赤色レモン
「何やってんのよ! このバカ息子」
母親は、地球上で最も強い人物だ。体力旺盛二十二歳の身体は母親のビンタ一発で宙に浮く。宙から見る景色は地上から見る景色とは違う。部屋は思っている以上に狭い。ソファーの汚れは目立つ。窓ガラスから差し込む昼の日差しは冬でも強い。などと思っている間に、顔面から床へダイレクト着地。ツンと痺れる鼻の痛さにヨヨヨヨと膝を崩しくすんくすんと嘘の涙を拭う。そんな息子の猿芝居を母親が見抜くのはエロ本を探し当てるより単純だ。今度は脳天直撃鉄拳制裁が本物の涙を引き出した。
「何するんだよ。大切な頭に」
「大切な事すら覚えられない豆腐以下の頭が大切なわけなかろうが! このダアホ」
母親の言葉と手は同時だった。「ちょっと」と息子が口を開けば「馬鹿息子」と一言を載せビンタを返す。
右へ左へ。振り切れる息子の顔から珠の涙が一粒二粒と零れ落ちた。
出来の悪い昭和のホームドラマを彷彿とさせる光景。論理的に攻め込もうとすれば母親の伝家の宝刀「母ちゃんに口答えするな!」の一言で真っ二つ。まともな反論も許されず、罵声のボディーブローがメンタルを削っていく。反撃は一切許されない。口も体力も母親より下のか弱い息子が出来るのは、「こんちくしょー!」と心の中で尖り声を出すのみである。
呼吸を整え、彼女は息子に問いた。
「あんたね、母ちゃんが何って言ったか覚えてる?」
母親と顔を合わせて何回目の言葉であろう。いい加減聞き飽きている。心の中でブツブツと文句を漏らし、床を睨みつけ母親の問を一度黙殺した。
「ねぇ!」
ドスの聞いた声に身体が反応した。身体は正直である。
「カグヤが戻ってくるから空港に迎えに行けって……」
この答えも何度目であろう。チラリと顔を上げると、母親はわざとらしいため息をつく。
「そうよ。お盆の時にカグヤ君が日本に戻って来るって聞いて、何って言ったか覚えてる? 『オレが迎えにいきまぁす!』って言って。それで母ちゃん、あんたにカグヤ君の変える時間とかを言ったよね」
「……」
光成は沈黙する。納得がいかない表情を浮かべると、母親の感情はヒートアップした。光成は頭を下げ、必死に嵐が去るのを待つ。その間、彼は母親とイトコの話を整理した。
(増見 光成にはスペインに住むイトコ カグヤがいる)
視線だけ、母親の背後で膝を抱える青年を見る。彼がカグヤである。
(そして、俺は、お盆の時、カグヤが帰国するなら迎えに行くと言ったらしい。その帰国日は昨日)
可能であれば、スマホで母親との連絡を確認したかった。もしも、連絡がなく、母親に落ち度があったと指摘すれば、来月の仕送りは確実に止まるであろう。
上げた視線を機会に、彼は自分の部屋を見る。そこにはあるべきものが無い。海外からの帰国。大きな旅行鞄が一つ 二つあってもよいが、カグヤの私物は小柄のリュックサック一つのみ。旅行といえば大荷物を抱える光成には信じられなかった。
「ねぇ光成。もう一度聞くけどさ。アンタ昨日何してたわけ?」
思考を遮るように母親は口を開く。彼は顔を上げ、口を尖らせ答えた。
「何って。フツーに学校行ってバイトして――」
「そして、飲み屋で飲みつぶれて帰ってきたの? 大切なイトコが帰って来るそんな日に」
母親のヒステリックな口調に光成は閉口した。
確かに帰宅方法が思い出せず便器を抱いて寝ていた事は何度もある。深酒で救急車一歩手前という事はザラだ。しかしながら、そこまでに至る時は気心の知れたクラスメイトと一緒だ。光成は、友人と話せるから酒がすきなのだ。友人と話せない酒に興味は無い。
だから、一人で居酒屋に行き部屋の前で酔い潰れていたと聞いた時は「ありえない」と二人に言った。母親は光成に拳骨を入れたが、二人とも「光成は玄関先で潰れていた」と証言する。
(でもありえないんだよ。母ちゃん。俺は絶対に一人で外で酒は飲まないし。ましてやバイト帰り。電車に乗って帰るのになんで……)
光成は自分の性格に鑑み、この事実はやはり「ありえない」と認定した。
(第一、そんなんなら二日酔いになってるはず。昼過ぎで寝起き。二日酔いにもなってないなんて)
ありえない事ばかりが生じている。この状況下において「カグヤを迎えにいかなければならなかった」点については信頼性に疑いの余地がある。それに加え、カグヤというイトコが存在する事実についても俄かに信じられなかった。
「ねぇ。光成あんた――」
「オバサン大丈夫」
光成の頭上で風が吹きすさぶ中、救いの手が差し伸べられた。
「俺、こうしてコーナ兄ちゃんの家に来れたから大丈夫。心配しないて」
カグヤはニッコリと笑い母親の肩に手を置いた。
「オバサン。俺の事もだけどコーナ兄さんの事が心配だったんでしょ?」
「それは……」
「俺もビックリしたよ。ドアの前でコーナ兄さんが倒れてて。オバサンとコーナ兄さんをベットに運んで。オバサン、コーナ兄さんの手をずーっと握っていたじゃない」
母親はじっとカグヤの顔を見つめ「そうね。そうね」と言葉を繰り返す。棘棘しさが和らぐ母親の口調。「びっくりしたわ」と呟く彼女の言葉に光成の心が傷む。
