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ルナティック・ダンスホール  作者: はち
project.Hembra
29/38

切羽琢磨

 増見光成(ますみ こうな)は普段の頼りなさから想像できない程にピリピリしていた。目はすわり、背中を丸め机にかじりついている。

 彼は学期末試験最大の難関 プラクティカル・クリニカル・イングリッシュ(PCE)。を前日に控えていた。

 英語圏の患者を対象にした英語による医療対応云々の科目なのだが、彼はこの教科が一番の苦手としていた。

 一方、専門科目 例えば、生理学、発生学、細菌学、臨床解剖学等、何回であるが嫌悪はなく興味が勝っている。楽しかった。

 けれども、このPCEは興味を抱くことはなく、シュミレーションでは赤っ恥の連続で泣いてばかり。

 思い返せば一年生。外国語授業に頭を抱え続けていた。第一外国語の英語は大学受験の努力のおかげで単位をもぎ取った。

 第二外国語のドイツ語は、単位がゆるいと評判の講師相手でも「いっひりーべやーぱん」としか覚えきれなかった。単位取得困難。確信した彼は、シューベルトの野ばらのドイツ語歌詞を一夜漬けで覚え、回答用紙の裏に書き殴った。

「あぁ。この子はダメな子なのね」

 講師の広い度量と温情により、ドイツ語の単位を取得できた。

 さぁ、これで言語とおさらば。と思っていた彼にとって、OCEは伏兵、いや最悪の裏ボスであった。


「こーなー。腹減った」



 危険迫る思いで勉学に勤しむ彼とは対照的にベットの上ではいかにも治安の悪い男が大の字になり声をあげていた。


「死ぬぞー。俺は死ぬぞー! 空腹で俺は死ぬんだー。ふざけんなぁ! こぉなぁ!」



 長い手足をばたつかせ、「腹が減った」と繰り返す。時計は夜の九時を示している。

 夕方六時三十分に起床した彼は、寝起きにシャワーを浴び、煙草を吸い与えられたスマホで動画を見て、グゥゥと悲痛な腹の音で自分は食事にありついていないことに気づき今に至る。


「死ぬぞー。俺は死ぬぞー。あー。俺は餓死なんだー。餓死するんだぁぁぁ。ふざけんなぁ、こぉなぁ!」

「うるさい黙れ喋るな息をするなオレに気安く声をかけるなこのあほぼけ間抜けクソカグヤ」



 振り返った光成は鬼気迫る形相で息もつかずにまくし立て、言い終わるや否や、空のペットボトルをカグヤに向かって投げつけた。


「うぉっ。危ねっ」


 ハエを払い落すように飛んできたペットボトルを叩き落とす。ベシャッと音を立てて落下した物体は、立体から平面に姿を変えていた。



「コウナぁ、何ピリピリしてんだよ。俺に当たっても意味ねぇだろ。っつーか、面倒くさくなってきたぞ、俺。さっさと何か食わせろよ」


 カグヤは頬杖をつき、鋭い茶色の目を細めて言った。


「知らない。勝手にしろ。オレはカグヤの相手をしているヒマは無いんだ」

「コウナは暇じゃねぇって言うけどよぉ、俺も空腹で暇じゃねぇんだよ。いいから何か食わせろよ」

「自分で何とかして。ガキじゃないんだから」


 光成はカグヤに背を向けると再び教科書と向き合った。


「うっせぇなぁ。俺は腹減ってんだ。っつーかよぉ、俺に料理を作らせてみろ。この部屋を料理にしてやんぞ」


 栄養ドリンクのキャップがねじ切れる音がした。内側が薄茶色の波状のシミで汚れたマグカップに鮮やかな黄色の液体を注ぎ込む。遮光瓶を床板に落とすと、今度はスティックに入った粉末コーヒーを投入する。マドラーでマグカップの中を掻きまわす。ドロドロに柔らかくなったゼリー状の物体がネチャネチャと下品な音を立てている。エナジードリンクでゼリーを攪拌し、粘体から液体に作り変える。



「医学部生はなぁ。ラクないきもんじゃないんだよ」

「?」

「オレ、聞いたんだ。普通の大学生って奴は、単位を一つ落としても来年再履修すれば問題ないんだって」

「なんだぁ? それ?」

「だけどなぁ、医学部は、んなことできないんだよ。おかしいって思わない?」

「いや、俺はお前が言ってる言葉の意味が一つもわかんねーよ。タンイ? リシュウ? サイリシュウ? プロレスの技の名前か?」


 形容しがたい液体。体に有害間違いなし、本日三杯目 粉末コーヒーの液体ドリンク+エナジードリンク割りをグイッと一口煽ると口元を袖で拭う。ゲフッと逆流した息は人工甘味料の匂いに染まりきっていた。


