☆赤い月の下
どれだけあるいただろう。アプリは光成の歩みにあわせ、画面上の依代をまっすぐ歩かせる。目的地までの距離も減ってきている。だが、彼は「目的地に向かっている」という実感は全くなかった。表示どおりの距離ならば、電車の振動を伝える音がかすかにでも聞こえてよいはず。だが、そのような音は届かなかった。
先ほど通り過ぎたブロック塀の模様は見たことがあった。電柱に張られている消費者金融のチラシは何枚目だろう。グルグルとその場を回るカタツムリのように光成は歩いていた。正確に時間の流れを示すのは、一,一,一と減っていくバッテリーの残量のみである。
あぁ。自分はこんな場所で一人っきり。と思っていると声がした。
「やっ。やっ――やめてくれ!!」
助けを請い咽ぶ男性の声がはっきりと聞こえた。顔をあげ、辺りを確認していると再び男性の「痛いっ」と叫ぶ声がした。
光成のスマホを持つ手が震える。こうして立ち尽くす間、彼の耳には暴力に怯え、痛みに喘ぐ悲痛な声が届いてくる。
(や、やばい。どうしよう)
外見通り、増見 光成は暴力に抗う力は無い。つい先日も同級生の女性に腕相撲で負けたばかりである。腕っ節にはネガティブな意味で自信があった。
「や、やめろ。やめてく――あああ――」
男の叫び声が途中で途切れる。暴漢は、男を嬲り続けているらしい。暴力に酔いしれる声も罵声も浴びせない。ただただ淡々と被害者の無残な声だけを響き渡らせている。現代を生きる鉄面皮の拷問師。そのような事を連想するだけで、光成の身体に悪寒が走った。悪寒は、正常な判断力を低下させる。一般人であれば、非常時には警察を呼ぶ。という選択肢を選べるのに、彼はそれすらできない。
彼は、傍観者として今起こっている事を頭の中に刻み込むのみである。
男の絶叫が止んで少しの時間が経った。「もしかして死んだ?」と不吉な事を予想していると、光成の右手側。真っ暗な路地からナニカが彼を飛んできた。ソレは、バウンドもせず、弾丸シュートのように一直線。光成の背後にはゴールネットの代わりにブロック塀が鎮座している。ゴールキーパーは動けず、ボールは横切った。揺れるネットもホイッスルも何も無い。ただ、無常に、ソレはブロック塀に叩きつけられた。
(一体何が……)
ブロック塀から轟く山鳴りのような地響き。土と砂が混じった乾燥した空気が背を向けた彼の鼻にも届く。
一瞬、何が起こったか理解できなかった。男の絶叫が止んだ後、声の方向からナニカが吹っ飛んでくる。答えは決まっている。しかし、彼は現実を直視しなかった。
(ブロック塀の強度って支柱が入っていなかったらそう強く無いんだよなぁ……。ここらへん、なんか築年数経ってそうな家ばかりだし。支柱が入っているっていう望みは薄いかなぁ……)
などと考えている。
そもそもとして、光成は自分の横切ったものは人間とは思わなかった。
(コーナ知ってるぅ! サッカーボールのように蹴られて、おまけにブロック塀に叩きつけられた人間。無事なわけないじゃーん。)
ぐわんぐわんと思いエコーが耳の中でかかり続けている。聴力は一時的に低下している。カラリカラリとブロック塀の破片が落ちる音すら、拒絶している時だった。
「た、助け――」
衰えている聴覚であったが、その声ははっきりと聞こえた。人が生きている。死んでいると思っていた人間が生きているのだ。
光成は振り返った。土ぼこりの隙間から、確かにブロック塀に埋もれている人の姿が視界に飛び込んできた。
(生きてる)
そう思うと、彼は崩れたブロック塀に飛びついた。
咳き込みながら土ぼこりを手で払う。十歩もない距離だが、とてつもなく遠い距離に感じ、朧気と思っていた外灯はこの時ばかりは燦々と輝いている。