もしも。彼らの主張が正しいとすれば謝罪すべきは自分だ。と彼は思った。母親がポツリポツリと光成の思いを語るたび、自分の手を握り心配する母親の姿が思い浮かぶ。倒れていた自分を見てどう思っただろう。その時の事に思いを馳せるだけで鼻の奥がツーンと沁みる。忘れかけていた家族の優しさ。それを思い出させたカグヤ。光成の中で「家族の絆を思い出させてくれたんだ。カグヤはイトコかもしれない」と天秤が大きく傾いた。
「確かに怖かったわ。光成にもしもの事があったらと思っただけで」
「オバサン……」
「でもね。それはそれ。これはこれ。光成はお酒に失敗して貴方に迷惑をかけたのは事実よ」
「迷惑だなんて。父さんからオバサンの住所を教えてもらったし、荷物も多くなかったから。問題ないです。」
「いいえカグヤ君。これは大切な事よ。男たるもの、出来る約束も果たさず深夜に酒に溺れて地に伏せる。このアホの所業。私、……絶対、許さん」
再び母親の口調に棘が戻る。カグヤは母親を宥めるミッションに失敗した。失敗の代償は光成に降りかかる。剣山の上に正座しなければならない状況に戻った事で、光成の頭から情熱が引いていく。「カグヤは本当にイトコなのだろうか」この疑問を再び自分に問いかけるのである。
「光成」
母親はギロリと息子を睨み、彼に近づいた。再び殴られると思い、彼は身を竦めた。
「あんた、どうしてこんな事をしてしまったの?」
「えっ」
耳元で囁く母親の顔を彼は見た。
「アンタが、こんな失敗をするなんて信じられないし。酒で潰れて昼まで寝続けるなんてことも考えられない」
その口調は息子の失敗を失望する口調ではなかった。その失敗自体が「増見 光成」という人間にはありえないと言いたげだったのだ。息子の性格を理解している母親故、被害者の前ではキツイ口調で責めたてる。だが、内情は「理解に苦しむ」母親のフォローがあった。
「アンタは、そういう子じゃないって事。母ちゃんは知ってる」
後者については胸がズキンと痛んだ。母親は他人の前で夜叉を演じただけで、無理解ではない。光成はおそるおそる口を開く。
「母さん、一つ聞いても良い?」
彼は目の前にいる母親に質問した
「カグヤって誰?」
「えっ?
彼女の顔にサッと影が走る。瞼は瞬きをするのを忘れて見開いたまま。顔は硬直して時が止まったようだ。ただ、「ミィ」と玩具のペットのような鳴き声が届くと彼女は息を取り戻す。ヘッと息を吸う音と共に、瞳に光が戻った。
「何言ってるの。アキヒロおじさんの子供よ」
母親の答えを息子は反芻した。
アキヒロおじさん。父親の弟である。
数度しか会ったことは無く、特に印象も無い。独身と聞いている。影の薄い人だが、カグヤは人の印象に強く残る人間だ。
身長は百八十センチを超えている。身体の線は太くもなく、細くもない。垂れぎみの目はあの穏やかな口調を表している。染めているのだろう。髪の毛の色は金髪に近い茶色で瞳も同じ色をしている。母親との会話を見る限り、温和な性格をしているのだろう。その一点のみが没個性的なオジとの共通点である。それ以外、何も似ていない。これだけ似ない親子はあるのだろうか。考えれば考えるほど、彼がアキヒロおじさんの息子であるとは信じがたい。
(カグヤ……。一体何者なんだ。コイツは。本当にオレのイトコなのか?)
光成の不信感を見透かしたようにカグヤは口を開いた。
「コーナ兄さん」
「何?」
「俺、本当にコーナ兄さんの部屋で生活しても良いの?」
見ればカグヤは今にも泣きそうな顔をしている。その表情を見るや否や母親は肘鉄を息子に叩き入れ、う゛ぐっと情けない声をひねり出させた。
「俺、迷惑だったら……」
「いやいやいや。迷惑とかそんなの全く無いから!」
「でも、俺の事を忘れていたでしょ?」
「……うぐぅ……」
カグヤの潤んだ目が光成を捉える。
頭の中で「泣ーかした泣かした。カーグヤを泣かした」と母親の声が反芻する。冷静になるべくカグヤから目を逸らそうとしたが、薄茶色の虹彩は光成を捉えて離さない。彼の目は言葉とは反対に「助けて」と希う。その感情に触れただけで光成の弱い心はあっという間に罪悪感で塗りつぶされていった。あれだけ「本当に自分は酔いつぶれたのか」「カグヤは本当にイトコなのだろうか」と考えていたのに、小動物のような目に囚われてしまえば最後。もう彼の思考は「カグヤを住まわせる」か「否」かである。
(もしもカグヤを外に放り出してみろ。こんなか弱いイトコなんざ瓜破連続失踪事件の哀れな被害者になってしまう。そんな事、年長者のオレがしていいんだろうか。オレを頼ってスペインから日本にやってきたカグヤを犠牲にするだなんて。男が廃る!)
庇護欲をそそる弱々しい目つき。光成の決意はほんの数秒で固まった。カグヤの哀れな未来を回避すべく、口を開いた。
「いいよ。カグヤ」
「えっ?」
光成はカグヤに近寄り、膝を抱える彼と同じ目線に腰を落とした。
「お前の面倒を見るって言ったんだ。お前が落ち着くまで。お前が納得するまでここに居ろよ。なっ」
カグヤの頭に手を置きワシャワシャと髪をなで上げる。柔らかい毛は空気を含み、膨らんでいく。カグヤはくすぐったそうに笑みを浮かべ「良かったぁ」と安堵の言葉を口にする。
「本当に良かった」
目を細めて笑うカグヤ。その笑顔は形をなくした朧げな春の月に良く似ていた。