「単位を一つでも落としたら即留年なんだよ! 留年! 恩情の追試験をやってやる。って教授どもは言うけど、意味はねぇ。試験で落ちた人間が追試験をどこまで理解してるっていうんだよ。あ゛あ゛ん? できねぇから試験に落ちるんだよ。わかる? カグヤ、わかるか? オレの怒りがああああ。医学部入ったら頭良いんでしょ? だから単位落とさずに大学生活送れるんじゃない? とか言うバカにオレの気持ちがわかるか! 医学部入ってもバカはバカなんだよ。どんだけ勉強してもできねぇもんはできねぇんだよ! オレは語学ができねぇんだよ。日本語以外喋れないオレがどんな気持ちでPCEに向かってんのかわかってんのかよおおおおおお」


 光成は勢いのまま大声で叫ぶと、机に突っ伏してオンオンと泣き始める。


「オレ、語学ができねぇんだよ。語学わかんねぇんだよ。なんなんだよ。外国語って。知らねぇよ。オレに外国語をさせるっていうのはよ、大気圏から全裸バンジーして無事に生還してこいって意味なんだよ。技術が発達した現代社会、ポケトークやらGoogle翻訳やら文明の利器が溢れているのに、なんで生身で外国語を話せって強要するの? ねぇなんで? 情報を得るために本やインターネットを駆使したり、計算をするために電卓を使ったり、防寒対策で服を着たりするように人間は道具を使って進化した生き物なんだぞ。道具を使うことは人間の進化の証。なのになんで人間進化の過程を否定するの? もしかしてアレ? 自分は外国語が出来るからって、道具を使わずに頭だけで外国語を扱えるって思ってるわけ? それって傲慢じゃない?」

「?」

「オレ、単位が取れる気しねぇよ。この単位取れなきゃ留年で8年超えたら満期卒業だぞ。オレ、語学一つで大学卒業できず、医者にもなれないで、親に新築一戸建ての家を買わせる学費払わせて将来はウンコ製造機になるんだぞ」

「知るか」



 カグヤは光成が嘆いている意味が全く理解できなかった。彼が豹変したのは、自分でも分かる害悪間違いなしのあの飲み物のせいだ、と考えた。「知るか」と言い放った言葉は自分でも驚くほど落ち着き払っている。自分の声帯であのような声が出せるのかという驚きもあった。

 髪の毛をワシャワシャとかきあげると、大きなため息と共にベットから跳ね飛ぶ。床に足がついても音がしない。彼はあるべき重さを失っている。重さを失った体は、放つべき音も失っている。

 冷蔵庫から封の開いたミネラルウォーターを口に含む。冷ややかな目で光成を睥睨すると冷蔵庫の中から未開封のペットボトルを放り投げた。


「痛っ」


 放物線を描くも相手は上手に受け取ることが出来なかった。鈍い音を額に立て、ゴロゴロとペットボトルが転がっていく。



「俺は光成の苦労なんて知らねぇし、俺に言って何がしたいんだ」

「……ごめん。気の迷いだよ」

「謝んな、気持ち悪い。お前は何も悪ぃことしてねぇんだろ。っつーかよぉ、俺はなんでてめぇが喚き散らせるのかが知りてぇ」

「それは、明日の試験が――」

「んなんじゃねぇよ。俺が聞きてぇのは。ってか、お前、()()をいつでもやるのか?」


 光成は黙る。実のところ人前で、しかも素面で取り乱したのは初めてであった。

 受験中、浪人中、周囲の期待や将来を想像し絶望に押しつぶされそうだ。気が狂いそうだ。気がくるってしまった。と思ったことは幾度もある。壊れてしまいたい理性は冷ややかなもう一人の自分が「見苦しい」と一蹴し抑え込んできた。見苦しい自分を周囲に見せびらかすなんて狂気の沙汰と思っているし、思考している今でも感じていた。

 目前に迫っている学期末試験は、前者と比べればプレッシャーも絶望度も軽い。取り乱すレベルには達していないのに、と冷静に考えるとカグヤへの回答は拍子抜けするほどに単純だった。


「他人の前ではやんないよ。多分、カグヤだから言えたんだろうね。こいつは絶対にオレの言うことを理解しないし理解できない。だけど、聞いてくれるんだろうなぁ。と思ってる。ま、言う他人もいないから安心してる」

