逃走
走る。ただひたすらに走り続ける。
奴の射程は約500メートルだとネオは言っていた。ならばまずはその射程外に出る。
家の近くなのが幸いだ。近くの道は大体頭に入っている。
無音の町で俺の息だけが木霊していた。
今この瞬間にも俺に狙いを定めているかもしれない。そう思うと俺の脚は前へ前へと進んだ。後ろに退けばそこは死であるとさえ感じた。
道を曲がり、曲がり、曲がり。俺は目的地へ近づく。
建物の合間を縫って見える大きな看板。俺が小さいころからある百貨店"サリオン"だ。
6階建てで売り場面積が広く遮蔽物も多いこの場所なら時間を稼ぐことができる。
普段サリオンの周囲には利用客が大勢いるが今は一人たりともその姿が見えない。
夕方で一番の客入り時にも関わらず閑散としたサリオンは酷く不気味に思えた。
出入り口に到着すると自動ドアは開かず、仕方なく隙間に手を入れドアを開ける。
一階の食品館を抜け、止まっているエスカレーターを駆け上がり二階の洋服売り場へ向かった。
サービスカウンターを飛び越え内側でまずは息を整える。ここに来た理由はこれだけじゃない。
この売り場は二つのエスカレーターに挟まれている。片方から上がってきたならもう片方から別階に移動できる。しかもこのカウンターの横には非常口にもなっている連絡用階段まである。息を整える事と時間を稼ぐことに関しては非常に好都合な間取りだ。
左右のエスカレーターを確認しつつ息を整える。こんなに走ったのは去年のマラソン大会以来か。いや全力疾走をこんなに続けたのは初めてか。いずれにしても部活を辞めてからの体力の減りを実感した。もうしばらくは身体に酸素を供給し続けねばならない。
その時爆発音がした。心臓が跳ねる。しかしこちらに何かが飛んでくることはなかった。
引き続きゆっくり呼吸を続ける。しかし奴が近くに居るという事実は呼吸は荒くさせた。
大丈夫だ。ここは比較的安全だ。すぐに離脱できるポジションだ。
そう自分に言い聞かせる。
また爆発音がした。今度は音と共に床が振動するのを感じた。
・・・いやこの爆発はいままでのそれとは違う。
空気が揺さぶられる様な衝撃。壁や床から伝わる振動。体にのしかかる様な重低音。
続いて3度目、4度目の爆発。一階から伝わって来る感覚だ。衝撃は近くなったり遠くなったりしている。見えないところで一体何が起こっているのだ。
足音が聞こえる。
一歩一歩。階段を上がってくる足音だ。
そう。階段だ。間抜けなことに俺は階段から奴が侵入してくることを想定していなかった。
俺は今一つのミスで窮地に立っている。呼吸はもう落ち着いている。だがそれに反比例するように心臓は激しく鼓動していた。
角で待って襲撃することを考えた。だが恐らく通用しないだろう。そんな直感が働いた。
やり過ごすしかない。カウンターの内側で体育座りをしたまま息を殺す。
徐々に鮮明になる足音は死へのカウントダウンに感じた。
奴が入ってきた。
音で判る。このカウンターを挟んだ反対側。2メートル程度の距離に奴は居る。
奴が身体を乗り出さなければ俺を視認することはできない角度にいる。
今は耐えろ。奴が通り過ぎるのを待つんだ。
奴の足音は近くから離れていくことを感じさせた。
そのままだ。俺に気づかず通り過ぎろ。
心の中でそう念じながら足音を聞いていた。
足音から察するに俺には気づいていない。
俺の目前を通り過ぎ、遠くなっていくのが聞こえる。
しかし10メートルほどの位置だろうか、奴の足が止まった。
気づかれたのか。いやもしそうなら既に俺は攻撃されている。
何だ、なぜ止まったんだ。
ピィン と音がした。小銭が落ちたような、小さな金属音だ。
続いて遠くで何かが地面に落ちたような音がした。拳程度の石か何かが転がるような音だ。
そして少し間を開けて
爆発の音も続いた。
目の前で雷でも落ちたかのような衝撃と爆音。
フロアの空気と舞い上がった砂埃が俺に向けて突進してくる。
爆発自体は近くではないはずだ。しかし顔を腕で守っているため上手く視界が取れない。
数秒経過し落ち着いた頃にゆっくり周囲を確認する。