光成は口元を拭った。彼が目にしている現場は、まさに奇跡と呼んで良い。
人がいる。
ブロック塀の残骸に仰向けの上体で倒れこみ、弱弱しい呼吸を繰り返す中年男性。
光成はその場に座り込み彼の全身状態を確認した。
瞼は内出血で腫れ上がっている。
顔全体も無数の擦過傷。
腹部は激しく蹴られたのだろう。着衣は乱れ、反対側と比べ比較的マトモな折れた左手が激しい痛みを発する患部周辺を押さえている。
カエルのように開いた足は、一本だけ脛から出てはいけない白いモノが突き出ていた。
(どれだけ、酷い暴行を加えられたんだ)
光成は、男性の全身状態を見て、恐怖を覚えた。
(どんな気持ちでこんな事をしたんだ)
彼は、左手に自分の手を重ね「大丈夫ですか?」と声をかけた。
(なんで、こんなにしないといけないんだ)
何度目かの彼の声に、呻くような声が返って来る。意識が戻った。被害者の生存を目にした時、長い息を漏らし安堵した。人の生命力の強さに感嘆の吐息しか漏れない。
柔らかく脆い命の存在。少しの衝撃で消えてしまう命。光成達が守ることは勿論だが、ショックで自傷に走らぬよう阻止しなければならない。ショックに取り付かれないようにすればどうすれば良いか。
まず、激しい暴行を加えられた直後、他人を見たらどう思うだろうか。何が適切かを彼は知らない。
自分に何が出来るか。と考えた際、伝えるべきことは、「自分は決して害を加える人間ではない」「助けを呼びます」この二点であると結論付けた。後は、どういうべきか。切り出し方には勇気がいる。
言おう。言おうと唇に力を込めても、声は出ない。
声を出そうとしても、言葉は鎖骨あたりで突っかかり、うまく取り出せない。
彼もまた、混乱している人間の一人だ。落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸をする。
ヒューヒューと声が鳴る。飲み込む唾液は咽の表面に付着している薄い膜のような乾燥をバリバリと引きちぎっていく。
もう一度唾液を飲み込むと、先ほどのような痛みはもうどこかへ消えていた。
潤う咽。彼は、勇気を振り絞り、口を開いた。
「大丈夫ですか? 私の顔は見えますか?」
光成の声に被害者は首を縦に振る。
「良かったです。安心してください。今は、私しかいません」
被害者はほっと安心したようにもう一度首を縦に振った。
「今から救急車を呼びます。もう少し――」
救急車。その単語だけで、被害者の表情は一気に曇った。
「ダ、ダメ……だ」
「ダメって何がです? 救急車に乗らないと、死んじゃいますよ!」
スマホを持つ光成の手を男性は意外にも強い力で叩く。明らかに重傷人の力ではない。
「来るから」
「誰が?」と彼に問うより、常闇の路地からカタン カタンと足音が響いてきた。誰が来る。予想はついた。鉄面皮の拷問師。光成は振り向けなかった。麻痺していた聴力は都合が悪い事に回復し、方向感覚も鮮明になっている。遠くに響き渡る足音は少しずつ近くなり、反響もしなくなった。カタン カタンという足音は タン タンと地面を踏みしめる音になっている。音が一番近く 大きくなった時、彼はようやく振り向いた。
「てめぇ、そこで何をしていやがる」
青白い月は紅い月に変わっている。
おぼろげな月を背景に若い男が立っていた。
身長は光成よりはるかに大きい。180センチはゆうに超えている。
目尻は垂れ下がっているが、眉は薄く鋭い山を描いている。長い手足の明るい茶色の髪の毛。
夜の雲と同じ色をしたパーカーのポケットに手を入れ、二人を見下ろすその様は、弱者をいたぶる残忍な野獣。
