思い出のクマタン
ミズナラの混交林に覆われたウサギ山は、秋のこの季節こそ最も美しい。
赤を基調とし、ほんのりと差す黄色がまた絶妙で、山全体がまさに燃え盛る炎のようにどこか恐ろしくも鮮やかに染め上がるのだ。
落葉が地面に作り上げる模様の色彩もどれ一つとして同じものはなく、それら偶然の芸術には思わず歩みを緩めたくなる。
◆
俺はウサギ山の秋が好きだ。
もちろん景色の美しさも季節の醍醐味の一つである。しかし今は待ちに待った種子の落下時期でもある。つまり飯だ。我々生物は心が満たされただけでは生きてはいけないのである。
生命を繋ぐ実りの秋が、俺は大好きだ。
また、この山のミズナラは種子自体の食味を(主にリス共から)高く評価されている。
しかしウサギの俺としてはやはり春の実生がたまらない。
そして翌春をいかなる気分で迎えるかは、秋の地面を見ればだいたい分かる。
燃えるようなミズナラがその足元へ灰のように実を積もらせる様は幸せな春を予感させ、俺の心をこれでもかというほど躍らせるのである。
そう。今年は豊作であった。
あたりを囲む粒の輝きに感動を抑えることが出来ない。
落ちた実たちが次々と落葉を打つ音は、それだけで涎が止まらない。
ここは一つ、試しに食してみるとしようか。
なに、いくら俺が仕事中と言ってもこれはあくまで味見、否、試食という業務に該当する。
我々『公務兎』はウサギ山の資源やその質についても把握しておかなくてはならない。
来年の備蓄については目視にて『たくさんある』ということが分かっているので、あとは味について調べておく必要がある。
うん、美味しい。
ウサギ山の民よ、共に喜び合おうではないか。次の春は美味しいミズナラがたくさん食べられるぞ。
――この給料泥棒。
恐ろしい上司の顔が浮かんだところで、俺は再び走り出した。
「山の周りをまわって、先日起きた山火事の被害状況を見て来い」
ウサタンには丁度いい運動になるんじゃないか、とまで付け加え上司は俺を役場から追い出し、ウサギ山の端まで向かうよう命じた。
今でもあの意地悪く細めた赤い目を思い出すだけで腹が立つ。
そもそも俺の仕事と言ったら窓口でニコニコしていることであると決まっているというのに、なんたる仕打ちか。
それを専門とする部署や下請けがあるだろうに。
まあ良いのだ。
そこまで嫌われているなら、こちらとしてもやつに媚びなければいけない道理は無い。
適当にブラブラして、美しい景色と上質な味覚を堪能して帰るとしよう。
こんな意味のない仕事でも、あの憎らしい顔を見ずに済むと考えれば大いなる意義を見出せるというものだ。
そうとも、この仕事には意味がない。
先の山火事は確かに大規模なものであったがそれはキツネ山が起こしたもので、その上突如発生した大雨によりウサギ山への延焼は免れたことは既に分かっている。
他所にとっては不幸であったと言うほかないが、こちらは草の一本も燃えることはなく、当然ウサギ達からの被害報告も出てはいないのだ。
したがって俺が上司のもとへ帰り伝えることは「異常なし」の一言であると今から決まっているのである。
――とは言えども。
あれだけの災害に対して公務兎の我々が無関心と思われてしまうのもマズい。
やはり何かしらのパフォーマンスも必要というわけなのだ。
このようなやり甲斐のある仕事を与えてくれた上司には感謝してもしきれない。と言っておこう。
◆
素晴らしい秋を全身で味わい、ほどなくして俺はウサギ山の終わりに到着した。
麓には小さな川が流れており、そこから向こうは俺の管轄外となっている。
あとはぐるりと山を周って帰るだけだが――、久しぶりの遠出で少し疲れた。
水を飲んでから再出発しよう。
うん、冷たくて、美味しい。異常なし。
「ウサタンさん」
向こう岸から呼ぶものがあったので、俺はいちど川の水をぺろぺろするのを辞めた。
顔を上げた先にはこと戦闘においては敵う見込みなどある筈もない屈強なクマがこちらを見下ろしていた。
だが心配はいらない。彼とは古くからの友人であるのだ。
名前はクマタンという。
それでもクマタンと遭遇するのは俺が役場に採用が決まって以来だったので、久しぶりに目のあたりにする大型獣の迫力には思わず腰が引けてしまう。
「よう、クマタン」
以前と同じように、俺はクマタンに言う。
「相変わらずデカいな」
「クマなので。ウサタンさんは小さいですね。小さいけど、美味しそうだ」
「腹に脂が乗ってるぞ」
懐かしい笑顔と下らないやり取りに妙な緊張はほどけ、俺達はようやく声を出して笑った。
剥き出しになった牙も、決して俺を襲うことはない。
クマタンはウサギを食べないからだ。
俺に配慮してのことなのかは分からない。恐らくはそういう事なのだろう。
こちらとしては自分さえ無事なら彼が何を食べようと構わないのだが、クマタンというのは変わった優しさを持っていて、俺は変わり者のクマタンが気に入っていた。
