ヤンママのスッピン
男は少女の気持ちに気づかない。
少女がどれだけ言葉を尽くしても、笑顔を浮かべて曖昧に流してしまう。
彼の視線と気持ちは自分を見ているはず。と思っていた少女は、彼の視線と気持ちは自分を通り過ぎ、ここではないどこかへと向けられていることに気づいている。たとえ十四歳といえでも、彼女は光成と自分の中に大きなズレがあることに気づいている。けれども、彼が何を見ているのかがわからなかった。その正体は大人になれば気づくのだろう。そう考えると、自分はまだ幼いのだ、と痛感するのであった。
「おらぁ! こーなぁ! やって来たぞぉ! 俺だ!」
荒ぶるカウベルの音。ドンっあけ放たれる扉の悲痛な叫び。荘厳な空気を切り裂くようなドスの聞いた声を耳に、玲奈は思わず振り返り、光成は頭を抱えた。
太陽を背にして立つ長身の男。ズボンはジャージ。赤い長袖シャツにヒョウ柄のジャケットにクロックスサンダル。茶色の髪も、光の具合でもはや金色にしか見えない。
ポケットに手を突っ込み、他人を高みから見下ろす。人を威嚇するその風体はまさしくヤンキーそのもので、ムヘルナが選ぶ客層とは真逆の人物だ。
不逞な輩のカグヤは店員達の警戒する視線に気づくことなく、ドスドスと足音を響かせ、光成達が座るボックス席にやってきた。
「オイ、コラ、テメェ、馬っ鹿じゃねぇのか? 財布を忘れるなんてよぉ。俺はてめぇの小間使いじゃねぇぞ。このクソが」
そういうと、テーブルの上に長財布を放り投げた。
「あーはいはい。悪かった。それに関しては本当に悪かった。けれど、その態度と言葉遣いはどうにかしてくれ。こっちが恥ずかしいよ」
「うるせぇ。テメェには感謝とか反省の気持ちとかねぇのかよ。悪ぃと思ってるんなら、何か食わせろよ」
カグヤの視線は光成から玲奈の前に置かれた冷えたアップルパイに向けられる。鋭い眼力に、はねっかえり娘の玲奈は何も言えない。
けれども、顔にうすらで滲みでる食べてみたい。という物欲しそうな目がヤンキーには似合わないのでちょっと面白かった。
彼女はおずおずとおびえるようにカグヤを見上げ、声をかけた。
「あのぉ……。コレ、まだ手を付けていないのでよろしければ……」
ほんの一瞬、カグヤの顔がパァと明るくなった。けれども、すぐに先ほどまでの厳めしい顔に戻ってしまう。
「いらねぇよ。てめぇのもんだろ。てめぇが食え。ただ、まぁなんだ。その気持ちだけはありがたく受け取っておくよ」
「カグヤ、お前――」
「うるせぇなぁ。こーな、奥行けよ。俺が座れねぇだろ」
カグヤは、顎をしゃくり、目顔で奥に行くよう促す。
光成は財布をズボンのポケットにねじりこむと腰を浮かし、席を詰めた。必然的に玲奈の前に座るのはカグヤになる。
カグヤはマジマジと玲奈の顔を見て
「てめぇが玲奈ちゃんか?」
と低い声で質問をした。彼女は「そうです」と肯定すると、どういうことか、と視線を光成に向けた。ギクリと体を震わせた光成は、やや前のめりになり身振り手振りをまじえて説明を始める。
「あ、あのね。コイツはカグヤ。おれの親戚で……。ほら、前に言っていたスペインから戻ってきた親戚。で、今はおれの部屋に下宿しているんだ」
ねっ、と強調するようにカグヤに言葉を向ける。彼は頬杖をつき、黒目のみ動かすと面倒くさそうに「 ¡Hola!」と反対の手で挨拶をした。悲しいかな。きさくな挨拶のの発音はヤンキー特有「オラァ」にしか聞こえなかった。
「本当にいたんですね。親戚の人。しかもカグヤって……」
「そうそうおじさんが変わり者でね」
カグヤの身上を説明している最中、あの不機嫌な店員がやってきた。銀のトレイに乗っているのは湯気の立つ自家製コーヒー。光成達の前では見くびったような態度を取っていたのに、今では、蚊の消え入るような声で「ご注文のお飲み物をお持ちしました」とコーヒーを差し出した。
「あ、姉ちゃん」
カグヤは背もたれに体を預け、口を開いた。
彼女は体を震わせ恐々とカグヤを見る。彼女の目には、目の前にいる男が小動物を甚振る凶暴なワニにしか見えなかった。
「レイコ頼むわ」
「れ……れいこ? ですか」
店員は目が点となりカグヤを見つめる。ただ、彼の機嫌を損ねまいと必死に、彼のオーダーを注文用紙に記載する。
そして言葉の意味を知る光成は身を乗り出し、声を重ねた。
「レイコキャンセルで! つ、冷たいコーヒーを一つ」
「んだよ、コーナ。しゃしゃり出やがって。レイコで通じるだろ。んなもん」
口をとがらせるカグヤを光成は無視し、クロックスの上から力強く足を踏みつけた。「いてぇ!」と叫ぶ彼をよそに、「以上です」と店員を逃すのであった。
