化粧
是非縦書きPDFでお読み下さい。
電車で隣に坐す日本人の若い男女が中国語で会話する現代は、自然を貴ぶ時代である。或いは個人主義の時代かも知れない。人々は自分の個性を主張して、思ふままを随意に振舞つてゐる。人間は自然にありのままの姿を示し、その真率さが尊重される。従つて、偽り、不正直、不自然、それらの性質を具へた者は現代に於いて鼻摘まみである。人々の行動の動機は国家や大義でもなければ理想でもない。唯自分の好悪である。だから日常の言語は各人の自由である。
自然は善であり不自然は悪である。人々は自然に愉快を覚えるが不自然には不愉快を感ずる。自然は美しく不自然は醜悪である故、白粉を塗り紅を差し、美々しく着飾ることはかえつて美しくなかつた。江湖万人綺羅を飾らず風采の貧弱なるはこの時代色が為のみ。人々は得意気になつてしだらない素顔をおめおめと晒してゐる。
津村は自然を鍾愛してゐた。が、一種の自然主義が一般の流行になるに従つて彼は自然を嫌忌したい情を催した。さうして行住坐臥世間を白眼視してゐた。中途半端なものを嫌ふ津村は、世間の人々が自然を推重しておきながら衣服を必要としてゐる事を冷嘲してゐた。ありのままの姿を理想とするなら、衣服を脱ぎ棄てて自分の裸身を恍惚と眺めてゐればいいぢやないかと、さう思ひながら津村は街を歩いてゐた。
津村は若い書道家であつた。彼は筆力の雄勁さでしばしば名が知れてゐた。津村はしかし近頃は何も書かない。時代のせいであらうか、書道と云ふものが世に顧みられないからである。津村の芸術的情熱は冷えかかつてゐる。しかし、彼はまだ芸術家としての矜持を保つてゐた。津村は入浴の時のほかは日夜着物を着てゐる。現代日本に於いて、着物を着てゐては時代錯誤な感じがする。が、一着の服は一つの生活を左右すると云ふ考を有してゐる津村は、襟を正すやうなつもりで敢へて着物を着てゐた。人間本来の性質は怠惰であると、彼は思つてゐる。
自然が世の中に持て囃され、恋愛に於いても自然な態度で向かふ事が出来るかが重視される。だが、津村は斯様な恋愛観にも否定的な態度を示してゐる。彼は恋愛に於いて、自分が相手にとつてのありのままの自分を露呈出来る存在であるよりも、むしろ自分と会ふ時には白粉を塗り紅を差し、美しく着飾らないときまりが悪くなるやうな高踏的な存在でありたかつた。さうして自分も斯様に高踏的な女のために着飾つてゐたかつた。
街の目抜き通りを、津村は懐手してぶらゝと歩く。すると、前方から聞き慣れないコツコツと云ふ靴音がして来る。津村は自然音のする方へ目をやつた。彼の案に違はず、前方から歩いて来る女は近頃殆んど見掛けなくなつたハイヒールを履き、かわいたアスファルトに響かせてゐた。ハイカラだと、津村は思つた。其ハイカラな女は注意の視線を等しく全方位に向けながら次第に近づいて来る。さうしてふつと津村を瞥見して二人は視線を合はした。須臾にして両者はすれ違つた。女の顔を見た瞬間、津村には女が上品に微笑みかけてゐたやうに感じた。女とすれ違つた後、津村は何となく後ろを振り向くことが出来なかつたが、女の色香に心を引かれて、やがて振り返つた。が、女の影はもう見えなかつた。しかし、津村は女の黒いシャツの艶やかな質のいいのを明瞭に覚えてゐた。更に、彼は女が耳、指に至るまで装飾品を着けてゐたのを見逃さなかつた。不意の邂逅であつたが、女の姿は女の甘い香水の香とともに、津村の脳裏に深々と印された。
津村の女の不自然さへの憧憬がまだ冷めやらぬ頃の或る昼過ぎであつた。津村がいつものやうに家の軒先で煙草を吹かしながら葵の花を眺めてゐると、聞き慣れないがしかし聞き覚えのあるコツコツと云ふ音がして、津村の近くで止まつた。津村が音の方へ顔を向けると、其所に先日すれ違つたハイカラな女が居た。津村はしかし驚きよりもむしろそれが当然であるやうに思つた。津村は何故か此眼前の女と近いうちにまた会へるやうな確信に近い気持を抱いてゐた。
