76-(3) 支(つか)える言葉
兄達がまた旅立ってしまっても、自分に課されたものは変わらない。
梟響の街学院内、レイハウンド研究室。アルスは積み上げられ、広げられた魔導書と格闘
していた。ノートの上で走るペンの動きと、連ねられる構築式や証明を、ブレアが横で見て
いる。
「ん……。完璧だ。相変わらず末恐ろしいよ、お前は」
そうして一通り問題を解き終え、添削する。出会って以来何度も繰り返されてきたやり取
りではあるが、弾き出された回答はほぼ満点に近い。なのに、褒め下手なのか褒められ過ぎ
て慣れてしまったのか、ブレアが嬉しそうに苦笑ってもアルスは表情一つ変えずにじっとこ
ちらを見ている。次をと、席に着いたまま待っている。
「……」
間違いなく彼は天才だ。だがここ最近、ブレアはこの弟子が恐ろしくもある。
何と言えばいいのだろう。こう、あまりに学ぶことに貪欲で、歳相応の瑞々しさというか
無邪気さというか、そんなものが欠けてしまっているようで。
だがその理由は、大方予想はついている。彼の出自だ。東の雄国・トナン皇国の第二皇子
にして、世間を騒がせるに事欠かない冒険者クラン・ブルートバードの一員。数奇な運命と
言ってしまえば簡単だが、十六歳──大都の一件から二年の歳月が経ち十八歳になったこれ
までに経験してきた全てが、彼を内面から大きく変えてしまったのだろうとブレアは思う。
磨耗。一言で表現するならばそれだ。
ただそれは、外野から一見するだけでは分かるまい。自分のようにこうして近くで長い間
接してきたからこそ分かるものである。奇しくも巻き込まれた“結社”との戦い、晒された
出自と戦果、それ故に向けられる畏怖と忌避の眼差し……。普通に生まれ、生きた少年だっ
たならこうはならなかった筈だ。本人は頑なにひた隠しにし、耐え続けているが、彼の中に
あったもっと純粋で素朴なもの達はこれらに曝され続けて傷付いてしまった。かつて自分に
語ってくれた夢も、志も、今では悪い意味で彼を己の暗い奥底に縛り付ける鎖となってしま
っているのではないかと思う。
「……問題ないな。前回の復習もばっちりだ。じゃあ早速今日の本題──回復系魔導のレク
チャーに移るとしようか」
だがブレアは、この日もそんな心証を問う事はできなかった。彼の横に座り、予め用意し
てあった魔導書を広げながら、メモ紙の片隅にざざっと図を描いて講釈を始める。
「もう医療分野の講義で聞き始めてる部分もあるとは思うが、復習も兼ねて一から話すぞ。
知っての通り、医療分野──こと回復に特化した魔導というのは古くから存在する。どの系
統か分かるな?」
「はい。聖魔導です」
「そうだ。光と祈り、聖なる力。現在も回復系の魔導においてこれに勝る系統は無い。傷だ
けじゃなくダメージ自体も軽減できるしな。それでも今日、回復系の術式は他系統の魔導に
おいても多く開発されている。その理由を説明するには、古く魔導開放以前の歴史を遡らな
ければならない」
メモの一番上のスペースに(聖)と。ブレアはそこから線を繋いで更に四つの丸を描き、
それぞれ墳・流・魄・焔と文字を続けた。
「魔導開放以前──古代の魔導師とは特権階級だった。素質ある者は種族・血統ともに限ら
れた者だけであり、それ故今でいう神官のような役割も兼ねていた。光と祈り──聖属性を
出発点としたのはそんな歴史の必然性だと言える。元から術者が限られているんだから、回
復系の魔導を扱える奴はそりゃあ重宝された。だが、その理由は何も単なるなり手不足だけ
じゃない。もう一つ、大きな原因があった」
「原因……なり手不足……。つまり、需要?」
「理解が早くて助かるよ。そうだ。これまでお前も学んできた通り、規模の大小を問わず人
が魔導を使う時、必ずその廃棄物としての瘴気が発生する。そして瘴気はある程度の濃度と
量を伴えば、一個の生命体を変異させるに充分となる。魔獣だ」
師がちらつかせた情報を即座に読み取り、答えるアルス。ブレアは満足げに頷いた。メモ
