桃色ドロップ
「玲奈、これからが勝負よ!」
玲奈は純喫茶ムヘルナの前に立ち、控えめな胸を高鳴らせていた。
サントクリス学園則 第十四条 寄り道をする際は理由を明示し、担任教師に寄り道届を提出すること
彼女は学園則に反し、ムヘルナに訪れている。
あぁ。なんと自分は罪深いことをしているのか。と胸の中で十字を切るも、馬鹿真面目に寄り道届を申し出たとしても、担任教師は決して彼女の寄り道を許可しなかった。ムヘルナで家庭教師とお茶をします。などと言えば、彼らは目を釣り上げて異性不純交友だ。声高に彼女を叱責しただろう。許可されない寄り道届を提出して何の意味があるのだろう。いや、ない。だから、寄り道届を提出しなかった。対学園への言い訳を自分の中で確立させた。
一方、もう一つの問題が彼女を悩ませている。
それが、純喫茶ムヘルナの強烈なこだわりだ。
ムヘルナは各駅停車しか止まらない閑散とした商店街の近くに居を構えている。まっとうな経営を望むのであれば、看板の一つでも立て、客を呼び込むのだが、この喫茶店はそのようなことはしない。古びた西洋風の外観とドアに溶接した「ムヘルナ」の金属プレートのみを目印にしている。気づく者が気づけばよい。客を呼び込む気も健全な商売をする気もさらさらない。まるで、他人を拒絶する店。そのような偏屈っぷりを彼女は気に入った。
又聞きではあるが、店長も店に負けじと劣らず大変な風変りである。店の客層ではないと判断すると即刻退店を命じるらしい。客層の判断は店長の機嫌一つ。だが、年齢・性別・外見だけで判断することはない。少なくとも自分では変えることのできない事象で判断されないとわかった時、彼女は胸を撫でおろした。
とにもかくにも、純喫茶ムヘルナは孤高な存在だ。
人目をはばかりたどり着いた場所。モノ言わぬ喫茶店の圧力に足の震えが止まらない。
この喫茶店は、自分を客として扱ってくれるか。彼女だけではなく、増見 光成も客として認められるか。様々な考えが頭の中を駆け巡ったが、彼女は店の扉をえいや、と押した。
「そうよ! 迷ったって仕方がない。女は度胸。やってやろうじゃないの」
思い切りの良さが彼女の長所である。
カランカランと上品に鳴るカウベルと共に胸を張って店内に入った。
店内に入ると、穏やかなクラシック音楽と一緒に、コーヒーを焦がした甘い匂いが飛び込んできた。香ばしさの中に苦味を感じる。大人の香りだ。と思い、彼女は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
ほろ苦さと共に陰湿な視線が刺さる。視線をたどると、レジカウンター内に母親と同年代の神経質そうな店員がいた。サントクリス学園の制服をジロジロと無遠慮に睨んでいる。
「あの……」
玲奈の問いかけを無視して、そっぽを向いた。店員からの明確な拒絶。
だが、退店は命じられていない。
彼女はムヘルナの客として認められたと感じた。感情は思考を飛躍させ、自分が実年齢よりも大人の女性として認識されたとまで錯覚させる。
心は踊り、成長した女の自分を味わうように店内をゆっくりと歩く。ワックスのかかった焦げ茶色の床板に新品ローファーの足音はタップダンスのように響く。自分の存在を知らしめるように奥のボックス席に向かった。
時代を感じさせる大型のレコードプレーヤー。
流れるのは雑味のある音。音楽の授業で聞かされた「美しき青きドナウ川」だ。
店内の一番奥。アンティーク調に仕立てたベルベットカラーのソファーにもたれかかり光成はいた。
普段はかけることのない時代遅れと揶揄されそうなラウンド型黒縁のメガネを着用し、白シャツに黒いネクタイ。分厚い文庫本を熟読していた。
大人の男性がいると彼女は思った。授業中に見せる頼りがいのない表情とは違い、繊細で、知的で凛とした空気を漂わせている。店内の落ち着いた雰囲気に彼はふさわしい。センスの良い写真を見ているで、いつまでも見つめていたかった。けれども、そうはいかない。