女は頼み事があつて津村を訪ねたと云つた。津村は聊か戸惑ひをしたが、平気を装つて女を家の中に招じ入れた。津村は女が今時分何の用で自分の所へなんぞ来たのか、とんと見当がつかなかつた。女は陰々たる室内の中央に腰をおろすと、四方の壁に掛けられた墨書の数々を見て、ふんと笑つて見せた。
「何でせう」
津村が訝しげに訊いた。
「さすがは現代の芸術家、名筆でございますこと」
女は落ち着いた声で云つた。
「へえ。それはどうも」
津村は女が開口一番、用件を告げるものと思ひ込んでゐたから、女の云はば儀礼的な挨拶の返答に聊か窮した。
「今時着物を着て街を歩くお方なんか、一人もおいではございませんから。其矜持があればこその芸術家ですわ」
女はさう云つて津村に微笑を見せた。津村はさう云ふ女の意図が何であるかといふ疑心と褒められた喜びの念とを以て眼前に坐る女を眺めた。女は薄く白粉を塗つてゐるやうで色が白く、唇と眼尻に差した紅がよく映えてゐた。女の黒いブラウスは全体に滑らかな光沢があり、中央のドレープが美しかつた。嬋娟たる緑の黒髪に全身を黒で統一した女の金の輪の耳飾りと指輪は、僅かな装飾であるがしかし絢爛たる美しさを以て津村の心を引きつけた。
稍ともすれば自分を劣等種として卑しめるやうな、自ら慚愧せざるを得ないやうな圧倒的な装飾、不自然な美しさが女にはあつた。津村は今すぐにでも上等な着物に、いや、女と同じ上等な洋服に着換へたくなつた。津村は自分の家に居ながら居たたまれなくなつた。芸術家としての自負を有してゐる津村であるが、着飾つてゐると疲れを感ぜずにはゐられない。況して着飾つた甲斐の無いやうな日は着飾つた事が無駄骨のやうな気がして腹立たしくもあるが、いざ立派に着飾つた人物と相対峙すると、自分の粉飾の不徹底が口惜しく思はれて来る。彼は今まさに其感情に支配されてゐた。
津村はさうして女の方に視線を集中して黙り込んでゐたが、女の方ではそんな事などは一向構はないと云つた風で
「そこであなたに頼みたい事があります」と改まつて津村へ向き直つた。
女の声に津村ははつとして「と云ひますと」と聞いた。
女は膝を進めて
「私の身体に文字を書いていただきたいのです」
と真剣な顔付で申し出た。
「へ、身体に文字ですかい」
思ひもよらない女の依頼に、津村はちよつと狼狽した。
「ええと、それはあなたの身体を半紙の替はりに、文字を筆と墨を以て書くと云ふことですかい」
津村は疑問を解かうと尤もな質問を掛けた。
「はい、さうでございます」
女は自分の云つてゐる事に何もおかしいことはないといつたやうな、いや、奇矯な申し出であるのを承知の上で、津村を聴従させるかのやうに言下に道破した。
「しかし私は半紙以外のものに筆を揮つた経験がありません。況して人の身体になどは、ちよつと自信が持てませんが」
之は依頼を引き受けざるを得ないだらうなと津村は既に思ひ定めてゐたが、彼は形式的に弱音を吐いた。が、女は毅然として
「それでもよござんす」
「しかし全体何と云ふ文字を書くのです」
「それを創造するのが芸術家の仕事ぢやなくつて?」
さう云ふ女の自信と威容に津村は圧倒されながら、心の内には鬱勃として情熱が燃え上がつて来るのを感じた。