爆発の正体は何となく察することができた。もっともアクション映画やゲームでしか見たことないのだが。
もし想像通りならば床を注視しなければならない。
一階の爆発は複数回連続して起こった。ならばここでも当然
「ッッ・・・!!!」
あった。床に転がる手榴弾だ。
距離は5メートルほど。目と鼻の先に転がっている。
それを認識するのが早いか、俺はカウンターから飛び出した。
「そこかァァァァッッ!!!」
奴の怒号と共にパンッ!パンッ!と乾いた爆発音が二回続いた。
その瞬間俺の右腕に激痛が走る。
奴が俺に向け爪を発射した音だと認識する前に叫び声を奥歯で噛み殺し、俺は階段へ走った。
上へ、とにかく上へ行くんだ。
ズキン、ズキンと撃たれた右腕は鼓動の音と同期して痛みを増した。
階段を全力で駆け上がる。
3階、4階、5階と駆け上がり、一度立体駐車場へ出る。
しばらく走って物陰に身を隠す。
座り込みまた激しく呼吸する。
そうしてまた右腕の痛みが激しくなった。
次々と流れ出る血を左手で抑える。その光景は冷静さを欠くに十分だ。
故に、俺の場所まで点々と続く血痕に気づくまで時間を要した。
俺の目の前に手榴弾が転がってきたのだ。
それが血痕を目掛けて投げられたものだと理解すると同時に、すぐに立ち上がり走り出すべきという考えが脳を駆け巡る。
だが俺の本能がそうさせたのか咄嗟の判断でそれを掴み転がってきた方へ投げ返した。
すぐに物陰に隠れる。投げた方向からやって来る爆発音と衝撃をいなしてから走り出す。
今度は撃たれることが無かった。奴も投げ返された手榴弾の爆発を避ける必要があった。だから俺を撃つことはできなかったのだろう。
またしても走る。フロアへ戻り近くの売り場にあったタオルを引っ手繰る。
ある程度距離を離したところで物陰へ入り、撃たれた右腕にタオルをきつく巻き付けた。
ひとまずの応急処置だ。止血はしたがかなり血は流れ出てしまっている。あとどれくらい動けるのか想像もつかない。だが少なくとも今はまだ動ける。なら俺は走ることを止めない。
周囲の気配を確認し駆け出す。またしても上へ、上へ駆け上がる。
屋上に出た。
立体駐車場の最上階でもあるこの階は柱がない分遮蔽物が非常に少ない。だからここはさっさと抜けたいところだ。
俺が上がってきた出入り口とは反対側の出入り口へ移動し今度は下に降りていく作戦だ。
ネオが来るまでの時間を稼ぐには十分だろう。周囲を見回し走り出す。
その時 ドクン と心臓が跳ねたような感覚がした。
"出るな!戻れ!"
誰かが俺を制止しようとしている。
しかし前に踏み出した足は止まらない。
その刹那
パンッ!
乾いた爆発音。爪を発射した音だと認識する間もなく俺の左足は貫かれていた。
「なっ・・・あぁっ・・・ッッ!?」
バランスを崩しうつ伏せに倒れる。
足に力を入れて立ち上がろうとする。だがその瞬間激痛が走った。
立ち上がることはもはや不可能だ。
左前方から足音が近づいてくる。這いずって逃げようとするが右手も同様に動かせない現状で逃げることなど不可能だった。
「フゥ・・・ようやっと捕まえたゼェ。このガキ。アァン?」
俺の頭を足で踏みつけながら言う。
「グレネードを投げ返されたときゃ面食らったが、まだまだ甘ちゃんだなァ。上へ逃げたなら屋上に先回りされているかもしれないって考えなかったのかァ?オォイ?」
何も言い返すことができない。その通りだ。
「時間をかけたのも良くなかったなァ?麻痺してた脚も全快とまではいかねェが人間と同程度には回復してる。もう逃げられねェ。」
だが、ネオはもうすぐ来るはずだ。今の頼みの綱はそれしかない。
少しでも時間を稼がなくてはいけない。
「まだ終わってない。」
「あ?」
「考えないのかよ。俺がしていた電話の相手がここに来るって。」
「ああ考えたさ。だが無理だね。助けは来ねェ。」
「どうしてそう言い切れる?」
「俺の結界は特別でね。そこらの雑魚とは訳が違う。いいぜ、冥土の土産に教えてやる。」
「何を・・・グッ!?」
より強く俺の頭を踏みつけ言う。
「俺の結界に侵入するためには教会の野郎共が開発した聖具が必要だ。その辺の教会からそいつを借りて結界に侵入。ここまでざっと1時間ってとこだ。」