の左右へ更に人と、怪物のデフォルメした絵を添えると、その両方に彼は往復する矢印を引
いてみせた。バツ印を、その上に繰り返し書いて強調する。
「太古の昔から、ヒトは魔獣の脅威と戦いながら生きてきた。当時、祈りは即ち力だったん
だ。祈りという名の聖魔導は傷付いた多くの人々を癒し、救った。必然だった訳だ。需要と
供給、鶏か卵かって話になっちまうが、魔導を軸に文明が作られた以上はな」
だが──。そこでペシペシと、ブレアは手の中のペン先をこれまで描いてきたメモの絵に
軽く叩いて示し直す。アルスがじっと真面目にこちらを見ているのを確認した。ブレアはそ
れを瞳の中に捉えて見つめ返し、いよいよと核心に突入する。
「実際、均衡であったかどうかは今の俺達には分からねえ。だが少なくとも、その後の両者
のバランスは大きく変わった筈だ。魔導開放──魔導の拡散が始まった。それは即ち、世界
全体で行使される魔導の──消費される魔力の絶対量が増大したことを意味する」
「……」
「魔力の消費量が増えることはイコール、瘴気の発生率を引き上げる。そうなれば当然、魔
獣も多く発生する。術者の数が増えたとはいえ、回復系の魔導の供給はその需要に耐え切れ
なくなった。以前お前にも話したように、俺達個々人には各系統に対する相性──先天属性
がある。全員が全員、聖魔導を使える・使いこなせる訳じゃないんだ。だからこそ聖魔導以
外にも回復系の術式が開発された。自己治癒力を強化する墳属性、流水による消毒作用に長
けた流属性、精神治療の魄属性、生命活動そのものを活性化させる焔属性といった具合にな。
こうして今日に伝わる回復系魔導の体系が整備された。これもまた時代の必然だった訳だ」
「……」
静かにアルスは目を瞬く。気配で、顕現を解いて寝入っているエトナの様子が背後にあっ
たが、例の如く授業中に彼女へ構っている余力はない。
時代の必然。魔導を用いるから、魔導がどんどん必要になった。
“大盟約”の完全消滅。かつてクロムが自分達に教えてくれた“結社”の目的とこの話は
まさにリンクする。
「そうしたロジックを実際に証明したのが、七十三号論文なんですね」
「そうだな。魔獣が絶対悪じゃない、瘴気が生まれるから奴らも生まれるんだ。システマテ
ィックに捉えれば、世界全体の瘴気量を魔獣の中に隔離し、自然の自浄能力を援ける。或い
は魔獣がヒトを狙うのも、瘴気を生み出す大元だから──ライルフェルド博士は大したモン
だよ。まぁその所為で結果的に命を奪われることになっちまったけどな」
「ショックだったでしょうからね。世の中の常識を、ひっくり返したから」
「常識っつーか、信仰だな。魔獣が絶対悪、人間が善っていう大前提を否定されたんだ。そ
の手の連中は顔を真っ赤にしてキレるさ。博士の理論は後世色んな学者が別個証明し直して
るんだけども、それでも未だに頑なに認めないっていう奴らも多いしなあ」
「……クリシェンヌ教も、ですか?」
「どうかね。あっちはまだ比較的マシな部類だろ。これは俺の感触でしかねぇが、そういう
のは土着系の信仰の方がもっと偏屈だぜ」
そうして話題がかつての名論文に及んだ中、アルスは数拍躊躇いを含んでから問うた。
対するブレアはさして気に留めるようでもなく答える。だがその名前が出た時、昨今の情
勢からも、彼が何を思ってその言葉を口にしたのかは容易に想像できた。
「ま、そもそも信仰ってのが凝り固まってナンボな所があるしなあ。自分じゃ抱え切れない
色んな疑問の答えを先に用意して待ってくれている──だからこそ祈るんだし、一度寄り掛
かったら簡単には離れられないんだろ?」
「……」
敢えて、いや努めて、ブレアはそう話題がさも軽いように言って苦笑っていた。
だがアルスは静かに視線を逸らすと、じっと思考を自分の中へ奥深くへと持っていって、そ
んな彼の慮りも五感の遠くに追い遣ってしまう。
(兄さん達、大丈夫かな……)