「うちへ来て一緒にミズナラを食べませんか。もみじ茶もありますよ」
「申し訳ないけど、こう見えて今は仕事中でね」
「大した仕事じゃないんでしょう。上司にはクマ山で迷子になっていましたと言っておけば良い」
「そこまで馬鹿な脳みそは持っていないつもりだが、まあ、後でなんとでもなるか」
そう言った俺をクマタンは川の向こうから体を伸ばし抱き上げた。そのまま肩に乗せられ運ばれるところだったので、急いで飛び降りる。
「自分で歩くよ。クマタンの肩は揺れるから腰にクるんだ」
俺だってもうガキではないのだからとか、そういうことを言いたいのではない。
クマタンの肩の上は本当に揺れるんだ。昔ならそれではしゃいだかもしれないが、そろそろこっちも体を労わらなくてはいけなくてね。
「そうでしたか」
クマタンはそうやって低く笑った。
◆
「ウサギ山も素晴らしいですが、私はやはりクマ山の景色が好きです」
先を歩くクマタンが言った。
「こっちの山は少しだけ色が淡いんです。優しくて、そこがなんとなく好きです」
はじめは独り言に思えたそれは俺へ向けられていた。
さっきからお互い無言だったから、また変な気を遣ったのだろう。
俺は答える。
「同じミズナラでも、そっちのほうが年を取っているんだろう。年寄りのミズナラは、そうだと聞いたことがある」
「それなら私は年寄りのミズナラが好きです」
「へえ」
そうかい。
まあ景色は綺麗に越したことはないが、俺にとっちゃ大事なのは『量』と『味』だ。
しかしクマタンにとってはそうでもないらしい。
もともと彼はどこか浸っちゃうところがあって、話が噛み合わないなんてことは良く起こり得る。
既に口を閉ざしたクマタンも、それは理解している筈だ。
俺は胃袋で物事を考え、彼は心で考える。
まるで性格の違う俺達が、よく今まで上手くやってきたものだと思うよ。
「着きました。ようこそ」
山の中腹あたりまできただろうか、クマタンが立ち止まり、振り向いた。
そこには大雨により過肥大したものだろう、それにしても大きな、我々が腰を下ろせるほどに生長した天然のベニテングタケのテーブルセットが用意されていた。
「なんと見事な。クマ山には度々こういった常軌を逸した代物が出てくる。今度ちゃんとしたところに頼んで調べて貰えよ。ここは間違いなく資源の宝庫だ」
「手を加えることで失われる物もある。私は今のクマ山が気に入ってますから」
彼は少しだけ苦しそうに笑い、ベニテングタケに腰を下ろす。
クマ一頭を支えるその強度に驚きつつも、俺も同じようにして彼の向かいに生えた椅子へ座った。
「すみません、お茶のほうはもうすっかり冷めていますね」
「なんだって構わんよ」
いつだってそうしてきたようにクマタンの些細な詫びを流してから、俺はテーブルの上に盛られたミズナラの種子に手を伸ばした。
前歯で外果皮を割り、中の実を味わう。
口の中に広がる香ばしさは、さきほど俺が摘まみ食いしたウサギ山の物とは明らかに違うものである。
「……いい具合にローストされている。中に巣食うゾウムシのクリーミーさはそのままだ」
「味については詳しくはありませんが、料理の素晴らしさを互いに共有できることこそが私にとって最高の食事です。とにかく喜んでもらえたようで良かった」
満足げに目を細め、ティーカップを差し出すクマタン。
俺は続けざまにもみじ茶へ口を付ける。
「……これはあまり好きじゃないな。なんていうか薄い。こういった上品なのは合わないのだろう」
「それは残念です」
さして気にしない様子で、彼は数粒のミズナラを口の中へ放り込みティーカップを傾けた。
「最近はどうです?」
全てを飲み込み、やけに改まった様子でクマタンが言った。
俺は食事の手を止めることなく、そのどうでもいい問いに答える。
「どうって、見ての通りだよ。変わらず元気だし、仕事も順調。最近じゃ上司からの信頼も厚い」
「何よりです」
「……そっちは?」
本当ならこんなことは聞きたくない。
どうでもいい世間話には違いないのだが、もしかしたらクマタンの口から良からぬニュースを聞かされないとも言い切れないからだ。
おそらくは楽しい会話を望んでいるであろう彼の気分を出来れば損ねたくない。
だけど黙ってムシャムシャしているのも、それは不自然に決まっている。
要するに、ここまで考えなくてはいけないほどには、クマタンの口ぶりは不穏だったのだ。
「私のほうも別に。とても元気です」
「キツネ山と揉めてたろ。クマ山放棄地の共同開発に一部のクマが難色を示してるって、噂で聞いたけど」
「私達はあくまで今のクマ山を維持したいとそうお伝えして、あちらも納得してくれた。もう終わった話です」
「そうか。まあ、キツネ山が火の海じゃあそうとも言えるかもな」
「ウサタンさん」
不意にクマタンが俺の手から種子を奪い取りクマ然とした険しい顔を見せた。
本能的な恐怖から、図らずも俺は椅子の上で腰を抜かしてしまった。