「どけよ」
不良輩のいでたちをした男が発した声は、男性にしてはやや高い声だ。その傲慢な声に、光成の視線は彼の顔から外れる。殺気だった視線からずれると、ほんの少し観察する余裕が出来た。
高い位置にあるズボンの膝。その部分は土と血で汚れている。パーカーのポケット部分も血で汚れている。この男が、中年男を蹴り上げた人間であるのは自明の理。
「あ、貴方が、彼を?」
光成は具体的な事を言わなかった。
「そうだが、てめぇには関係ねぇ」
吐き捨てるような一言。彼は、否定しなかった。彼は、自分の行った暴行は一ミリたりとも悪い事だとは思っていない様子である。その態度に光成はカチンと来た。
彼は、医学部二年生。生と死を見つめ、健康で無事に生きている事は薄氷の上に立っている事と等しい。とつい先日習ったばかりだ。彼も講師の意見に賛成であり賛同している。
死の淵にいた人間が生に手をかけている。このような人間を見捨てることは出来ようか。いや、出来ない。人の生命力のたくましさ。「生きたい」という動物の本能。その命を「守りたい」という純粋な光成の願い。
大学でもない。借り物の白衣も着ていない。何かを着なければ、勇気を出せない男が、「守りたい」という願いだけで、胸の奥に押し込んでいた箍が放つ。こみ上げる勇気。ただ、一心。「守りたい」という思いが、彼に力を与える。
光成は立ち上がり、中年の男を守るよう、大の字に手を広げた。
若者は、その行動は意外だったようで酷く驚いたようだった。
「あなたは最低だ」
「あ゛?」
「どのような理由かは知りませんが、オレはここをどきません」
光成の一言にカチンと来たのは若者も同じようだ。顔は引きつり、自分の力を示すよう、地面に踵を叩きつける。ゴンと深い音の後、アスファルトの破片が中に浮く。反射的に「ヒッ」と這い出る声を唾液と一緒に飲み干し、光成も目の前の男を睨み返した。
「救急車を呼んでください。それを拒むのであれば、オレは貴方に抵抗します」
「抵抗ってなんだよ?」
「知ってるくせに」
彼の吐き捨てた一言に、若者は実力行使に出る。胸倉を掴み、片手で彼の足を宙に浮かせた。
「どけって言ってんだろ」
「どきません。オレにどいて欲しければ救急車を」
「うるせぇよ。なんだよ。ソレ。とりあえず、どけ。ソイツはなぁ――」
若者の飛沫が光成の顔にかかる。急所を蹴り上げてやろう思った時だった。
「それは、聞かせられませんよ」
それは背後から聞こえた。あの中年男性の声と思った時、光成の身体がジンワリと焼けるように熱くなる。熱源を確かめようと顔を下げると、脇腹から何かが顔を出している。
手だ。
真っ赤に染まった他人の手。“手”と認識できたのは、ウェーブを描く五本の指の動きを見たからだ。くるりと手首を返し、掌をこちらに見せる。むすんで ひらいて。 またむすんで ひらいて。赤く濡れそぼった手は「やぁ」と挨拶する代わりにその場で手を振ってくれた。
(ねぇ。なんで? 立てるの?)
「嬉しいですねぇ。疑似餌がいたことも。疑似餌に動揺した貴方も」
光成の身体から貫通していた手が抜かれる。ヌポッとドロから這い出したような音。クラクラと視線が揺らぐ。立つ事もままならなかった。込み上げる何かを堪える。そうこうしていると、脳天からゆっくりと緞帳が下りてくる。
(聞かなきゃ。何故動けるの? どうしてこういうことをしたのかって)
自分の問いに答えてもらおうと光成は手を伸ばした。しかし、落ちた緞帳はスピードを速め、ダンッと音を立て、増見 光成の身体はその場に倒れこんだ。
佳穂一二三様からカグヤのイラストをいただきました!