プロローグ Part1
目を覚ます。
朝の5:00。この時間は、いつもなら朝食前にランニングをするのが朝のルーティンだ。
だが、それはもう半年前の話。今の俺には朝から運動する気力はなかった。
にもかかわらずこんな時間に自然と目を覚ましてしまうのは、俺がこの生活サイクルを3年以上続けていたからで、過去の自分を呪いながらまた眠りに落ちた。
小学生の頃から野球に情熱を注いできた俺ははっきり言って頭一つ抜けていた。中学野球ではチームのエースだったし、スポーツ推薦で入学した高校でも一年生にして次期キャプテンと噂されるほどだった。
しかし、俺を妬む者もいた。数人の上級生は新人の一年にレギュラーの座を奪われることを懸念し、練習中の事故を装って怪我を負わせた。おまけに根も葉もない噂を学校中に広め、怪我が治るころには部内に俺の居場所はなくなっていた。
次に目を覚ました時、時計は9:30を指していた。
もうとっくに授業が始まっている時間だが焦りはない。
まだ覚醒していない意識はスマホへと手を伸ばすよう指示し、ニュースやSNSを読む。
いや、"読む"というより"眺める"という方が正しいか。
ただぼんやりと画面に表示される情報を脳内に流し込み、そしてどこかへ捨てていった。
半ば虚ろな意識で起き上がり、洗面所へ向かった。顔を洗うと少しばかり目が覚めた。
適当に焼き上げたトーストを昨日淹れたままの冷めたコーヒーで流し込み、出かける準備をする。
もちろん学校にではない。ただ目的もなく街を徘徊する。学校に行く気がない時はいつもそうしている。
財布とスマホと家の鍵だけを持って駅に向かう。
本当に、ただぼんやりと電車に乗った。
数駅先の"都会" とも "田舎" ともつかぬ街ではあるが、退屈を紛らわすには十分な光景だ。
歩道を歩くサラリーマン、コンビニの入退店の音、デートするカップル、パチンコ屋の喧騒。
まだ午前中だというのに街は活気と熱気にあふれていた。
その光景を俺は歩きながらただ眺めていた。
何の気なしに裏路地に入った。以前入った裏路地にうまいラーメン屋を見つけて以来、なんとなくそうするようになった。大抵は特に面白い物もなく別の通りに抜ける。
だが今回は違った。
街の雑踏が少しだけ遠くなった頃、違和感を感じた。
なんだ・・・この感じ・・・?
泥酔したような奇妙な感覚だった。
しかし意識はしっかりしている。だが足元が歪んでいるような、身体だけが揺さぶられているような、漠然とした不快感があった。
足元を見ると真紅の液体が獣の足跡のように奥へ奥へと続いていた。
それは血のように見えた。
その瞬間、奥から女性の悲鳴が聞こえた。
心拍数が跳ね上がり、額に汗が滲む。体温が上昇する。なのに体には悪寒が伝わって来る。
この奥の突き当りを左に行くと何かがある。人通りの少ない裏路地、血痕、女性の悲鳴。
明らかに異常な事態だ。このまま何も見なかったことにして帰るのが賢明な判断だと頭では理解している。しかし俺は奥へと足を進めた。
一歩進む度に恐怖心と正義感と好奇心がぐちゃぐちゃに混ざりながら体を支配する。
奥で何か音がする。何の音かわからない。
しかし奥で何が行われているのか想像することはできた。
恐る恐る、物陰に身を隠しながら奥をのぞき込む。
奥に人が二人見えた。
少しこの路地は暗い。まだ昼だというのに。
目を凝らしてよく見てみる。見なければいいのに。
二人の足元には紅い血だまりができていた。
男が女にキスをしている。
いや違う。キスなんてもんじゃない。
あれは、食っている。
人が、人を食っている。
大柄な男が女性の首元に歯を押し当て食らっていた。男の口元は血に塗れており、女性はぐったりとした様子でピクリとも動かない。よく見ればその女性は左腕が千切られたように無かった。
半分パニックになりながら行動を考える。
警察か?いや救急車か?救急車だとしてあの女性は助かる?そもそもなぜ人を食ってる?
考えれば考えるほどパニックになっていく。そう認識した途端に俺は冷静になった。
「(まずは大通りに出よう。ここは人通りが少ない。俺も襲われるかもしれない。そのあとで警察に通報する。それでいい。)」
踵を返そうとしたその時、スマホから電話の着信音が鳴り響く。
最悪のタイミングだ。
この緊張した静寂の中で軽快なメロディーだけが場違いだ。
急いでスマホを取り出し電話を切ってマナーモードにする。
その5秒にも満たない時間で、女性を襲っていた大男はすでに俺の前に立っていた。
震えている俺を見て見下ろしながら男は口を開く。
「アンちゃんどうしたァ?バケモンでも見たような顔してよォ?」
粗暴な口調の大男の口元は血で赤く染まっていた。その問いかけで、俺の心は恐怖に支配された。
ただの殺人犯ならまだマシだろうか。汗と震えが止まらない。
「結界張ってるのに人が入ってくるなんてよォ、そんなこともあるんだなァ。ヴァンパイアには見えねえし・・・まァ見られちまったなら仕方ねェよなァ。俺は女以外眷属にはしねェんだがよ。アンちゃん鍛えてるみてぇだし男手があると力仕事とかよォ便利なこともあるよなァ?そう思わねェか?」
近くまで歩み寄る大男。
結界?ヴァンパイア?眷属?力仕事?この男は何を・・・
そう思考を始めた途端腹部に鈍い痛みを覚えた。
大男は俺に膝蹴りを入れたのだ。軽く浮き上がって後ろに倒れこむ俺。
さっき食べたトーストとコーヒーが逆流して口から吐き出る。
上手く呼吸ができない。天と地があべこべになった感覚。
視界はグラグラ揺れる中で大男は俺の髪を掴み顔を上げさせる。
「オイオイ、吐くなよなァ?せっかくこさえたジーンズが汚れたらどうすんだよ?オイ?」
男は俺を睨みつける。
「アンちゃん安心しなァ。眷属になったらちぃと仕事はきついかもしれねえけどよォ。好きな女抱かせてやるぜェ?ケェハハハッ!!」
下品な笑い方をする男の牙が、俺の首に近づく。
思考ができない。宙に浮いているような感覚は続いており指一本動かすことは叶わない。
(ああ・・・死ぬってこんなあっさりなんだな・・・・)
死。
ただただシンプルな終わり。
そんな諦めだけは思考することができた。
死の覚悟をした俺は目を閉じる。
その瞬間に大きな音がした。
眼を開けると大男は横に吹き飛び、頭から血を流し倒れている。
音がしたほうを見やる。
ライフルを構え、ジャケットを着た男が立っていた。ライフルからは硝煙が立ち昇っている。
ジャケットの男は肩にライフルを乗せ、俺の方へ歩いてくる。
「危機一髪、ってトコだな。」
余裕そうに不敵な笑みを浮かべながら呟くその男。
今日は普通じゃないことが起こりすぎる。そんなことを思った。
その姿を見た途端に安心したのか、完全に諦めたのか、俺の意識は途切れ深い眠りへと落ちていった。