「……なんだよ?」
怯える俺を見て我に返ったか、クマタンは若干ではあるが表情を柔らかくし、種子を返してくれた。
それでもまだ怒りは収まりきってはいないのだろう。
鼻息を荒げ、深淵を思わせる真っ黒な瞳をこちらに向けて言うのだった。
「冗談でもそういうのは許せませんね」
「クマタン……」
「どういうつもりか知りませんがそんな有りもしない不幸話など、特に私のことを知っているウサタンなら言えない筈です。私は今でもキツネタンのことを……」
「……」
クマタンは心で生きている。
俺達がたとえ大きくなっても、かつて仲の良かった三匹の影は彼の中ではいつまでたっても仲の良いままであり、山どうしのいざこざなんて本当なら考えたくはないのだろう。
「この場にキツネタンもいれば、きっと楽しかった」
最悪だ。
テーブルに顔を埋めるクマタンを見て俺は思った。
「ウサタンさん、ここから眺める景色は素晴らしいと思いませんか。キツネとかクマとか関係なく、ただこの山は素晴らしいでしょう。同じように、私たちは素晴らしい関係でありたかった。危なっかしく見えても、これまで私たちは上手くやって来たじゃありませんか。なのに……」
「俺はクマタンのことはずっと友達だと思っているよ」
「誰が保証してくれますか!」
クマタンはいつだってマイペースで、時代の少し後ろに取り残されている。
明るい場所に立ち止まり、そこでのんびりしてしまう。
そのことがいつか何らかの形で彼を滅ぼすであろうことは知っていたけれど、俺はクマタンが気に入っていたから何も言わずにいたんだ。
友達として。
今の俺にはクマタンにしてやらなくてはいけないことがある。
「クマタン、よく見てみろ。この景色はまるで地獄のようじゃないか。美しく色付いた葉なんて一枚も残されて無いし、確かに上手く焼けた実もあるようだがほとんどが炭に近い。空気だって最悪だ。強烈な燻り臭さの中に肉の焦げた臭いが漂っている。これじゃあ料理の素晴らしさもクソもないぜ。正直に言うが、こんなところにいる位ならあの狭苦しいウサギ山役場で背中に意地悪な上司の視線を浴びて胃をキリキリいわしてる方が精神的に良いってもんだ」
「やっぱりあなたは」
「お前が俺との友情まで疑っているから言っているんだ。クマタン、お前はどうせ先週の金曜は昼からこうしてのんびり過ごしていたんだろう。そして何も知らずにスヤスヤと眠ってしまっていたに違いない。クマタンだから、とんでもないことが起ころうとも何も疑わずに幸せな夢を見ていたんだろう。そして今も夢を見続けているんだ。もう一度、あのウサギ山とこの地獄のように焼き尽くされたクマ山を見比べてみろよ」
お前がこんな炭の山に立ち止まり続けるほどのんびり屋さんだったとはな。
ウサギ山の麓でお前に会った時はそれはもう驚いたなんてもんじゃない。
あと一歩で腰を抜かすところだったよ。
この茶会は、てっきり別れの場だと思っていたんだ。
だから俺はお前のあとをついてここまで来た。
悲しくても、最後は付き合ってやろうと思ったんだ。
「クマ山は綺麗だったよ」
俺が言うと、クマタンは腕で涙を拭いゆっくりと辺りを見渡した。
そして呆けたようにあけた口からそっとこぼす。
「ああ、なるほど」
◆
彼がいなくなったテーブルで俺は不味い茶をもう一杯だけ飲み、山を下りた。
川まで戻った頃にはすっかり日が傾いてしまっていたが、構うことはない。
クマタンの言った通り、ちょっと迷子になっていたことにすれば上司も呆れながら許してくれることだろう。もしかしたら帰りが遅いことから既に何かしら察してくれているかもしれない。
俺が伝えることは決まっている。
ウサギ山に異常は見当たらなかった。
俺達の山は、先の山火事により一本の草でさえ燃えることはなかった。
幸運な大雨のおかげだ。
ただ一つだけ、気になることはある。
それだけは上司よりさらに上の兎へ世間話程度に伝えておいても良いだろう。
キツネ山もクマ山もそれは大きな被害を被ったには違いないが、どうやらキツネ山では役場を中心として早くも復興が進んでいる状態であるらしい。
確か火元はキツネ山であったと記憶しているが、クマの一頭ですら残らず焼き尽くした大火事の被害を考えれば、我々ウサギほどではないにしてもキツネ達もなかなかの運に恵まれたと言えよう。
とにかく明確な事後対策が求められる。
そのためにはもう一度、現場での調査が必要であるだろう。
どこから火が上がり、どのように燃え広がったのかも含め……。
しかし、何やら俺がやる気を出したと不思議がられても居心地が悪い。
上にはあくまでも世間話として話すのだ。
ちょっと気になったのですが、と。
それにこの辺りの風向きは時として移ろう。
火の回りも常に同じではないのだろう。
「常に同じでは……」
川のほとりへ影を落としたクマ山を、俺は見上げた。
お読み頂きありがとうございました。