまでは無かった。
奴は俺に何かを飛ばしたのだ。コンクリートの塀を凹ませるほどの威力となると弾丸か?なら身体に直撃すればひとたまりもない。
後ろを振り返り奴がいた方向を見る。だが姿はもうない。
周囲を見回し奴を探す。恐らく近くの路地へ逃げたんだろう。
追いかけるか?いや流石に気づかれる。奴に気づかれぬように尾行するのが理想だ。
ひとまずは俺に向けて何を飛ばしたのかを確認しよう。
ポケットからスマホを取り出し話しかける。
「もしもし・・・?」
『何があった?』
電話越しに風を切る音が聞こえる。彼も移動中なのだろう。
「奴を見つけた。けど逃げられた。」
『逃げられた?逃げているのは承の方だろう?』
「なんかこう、フラフラしてた。歩くのも覚束ない様子で、多分ナイフが効いてるんだと思う。」
『なるほど。鼓膜を破かれた訳だしな。三半規管がイカれているのかもしれない。』
凹んだ塀を確認しながら話を続ける。
「でも、俺に向けて何かを飛ばしてきた。これは・・・なんだ?爪か?」
塀に深々と刺さっていたのは透明な棘だった。爪のようにも見えるがそう呼ぶにはあまりに鋭い。
『ああ。ヴァンパイアが爪を弾丸のよう射出して攻撃することは珍しくないが、射程は大したものじゃない。大抵は空気抵抗でブレたりするからな。10メートル程度でさえそうそう当たらない。』
それを聞いて少し安心する。
「でもコンクリの塀が凹むレベルなんて。掠っただけでもタダじゃ済まなそうだね。」
『・・・何?今なんて言った?』
声の雰囲気が変わったのを電話越しでも感じ取れた。
「え?掠っただけでもタダじゃ・・・」
『その前だ。』
「コンクリの塀が凹むレベル・・・って」
少し間を置いてからネオは俺に聞いた。
『奴がお前に攻撃したのは何メートルくらい離れた場所だ?』
「えっと・・・200メートルくらい」
『爪はいくつ飛ばしてきた?』
「五つ」
『五つ全部が承に向けて飛んできたんだな?』
「ああ、五つ全部が俺に向けて真っすぐ・・・あっ・・・!」
俺は走り出した。
ネオの反応と質問で俺はあのヴァンパイアが普通でないことを勘付いた。
『承。今すぐそこを離れろ。今すぐだ』
「もう走ってる!この距離を爪で攻撃できるのは普通じゃない。そうなんだろう!?」
俺は走りながら質問する。
『その通りだ。奴は逃げたんじゃない。お前を一方的に狙撃できる位置に移動しているだけだ。』
「狙撃?スナイパーってこと?」
『O.E.R.Vのデータが本当なら、そいつの有効射程は500メートル。下手なアサルトライフルより長く、正確だ。なるべく遮蔽物の多い所へ逃げ込め。いいな?』
「ああ!わかっ・・・」
返事を終える直前。また後ろからあの爆発音が鳴った。
それと同時に、手に持っていたスマホが後ろから突き上げられるように飛びあがりへし折れた。
なんて奴だ。少し左にずれていたなら頭部に直撃していた。
「クッ・・・!!」
これでネオとの連絡手段がなくなった。音がしたほうを見るがやはり姿は無い。
姿を隠し続け、一方的な狙撃を行う相手。近づけば力で押し負けるのは俺の方。
あらゆる面で不利なのは俺だ。
俺に出来るのは逃げる事だけだ。この不利な鬼ごっこを続ける先に活路はあるのか。
いや、考えても仕方ない。俺はただひたすらに走る。それに縋る事しか俺には許されないのだから。