「馬鹿にしてんのはわかるぞ。コウナ」

「馬鹿にはしてないよ。ただ、カグヤ以外には絶対にできない。恥ずかしいし」


 床に転がったペットボトルを拾い上げ、ジンジンとうずく額にあてる。

 汗をじんわりとかいたペットボトルの冷たさが心地よい。暴走した熱が吸い取られていくような気がした。


「今回は本試だけで単位を決めないといけないんだ。再試の日には予定が入れていてね」

「予定?」

「うん。伶奈ちゃんと会う約束をしてるんだ」

 顔を知らない女だが、彼は名前だけを知っている。続けろと目顔で訴え、冷蔵庫に体を預けて、ペットボトルの吸い口を唇にあてた。


「伶奈ちゃん、二学期の期末試験の成績がよかったんだ。がんばったら、有名な喫茶店。ムヘルナで奢る約束してたから、その約束を果たすんだ」

「バイト先のガキが成績良くてテメェがダメだったら意味ねぇじゃん」

「本当にそうだよ。成績が悪い先生でしかも約束まで守らないってなったら最悪。だから、なんとしても再試は回避して本試で単位を取らないと、俺の今後に関わってくる」


 カグヤはペットボトルを傾けて言葉を抑える。だが、水は舌の上に乗らなかった。目の高さまでペットボトルを上げると、中身はすでに空になっている。溜息と共に飲み干したペットボトルを片手で握りつぶす。ゴミ箱の近くに放り投げると、空き缶が溢れかえったゴミ箱の上を通過し、床に転がっていった。


「一人がよさそうだな?」

 言葉の意味を光成は理解した。ズボンの中にねじり込んだ財布から五千円札を抜き出し、裸のままカグヤに渡した。


「どうせ漫画喫茶(まんきつ)だろ。いつもの」

「その前に散歩だ。最近は月駒(がっこ)の姿を見ねぇし、気持ち良いぜ」


 カグヤは鼻を鳴らし気分よく言った。月駒を見れば殺す。そう仕組まれている彼にとって、夜の散歩を邪魔する月駒は目ざわりのほか何物でもない。最近の機嫌の良さは月駒との遭遇が無いことも起因しているのだろう。

 だが、光成は違う。カグヤが何気なく呟いた「月駒」という単語は胸に刺さるトゲ。トゲの正体は一人の女性。キャンサーの甘言に乗ってしまい破滅した木品 梨歩(きしな りほ)

 彼女の死に様は今でも深く目に焼き付いている。

 そして、彼女の死を最後に「瓜破(うりわり)市連続失踪事件」はピタリと止まった。



「まるで流行りの熱病ね」

 瓜破市連続失踪事件をそう揶揄する女性もいる。その言葉を聞いたとき、例えがうまい。と光成は思った。けれども、梨歩の死は流行りに乗って死んだ。と言ってほしくないという気持ちもある。

 今では、瓜破市連続失踪事件は「時代遅れ」の熱病になってしまった。何も解決されず、風化される運命に、光成の胸が鋭く痛んだ。


「光成」


 カグヤの声に顔を上げた。

 瓜破市連続失踪事件と月の人間は切っても切り離せない関係にある。

 月の人間に関わらなければよいのだが、残念ながら難しいだろう。

 月の人間の代表例カグヤが証拠だ。

 明るい茶色の髪と同じ瞳の色。鋭い目つきと服装はジャージ。コンビニ前でたむろするガラの悪いヤンキーそのもの。地球の人間と外見の差異はない。

 深夜の散歩で職務質問を幾度となく受けているらしいが、今はおとなしく警察の質問に答えている。おそらく、職務質問を受けることが珍しく楽しいのだろう。



「悪い。本当に今日は勉強しないといけないんだ。五千円渡しておくよ……。あ、今月のタバコ代はそこから出せよ」

「わーかってるって。この間カートンで買ったから、タバコの在庫はまだあるって」


 カグヤはそれだけ言うと、ジャージのポケットに手を突っ込み背中を丸めて外に出た。ドアからなだれ込む冷たい風に、興奮と哀れに塗れた自分の心が冷静さを呼び戻す。荒々しく閉められたドアの音がジィンと耳の奥深くで響き渡る。頭の中で張り巡らされた蜘蛛の糸は消えていた。自分がやるべきことは何かが明確になる。光成は再び机に向かう。握りしめた鉛筆はルーズリーフの上を滑らかに滑っていった。


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