「あのぉ……。こーな先生」
三人のやり取りを見ていた玲奈が口を開いた。
「ん? なに?」
「その……。レイコってなんですか?」
光成はカグヤを睨むとヒソヒソと声の音量を下げて説明を始めた。
「レイコは、冷たいコーヒーの略。冷たいは『レイ』って読めるから、レイコ。でも、上品な言葉じゃないから、人前では使っちゃだめだよ。」
光成の説明にカグヤは身を乗り出して文句をつけた。
「んだよ、こーな。てめぇの言い方だと俺が上品じゃねぇみてぇじゃねぇか」
「どこが上品なんだ。だいたい、そんな格好してヤンキー丸出しだろ。というか、大体その言葉どこから仕入れたんだ」
「うるせぇ。俺はガキじゃねぇよ。一から十までてめぇに教わるつもりもねぇし、俺だってなぁ、勉強ぐらいするんだよ。レイコぐらい身につくさ。っつーか、レイコ一つでガタガタ上品下品とか文句言うな。ケツの穴の小せぇ男だなぁ」
カグヤは忌々しく吐き捨てると、ジャージのポケットからジッポーとタバコを取り出した。箱を叩き吸口に顔を寄せたところで、壁に貼られた「店内禁煙」の文字に気づいた。禁煙の文字を鋭く睨みつけると、タバコをポケットの中にねじりこんだ。
「くそったれ。こーな、今度、茶をしばく時はタバコが吸えるとこにしろよな。茶をしばきてぇのに、タバコが吸えないとか拷問か?」
「そういう時勢なんだよ。あと、カグヤ、茶をしばく。とか玲奈ちゃんの前で言うなって。下品だろ」
「だーかーらー、上品も下品もねぇだろ。俺の前じゃぁ。っつーかよぉ、このガキがたいそうなガキか? どっかのお嬢か?」
カグヤは玲奈を顎でしゃくる。「違うだろう」と言葉を重ねる彼に、光成は一言「レディだ」と返した。
彼女の身分はその制服を着用している以上、誰も否定できない。
「こ、こーな先生」
彼女はマグカップを両手でも唇を濡らした。ほろ苦い味を隠すように笑顔を浮かべる。
「私、びっくりしました」
「ごめんね。カグヤが野蛮で」
「ち、違います。なんというか……私って、自分が思っている以上に偏見で凝り固まってる。って思い知らされました」
「どうして? 玲奈ちゃんはまだ十分に柔らかいよ」
光成と玲奈の視線が重なった。彼女はわずかばかり目を開き、ユルユルと首を横に振った。
「私、前からカグヤさんの話を聞いて、カグヤって名前だから女性なんだろう。ってばかり思ってました」
「仕方ないよ。日本でカグヤと言えば、かぐや姫が連想されるからね」
「そうです。そこが偏見なんです。女だ、っていう決めつけは男性のカグヤさんにとって失礼なことだな。って思って。あぁ、私はとんでもない偏見を持っていたって……」
そういうと、彼女はカグヤに「ごめんなさい」と頭を下げた。いきなり頭を下げられたカグヤはポカンと口を開ける。光成は彼女の繊細さに口を閉ざした。
「あと、こーな先生の親戚だから、カグヤさんも温和な人だろう。って思っていたです。でも、びっくり。まさかヤンママのスッピンみたいな人だとは……。人って、環境で大きく変わるんですね」
「ヤンママのすっぴん……」
玲奈のたとえを口の中で何度も繰り返し、視線はカグヤへ向いた。
明るい茶髪にジャージ姿。足元はクロックス。攻撃的な目と細い眉。口を開けば鋭く黄ばんだ歯が見え隠れする。体の線も細くない。女と見間違うことはない。だが、不思議と大衆イメージのヤンママ像が似合ってしまう。
「ヤンママのスッピン」
光成の頭で想像が出来てしまう。
ママチャリの前と後ろに幼稚園の息子――なぜか後ろ髪だけが長い――を乗せ、般若の形相で子供にわめきちらし、爆走するヤンママカグヤの姿。
見える。見える。と思った瞬間、吹き出してしまった。
「カグヤがヤンママの――スッピンンンンン」
まさしく文字が如く腹を抱え、机に突っ伏して爆笑をしていた。
「カグヤがヤンママのスッピン! れ、玲奈ちゃん、すっ、すごっっ。すごいよ。天才。天才だよ! ヤンママのスッピン! ウケる。やべぇ。マジやべぇエエエエヒヒヒッ」
光成の笑う姿に玲奈もつられて笑った。ようやく繋がった自分と彼の気持ち。ヤンママのスッピンという俗な言葉で彼女の心の澱が少しだけ溶けていく。
「んだよ、ソレ。わっっかんねぇなぁ」
一人ポツンと置いていかれたカグヤ。彼は不服そうな顔で、玲奈に見えぬよう光成の脇腹に鋭い肘鉄を叩きこむ。
逆流する空気に違う意味で光成の体が震えた。
「でも、俺が馬鹿にされてるっつーんだけは、はっきりわかってるからな」
そういうと、もう一度同じ箇所に肘鉄を叩きいれるのであった。