今日もこれまでも。学院生活を送りながら常に心の片隅に陣取るのは、そんな仲間達への
想いだ。兄達は半月ほど前、正式に特務軍の一員として十二聖ゆかりの聖浄器回収の任の為
に旅立った。それが来たる“結社”との決戦に備え、彼らの真の意図を知る手掛かりにもな
るのだと信じて。
今朝、導信網の記事で、兄達が聖都で教団との全面対決──交戦を演じたとの内容を読ん
だ。ホームの皆の話では無事だったらしいが、あまりこんな事を続けていればどうなるか分
からない。こと聖都、相手のホームでの市街戦は人々の心証をどんどん悪くしていくだろう。
実際に正しいか正しくないかではない。彼らがどう感じるか、自身にメリットやデメリットが
あるか、である。
戦っているのだ。兄も、仲間達も皆、自分たち兄弟が巻き込んでしまった渦の中で。
本来なら自分も一緒に戦いたい。戦って早く終わらせるべきなのだ。だけども皆は決して
首を縦には振らず、自分の夢を叶えることを第一に考えて欲しいと言う。この戦いは自分達
がその意思で選んだのだからと。
……本当にそうだろうか? 最近特にその想いは強くなっている。
皇国の内乱、フォーザリア鉱山、大都、地底武闘会、そして梟響の街。自分が関わらなけ
れば、そこに住み、訪れる多くの人々は平穏でいられたのではないか? 元より血脈の運命
だった、或いはどのみち“結社”はその野望の為に暗躍していたのだろう。でも、それは自
分がそうした災いの渦を止められなかった言い訳にはならない。力が、足りない。
(……僕は、何の為にここにいるんだろう?)
守られて、守られて。
足手まといだと避けられている訳ではない。そう信じたい。でも二年前、レジーナさん達
にルフグラン号──クラン専用の飛行艇を造ってくれるようイセルナさんが依頼したのは、
避ける為ではないのか? 繰り返し自分たち兄弟を庇い、味方してきた事でいずれこの街に
居られなくなるであろう自分達を、クランごと空に逃がす為ではないのか?
ならば、自分が真っ先にそこへ収まるのが筋だろう。自分さえいなければ、街の人は誰も
傷付かない。誰もその為に悲しむことはないし、怒りや憎しみを振り撒くこともない筈だ。
なのに彼女達は、兄はそうは言わない。ただ夢を追う君であればいいと言う。
……耐えられないよ。僕はそんな皆の優しさに気付けないほど、図々しくはない。
移り住むべきだ。これまでの為にも、これからの為にも、せめて自分は普段の住処を余所
の空に変えなくっちゃいけない。
それが、ずっとこの二年近く考えていたことだ。身の振り方についてだ。
でも未だもってこうした考えは皆に話せていない。普段一番近くにいるリンファさん達に
すら、切り出せていない。
図々しいのだろうか? ずるいのだろうか?
僕は、本当に皆の──。
「おい。アルス」
だがそんな深く深く沈み込んでゆく想いは、次の瞬間ブレアの呼び掛けによって引き摺り
上げられていた。
ハッとなって我に返るアルス。それをブレアは怪訝に──何処かある種の確信を持ってい
るかのようにじっと見つめている。
いけない……。アルスは居住まいを正した。背後でエトナの気配がもぞっと動いたのが分
かる。ブレアは片肘をつき、メモの手を止めていた。もしかしたら暗澹とした想いに囚われ
出した瞬間から、彼はずっとこちらの事を観ていたのかもしれない。
「大丈夫か? 何やら考え込んじまったから、話を止めたんだけどよ」
「だ、大丈夫です。すみません……」
苦笑う事もままならなかった。ただアルスは平謝りをし、胸の奥で暴れ始めていたエネル
ギーをギュッと、これまでもそうしてきたように無理やりにでも押し込めて知覚しないよう
に努める。
「……ま、いいんだがよ。あんまり胸糞のいい歴史じゃねえしな。切り口を変えてみるか?
一度実務的な──具体的な術式をとにかく詰め込んでみよう」
「はいっ」
言い出せなかった。
そして彼の提案は、好都合だと思った。




