☆血と月に花束を
身体が凍えるほど寒い。寒さで彼は意識を取り戻した。分厚いジャケットを着ているが、服の隙間を通り抜け、寒さが突き刺さる。このように寒い中で横たわるのは、幼い頃、遊園地であった、氷点下二十五度の世界なるアトラクションの氷の上。それ以来のことである。けれども、この寒さは人工的な寒さではなく、生理反応を伴う優しい寒さであった。
「おい。大丈夫か?」
光成の顔を覗き込むように、怖い顔が飛び込んだ。「ひぃ」と叫ぶ声は上がらない。声のかわりに、遠くで救急車のサイレンが鳴り響く。光成は目だけを動かすと、青年は光成から顔を背けた。
光成はその姿を見て、死の淵にいた者は薄氷の上を歩いている事を実感した。適切な場所へ運ばれ、おそらく適切な処置を施されることだろう。それだけで、彼は満足だった。
「本当に悪かった」
「何を今更」と言ってやりたがった。けれども、この男も中年男性を救ったのだから。と思い何も言わなかった。安堵し、「ふぅ」と大きな溜息をつこうと思ったが、話は予想しえない方向へ舵を切った。
「お前、もうすぐ死ぬんだ」
思い瞼が爛と見開かれた。「死ぬ」この言葉を耳にした時、「わけがわからないよ」と動揺する気持ちが湧き立つ。落ち着きをなくす心とは対照的に身体は冷静であった。凍える寒さ。一方、身体の一部は温かい。その部位に触れると、ミチャッと水音が響く。見ると、手は真っ赤に染まっていた。
この傷の正体を思い出す。正常であれば、彼の顔は手の色と々色であっただろう。
クラクラと気が遠くなる。貧血症状。この凍える寒さは、出血を伴う体温低下。などと冷静に分析しているもう一人の自分もいる。
「惑いの竹林に招き入れたのはオレのミスだ。本来なら、お前をこの場から追い出すべきだったんだが、本当に――」
言葉に詰まる男。光成は肩を浮かせ、血でぬれた手で男の胸倉を掴む。掴むといっても、軽く握る程度だ。口の端から泡を吐き、残された力で彼に言葉をつけた。
「イ……ヤダァ」
まぎれもない本心。死はいずれ受け入れるべきものだが、今、この時点で受け止める気などさらさらなかった。彼には、遣り残したことがある。そして、彼には何故、自分がこのような目にあったのかを知る権利もある。
死ぬには早すぎる。人間の「生」への本能は、光成が思っているよりしぶといものだった。
「イ……キタ……イ。オ、レ、ィキテ……――ナぁ」
光成は自分の顔を若者に近づけた。すると、若者は不思議な事を口にした。
「お前、本当に生きたいか?」
若者には最初に見せた凶暴性も、先ほどまで漂わせていた、すまなさそうな表情もない。湛える表情は、いうなれば神秘。神に祈りを捧げる敬虔な神父表情に近い。
光成は神父に縋りつく。早すぎる死の回避と、目の前にいる男の神秘・秘匿性を暴く為。叶えられる願いであるのならば。と、首肯の代わりに微笑で答えた。
若者は天を。月を見上げた。目を大きく開き、茶色の虹彩を輝かせる。白いウサギが天を仰ぎ、月のウサギに希うよう、この男は月に希った。月の光は、彼に降り注ぎ、光の粒子は神託を告げる。彼は、瞬きをし、大きく頷くと、再び光成の顔を見た。
「いいぜ。その願いこのカグヤ様が聞き入れてやる」
そう言うと、男の後ろで月は爆ぜた。
天にかかる紅い月。
月は輪郭を失い、固体から液体へと変化し、トロトロと蕩けだした。空と地。絶対的な距離を無視して、赤い液体は、カグヤの背中に注がれる。
カグヤの茶色の瞳が一際強く輝きを放つ。自分の舌を噛み千切り、口腔内を己の血で満たすと、増見 光成の口へ注ぎ込んだ。上手く飲み込めず、口の端から血の筋が零れ落ちるも、カグヤは、あらんばかりの己の血を光成に注ぎ込んだ。
二つの影が一つに交わる。
増見 光成のファーストキスは血の味がした。