80-(0) 貴方の背中
※旧版(現〔上〕巻)の初回掲載日=2016.12/6
遠く高く、果てしない空。
遠く深く、底知れぬ足元。
そこはあたかも無限であり、永遠と錯覚するようなセカイだった。ありとあらゆる最果て
から渦を巻いて流れ込む魔流の宙は、静かに刻一刻と七色にグラデーションを変えている。
「……」
そんな濃密な空を見上げて、彼は一人佇んでいた。芥子色のフードを目深に被り、周囲に
幾つものホログラム画面と、翠色の粒子を漂わせている。
だだっ広い半透明の石畳が広がっていた。手前にはドーム状の天井が複層的に連なってい
るが、彼の立っている周りは石柱が点在するだけのテラスのようだ。
「ここにおられましたか」
そうしてじっと静かに佇んでいた最中、ふと建物群の方から一人の人物がこちらに向かっ
て歩いて来た。白衣を引っ掛けた人族女性──シゼルだ。その声色は気持ちトーンを落とし
てこそいるが穏やかで、目の前の彼との信頼を物語る。
「ただ今戻りました。既に“観て”おられたかもしれませんが」
報告されたのは、言わずもがな聖都での騒動とその顛末。教団とジーク達の衝突という隙
を突き、彼女率いる“結社”の大隊がその聖浄器を奪うべく暗躍した一連の干渉。
「本当に、アイリスだったんだな」
一通りの報告に耳を傾け、しかしフードの彼はこちらに振り返ることもないまま、ぽつり
とそう最初に言葉を零していた。
アイリス・ラ=フォン・クリシェンヌ。かの“聖女”を彼は名で呼んでいた。それはかつ
ての友であり、今では忌々しい邪魔者となってしまった彼女を、改めて認識する一種の儀式
でもあるかのようであった。
「はい。聖教典も、彼女達の手に……。申し訳ございません」
「構わないさ。あそこで退いたのは賢明な判断だったと思う。僕達でも、あれだけの力と真
正面からやり合うのは骨が折れるからね。覚醒した瞬間、その現場でとなれば尚更だ。取り
戻せばいい。数ならたくさんある。確かに、質的にはロストだろうけど……」
シゼルは頭を下げたが、彼は殊更に彼女を叱責しようとはしなかった。
宙を見つめている。左右正面に浮かぶホログラム画面と、視界に映る魔流達を同じ瞳の中
で捉えようとし、暫く彼は何かぼんやりと思案していた。シゼルはゆっくりとそんな彼に頭
を上げ、無言のまま次の言葉を待っている。
「……三対一、か」
ぽつり。そうしてやがて彼の口から漏れたのは、そんな呟きだった。
十中八九、手に入れた十二聖ゆかりの聖浄器の数だろう。皇国では告紫斬華、大都では
ディムスカリバー、今回の一件でジーク達がエルヴィレーナを確保し、更にもっと以前に──。
「嫌な傾向だな。どれだけ数を集めても、究極の一と等しくなるのは難しい。それに、測定
値がどんどん傾いてきている。状況は何も好転していない……」
フードの彼の声色が若干、険しくなった。シゼルもそんな彼の背中をじっと見据え、眉間
に皺を寄せている。
それはきっと、口にする彼本人への嫌悪ではない。
もっと別の、もっと広い不特定多数の者達へと向けたそれ。無慮と無理解への怒り──。
「シゼル」
名を呼んで、彼はようやく肩越しに彼女を見遣った。尤もそれでも目深のフードが被さっ
ていることには変わらず、その素顔は翠の粒子達も邪魔をして見えなかったが。
「皆に伝えてくれ。計画を少し巻きにするようにと」
「……承知致しました。仰せのままに」
コクと頷いて、シゼルが軽く胸元に手を当て一礼する。白衣を翻して、彼女はそのまま再
び建物の方へと戻ってゆく。
「……」
フードの彼は、また一人になった。だだっ広い半透明な石畳の上で、またこちらに背を向
けて黙り込む。渦巻く無数の魔流は、時折そんな彼の衣をばさばさと揺らしては過ぎ去って
ゆく。
佇む彼の懐。
じっと小脇に抱えられたその手の中には、とある一冊の魔導書が収まっていた。