何と云ふ文字を書かうか、津村はしばらく思案した。彼は考の閃くのを期待してゐた。が、結局何も思ひ浮んで来なかつた。思ひ浮びさうな気配もなかつた。しかし女は津村の顔をまつすぐに見ながら彼の反応を待つてゐる。津村は芸術家として侮られぬやう、一つの考を閃いた風を装つて、女に衣服を脱ぐことを云ひ付けた。女は津村にさう云はれるのを待つてゐたかのやうに、落ち着いて、一も二もなく之に従つた。津村は女が衣服を脱いでゐる間、硯と筆と墨を持つて来て準備を整へた。又、女の側に蒲団を敷いて置いた。津村は自分の準備が出来上がると、女が衣服を脱ぐところを黙つて眺めてゐた。女は身に付けてゐた粉飾物を悉皆脱ぎ去ると、又津村の方を向いて坐した。津村は立派に着飾つた其女と、今彼の前に坐つてゐる赤裸の女とを比較して、瞬刻の齎した対照に不思議さうな眼を注いだ。津村は何だか女から見た目の美しさが失はれたやうに感じた。顔は化粧を施してゐる御蔭で婀娜つぽいが、白粉の塗られてゐない首から下は、女の生物としてのありのままの姿が生々と呼吸づいてゐた。津村は其女の皮下に温かい血潮の流れる様を想像して、女から自然な、人情的な、世俗的なものを感じた。花の茎のやうに華奢な女の肉体は津村の眼には余りに貧弱に映つた。男としての彼は眼前の女にひどく興醒めな印象を受けた。が、芸術家としての彼は無味乾燥な女の裸身に手を加へてみたい気がした。さうして其一瞬間、津村の頭の中に、突然或二字が浮んだ。
津村は女を蒲団の上にうつ伏せに寝かせた。文字を身体のどこに揮毫するか、女からの申し出はなかつたが、彼はそれを女に訊ねることはしなかつた。それを聞いたところで、
「それを創造するのが芸術家の仕事ぢやなくつて?」
と再び同じ言葉を繰り返されるだらうと思つてゐた。
津村は太い筆を執つて、持ち前の豪快な筆致で女の背中の左下あたりから文字を書き始めた。身体に文字を書く、書かれるのは津村にとつても、女にとつても、初めての経験に違ひなかつたが、両人は互にこんなことには慣れてゐるかのやうに装つてゐた。女は自分の身体に文字を書かれてゐる最中、微動もせずにじつとしてゐた。津村の方でも、筆を通して伝わつて来る女の皮膚の不思議な感触に思はず体が堅くなつたりしたが、それによつて文字が霞むこともなく、力強く書き進めて行つた。
津村が筆を擱いた時はもう三時を過ぎてゐた。文字は書き終へたがしかし乾かす必要があつた。とは云へ、半紙ではなく人の身体に書いたため、どのくらいの時間が要るか津村にはちよつと見当が付かなかつた。
二人は唯時間の過ぎるのを待つた。津村の陰々たる室内からは情熱、緊張、虚栄、それらのものが忽ち雲散霧消してしまつた。部屋の内は寂として、声が無かつた。仕事をなし終へた後の彼の心は空虚であつた。
薄暗い津村の部屋へ西日がぽつと明るく射す。津村は徐に口を切つた。
「さあ、お立ちなさい」
女は津村の此言葉を聞いてもしばらく動かずにゐた。それほどに津村の声と夕暮の暖な空気とが渾然として融け合つてゐた。三十秒ほどすると、女は徐に体を起した。女の身体へ揮毫した墨字はもう乾いてゐた。津村は立ち上つた女を見るや否や女から目を離すことが出来なくなつた。さうして、彼はしまつたと思つた。
女が津村の方に腰を捻ると、女の背中から臀部にかけて、雄渾な筆つきで揮毫された「処女」と云ふ二字が赤い西日に照らされて燦爛とした。津村は女の裸を見た時、それが処女の肉体でないといふことを悟つた。だからそれは偽りであり、不正直であり、さうして不自然である。が、それはまた女の心化粧でもある。津村は翻然として眼前の裸の女を美しく眺めた。同時に彼は女に愛惜を抱いた。さうして再度しまつたと思つた。我が手に入らないものを自分で創造してしまつたと思つた。
女は元の通り衣服や装飾品を着けて、ハイカラに着飾つた。其粉飾の下にまた粉飾の施されてゐる女の姿は、不自然美の象徴として錦上花を添へてゐる。衣服の下に伏在してゐる偽りが、窓から射す深紅色の夕明りに浮んで、津村の眼に、余りに美しく映じた。
また歴史的仮名遣いで書いてみました。間違った所があれば是非お教え下さい。