彼女は物音を押し殺し、彼の正面に座った。
「こーな先生っ」
言葉を吐息に乗せて彼の名前を呼ぶ。
彼は黒目だけを動かす。声を追いかけ、玲奈がいることに気づき慌てて本を閉じた。
「れ、玲奈ちゃん? い、いつから?」
彼女はいたずらっぽく笑うと、彼を制するように人差し指を突き出した。
「大声を出しちゃダメですよ。こーな先生。ここのマスターは客を選ぶことで有名なんですから」
「え、えっ? そ、そんな店なの? ここ」
「そうですよ。だから、大声を出さないでください」
光成は首をすくめ店内をぐるりと見渡す。時間帯は昼から夕方に移行しつつある。喫茶店特融の常連客も、時間潰しに来たサラーリーマンの姿はなく、この店にいるのは先ほどの光成のように、本とコーヒーを愛する数名の客だけであった。
「ご注文は?」
先ほどカウンターにいた不愛想な店員が注文を取りに来た。光成は自家製コーヒーの追加を頼み、玲奈もそれに習った。店員は、関係性を探るように不審な視線を注ぐ。光成は慌てて「彼女は家庭教師の教え子です」と弁解し、追加でアップルパイを注文した。
店員はまだ納得しないようでメモを取ると二人に背を向けた。
カウンターから身を乗り出してこちらを見るマスターに何かを耳打ちすると、二人はキッチンの中へ消えていった。
光成は諦めたように視線を玲奈に戻した。
「それにしても、玲奈ちゃん、このお店良く知ってるね。オレは全く知らなかったよ」
「有名なんです。このお店」
「へぇ……。雑誌とかで取り上げられた……とか?」
光成はわずかばかり底に残ったコーヒーを見つめグイッと飲み干す。乏しい舌ではコーヒーの繊細な味を理解出来なかった。
「口コミで有名なんです。そもそも、このお店が雑誌の取材を受けると思いますか?」
「うーん……。確かに」
口コミかぁ。と彼は彼女の言葉を繰り返した。
「はい。口コミで有名なんです。私も行きたくて行きたくて……」
「友達と来たことないの? 放課後、友達とカフェに行くって、青春ってカンジがするけれど」
「ゆ、友人と来たことはありません。制服のまま喫茶店に行けば校則違反になって高校進学の内定が取り消されるかもしれないから、怖くて行けないんです。本当は、私も怖いけれど……。お、大人のこーな先生と一緒なら、こ……怖くないかな? って……」
玲奈は顔を伏せスカートを握りしめる。
純喫茶店ムヘルナが口コミで有名なのは、サントクリス学園内においてである。
学園にはこんな言い伝えがある。
好きな人と初デートをムヘルナに行けば、未来まで幸せに結ばれる。
馬鹿らしいと一蹴される内容なのだが、温室育ちの彼女たちには美しく魅力ある言い伝えだ。上級生の恋が実った。という噂まで流れている。
玲奈は増見 光成に恋をしている。未だ経験したことのない恋愛や恋人、接点の少ない男性への憧れ。様々な感情が混同しているという指摘もあろうが、彼女は、彼に意識を向けるだけで胸に甘い痛みが広がるのを感じている。そして、その痛みを恋だと認識したのだ。
不愛想な店員が銀のトレイに湯気の立つアップルパイを乗せてやってきた。
甘い香りと、常日頃感じる胸の痛みは似ていると彼女は思った。
「あの……。こーな先生」
「なに?」
「も、もしかして、他の人から見たら、私とこーな先生がふたりっきりでいるのって……」
不愛想な店員の顔が更に渋くなるのを光成は確かに見た。アップルパイはトレイに乗せられたまま高々と掲げられている。
「で、デート、ですよね」
机の上に落とされるように置かれたアップルパイ。店員の鋭い視線はまっすぐ男に向けられる。「このロリコンが!」「警察呼ぶぞ!」「くそヘンタイ!」と汚物を見る侮蔑の表情に、彼は思わず息を飲んだ。
「ち、ち、違うよ!」
否定の言葉は、玲奈ではなく店員に向けられた。視線が自分ではない他人に向けられたことに、少女の胸に鈍い痛みが走った。