「・・・!!」
「そしてこの結界の半径はおよそ800メートル。その中でこの位置まで助けに来るにはもう30分ってとこだなァ。つまりァ・・・30分程度逃げ回ったぐらいじゃ到底間に合わねェ。その助けってのが来た時にはお前はもう死体になってんだよ。」
ネオは30分と言った。俺を助けられない事を理解したうえで希望を持たせるため30分という時間を伝えた。
「そう・・・か・・・」
「お喋りはこんなもんか。まぁちィとばかり楽しかったぜェ。」
俺の頭に向け腕を構えるのが横目に見えた。
今度こそ終わりか。一日の間に二度も三度も死にかけて、必死に逃げ回ったがそれも無意味だった。
17年の人生もヴァンパイアとかいうよくわからないのに殺されてオシマイ。
そっと目を閉じようとした。
『必ず助ける。』
ネオの声が聞こえた気がした。
そうだ。必ず助けるってネオは言った。だったら最後まで惨めたらしく生きてやろう。
そしたら助けられた後でネタになるじゃないか。
「アンタもさ。」
「あ?」
「自分の見積もりが甘いかもしれないって考えないのか?」
「それもねェな。これでも最悪のパターンを考えるタチでよォ。歴戦のハンターでも間に合わねェよ。」
「俺は助けが来ることを信じている。アンタはその見積もりの甘さで負ける。」
「口の減らねえガキだ。」
男の顔から余裕の笑みが消えた。
今度こそ殺す気だ。
俺の頭部に右手が向けられた。
「死ね。」
鈍い銃声が鳴り響く。
しかし貫かれたのは俺の頭ではなかった。
俺の向けられた男の腕は銃弾に貫かれ、俺に向けていた腕はあらぬ方向へ曲がっていた。
「な・・・っんだとォォッッ!?」
ヴァンパイアは絶叫と同時に後ろへ飛んで距離を離した。
そして銃声の方向からは聞いたことのある声がした。
「またしてもギリギリセーフって感じだな。」
「ネオ!」
「遅くなった。怪我はないか?・・・ってそんな訳ないか。満身創痍って感じだ。」
軽口を叩くネオ。彼の口調からはヴァンパイアに対する恐怖を微塵たりとも感じない。
確かに最後の頼みの綱ではある。しかしこのヴァンパイアも人間離れした能力を持っている。
いくらネオがベテランのハンターだとしても勝てるのだろうか。
「ネオ!あいつは爪以外にも・・・」
「大人しくしていろ。それ以上出血したらさすがにヤバそうだ。」
情報を伝えようとしたが静止されてしまう。
「テンメェ!間に合うはずがねぇ!こんな短時間でッ!」
ヴァンパイアがネオに吼える。激しい怒りを口調から感じとれる。
「その辺の三流と一緒にするなヴァンパイア。面倒な結界張りやがって。おまけに俺の友達もボロボロと来たもんだ。」
手に持ったライフルに銃弾を込めながらネオは続ける。
「いつからそいつをつけていたのか知らないが、お前は生きて帰さない。」
それを聞いてヴァンパイアは笑い出す。
「生きて帰さない・・・か・・・グフフッ!ヒャハハハハ!!おもしれえこと言うじゃねえかテメェ!」
「じゃあもっと面白いことを教えてやる。俺はお前たちの間じゃ"死神"って呼ばれてるらしい。」
「死神だぁ?」
「ああ、俺と出会ったら生きて帰れない。誰も殺した奴の正体を知らない。そして誰も俺の顔を知らない。」
「死神だと?なるほどそうか・・・」
その名を聞いてヴァンパイアはゆっくり立ち上がる。
だが次の瞬間、目にもとまらぬ速さでネオに向け突進した。
「死神ィ!テメェを殺しゃあ俺もォッ!!」
「ネオッ!!」
瞬間移動にも近い超スピードでネオを殺しにかかるヴァンパイア。
俺を追いかけている時ですら手を抜いていたのか。流石に反応できるスピードではない。
しかし
「ア・・・?」
「昼間の奴もそうだったが、お前たちヴァンパイアは全くどうしてそんなに死に急ぐんだ。」
ヴァンパイアの頭部には正面からナイフが突き刺さり貫通していた。
じきに両手足もぐったりして動かなくなり倒れこんだ。
余りに一瞬の出来事に俺は理解することができなかった。
どうやらこのネオという男もよほど人間離れしているらしい。
勝った。
その事実だけが無音の屋上に漂っていた。