コバルトブルー
鹿住 梨花
カルテに記載された名前を見て、何と読むのだろうと看護師は思った。
歳の波には勝てない。名前の上に打たれた小さすぎるふりがなを老眼鏡無しで読み解くことは出来ない。
自分の後ろに座る壮年の医師が彼女に目で合図を送りボタンを押した。看護師は引き戸に立ち、中待合室に流れる人工音声の診察案内に耳を傾ける。
ややしばらくして、引き戸が開いた。現れたのは一人の少女。大学病院勤務一筋の看護師であるが、彼女の容姿に思わず息を飲む。外見だけで息を飲むことなど滅多とないことだ。長い看護師経験の中、酷い外傷の為、痛みにのたうち回る子供の姿、死の淵を彷徨う蝋人形のような老人の姿、自殺に失敗し呆然と虚空を見つめる若い女性、暴力団の抗争に破れ、興奮と恐怖の狭間で揺れ動く男などなど。
血とキズと死に常時関わってきた彼女にとって、全身総刺青、人体改造を施した人間などが自分のお前に現れても絶対に動揺しない自信があった。
にもかかわらず、目の前に立っている十四歳ばかりの少女の姿は一目見ただけで驚きが隠せなかった。
「本人確認を行っております。お名前と診察券番号をお願いします」
動揺を悟られぬよう平静な声で彼女に語りかける。
「かずみ りんか。診察券番号は19428……です」
少女らしいソプラノボイス。抑揚は抑えられているが、酷く心に染み渡る。
「鹿住 梨花さん、ですね」
看護師はカルテに記載された感じを思い出し、かみしめるように彼女の名前を確認するように言った。
「その制服、ーーもしかして鹿住さんはサントクリス学園の生徒さん?」
「はい」
看護師は患者の姿をつま先からじっくりと見つめる。西洋尼が着用する修道服に似た黒色のジャンバースカートに白のブラウス。清楚・純真・高潔をイメージした制服と言えば、瓜破市唯一のカトリック系女学校サントクリス学園のものである。
カトリック系女学校といえば秘密の花園めいた印象があるが、この学校は現実的な秘密の花園だ。学力調査はもちろんのこと、四親等に及ぶ家計調査。両親の企業調査や思想調査などがなされ、志願から合否にかかる道のりは長く過酷なものであると有名だ。
入学した本人は特権階級や上級国民と下々の者から揶揄され、一定ステータスの家庭では優良物件と目される。
学校側も生徒の扱いには慎重で、生徒は体調不良があればお抱えの医師が対応する。滅多と市井の病院へやってくることはない。
そのような背景を持つ学校から想像がつくように、当然校則も厳しい。
だというのに、鹿住梨花の容姿は校則真っ青の容姿である。
黒髪以外認めないといわれているのに、梨花の髪はカフェラテを思わせる色素の薄い茶色のボブヘアー。色白の肌に映える真ん丸の大きな瞳は南国の海を思わせるコバルトブルー色。理知の光を取り込んだ目は水面に映る太陽の輝きを思わせた
黒髪黒目の日本人とはかけ離れた外見であるが、不思議と異国の匂いをを感じ取ることができなかった。
「鹿住さん、お久しぶりですね」
看護師は慌てて医師の後ろに立つ。看護師が診療の邪魔をするなどあってはならない。普段ならありえない行動を取っている自分を認識し、動揺していることを痛感した。彼女が動揺しているのは、強烈な違和感を感じているのが原因だ。
日本人らしからぬ外見であるのに日本人と認識させる強制力。
血筋重視のサントクリス学園の制服の力にモノをいわせているだけではない。と考えた。
看護師は何を違和と捉えているのかを知るべく、梨花を観察する。
「最近の調子はどうですか?」
「はい。先生のおかげでとても良いです」
「それは良かった」
「先生もお変わりのない様子で。安心しています」
看護師は再び違和感を捉えた。
歳不相応の落ち着き具合。病院慣れしている、というわけではない。
腰をしっかりと落とし、静かに目の前の人物と現実に向き合う余裕。その姿は何度目かの焼きまわした人生をなぞっているように見える。
彼女は梨花の違和感の輪郭を捉えたような気がした。と、同時にこの違和感は自分だけが感じているものなのかという疑念が湧いてくる。
彼女の視線は鹿住梨花から主治医である上貞 晶彦へ移っていく。血液内科の准教授であり若くして次期教授の呼び声も高い。聡明な彼は彼女に違和感を抱いているのだろうか。そのようなことを考えていると診察室内に着信音が響いた。看護師の胸ポケットからだ。上貞医師は振り向かない。鹿住梨花も彼女に一瞥をくれることすらしなかった。
彼女の反応を見て看護師は少女は普通ではないと改めて認識するのであった。
看護師は発信先を確認すると外来事務からであった。腰を曲げ梨花たちに一礼し診察氏の奥の扉から逃げるようにして飛び出す。
診察中に申し訳ないという思いとともに安堵の気持ちが広がっていく。
何故ほっとしているのだろう。彼女は外来事務員と話しながら考える。
原因は明らかだ。鹿住梨花の存在。彼女は梨花に違和感、動揺を感じている。何故、と自分の心に問いかけると答えは簡単に返ってきた。違和感と動揺の根底にあったのは畏怖。彼女は僅か十四歳の少女に畏怖したのだ。
強烈な外見 謎の認識強制力 歳不相応の豪胆さ。
そして、畏怖より生まれるのは相手への興味であった。
何故、彼女はあのようにできているのか。
生い立ち、親族、成育環境。自分を畏怖させたものがどのようにして出来たのかバックグラウンドに興味を持つ。畏怖の感情を抱きながら、彼女は少女と接点を持つことを求め始める。畏怖と接触と興味。矛盾と類似が入り混じる感情の中、看護師の脳みその中に大きな種がグリグリと埋め込まれたような気がした。
種は綺麗な球体をしており、中央には黒い大きな点。その周りをコバルトブルー。コバルトブルーを囲むように象牙色が覆っている。
それはまさしく眼球だ。コバルト色をした眼球といえば、先ほどの鹿住梨花の瞳。
眼球の如き種子は根を張り、大脳皮質 脳梁 間脳と脳のあらゆる部位を浸食し始める。白い根の一本一本はウネウネと何かを探すように蠢き始める。何を漁っているのか。やめてくれ。それ以上進めば自分の大切なものが、鹿住梨花の目に晒される。恐怖におののき悲鳴が上がる寸前のところでPHSから声が割って入った。
「もしもし」
看護師の意識が現実へと引き戻される。それと同時に自分の脳みそに埋め込まれた種の感触も、脳内から何かを引きずり出そうとする違和感も消えていった。
この経験を経て、自分は彼女に対し本能で畏怖をしていたのだと痛感するのであった。
「ごめんなさい。ちょっとPHSの調子が悪くて。もう一度お願いできますか?」
話していくうちに、彼女の怖気が引いていく。彼女の存在、記憶もである。それはまるで、彼女と鹿住梨花との距離に比例するかのごとく、であった。




