ウブはキズを受け入れる
あの日、彼女は人生に絶望し、自死を決意した。
公園の木の枝に首をくくり死ぬ。ありがちなシュチエーション。だが、普通ではない彼女が選べた数少ない選択肢。
だがその日彼女は一人の男に出会い一度死に、二度目の生を得た。
想定外であった二度目の生。一度目の生と比べて刺激的であり魅力的であるのだが、同時にむなしくもあった。自分の結末は一度目の生と変わらない。「使いつぶされて死ぬ」。いや、野垂れ死ぬ可能性が大きいのだから一度目の生よりみじめかもしれない。そのような未来を考えたとき、彼女は恐ろしくなった。
一度目の生は「ただなんとなく」流された。
二度目の生は「欲望のまま」流された。
流され続けた彼女は、何一つまともに選べていない。一度目の生も二度目も生も大した編かも成長もない。
何も変わらずに死ぬことは果たしてよいことなのだろうか。
彼女は思った。どうせ死ぬのならば、みじめでも良い。自分で選ぼう。自分で決めよう。幸せな世界を手にすることが出来ないなら、世界に抗い幸せな一瞬をもぎ取ろう。そして、世界に声高に叫ぶのだ。
「見ろ。お前たちから幸せをもぎとった。これが私の生きた証! この生きざまが私だ!」
彼女にとって幸せとは。それは、ごく普通。認め、認め合える人を得ること。
彼女は、普通に戻るため、障害物であるキャンサー殺害を決意する。
キャンサーは彼女に二度目の生を与えた親なる存在。つまり、親殺しに挑むのだ。
禁忌と呼ばれる所業を達成するため、一人の男をだまし、一つのイキモノを駒とした。
キャンサーを殺すまでの間、彼女は今まで味わったことのない痛み・苦しみ・悲し・恐怖を味わった。けれども、この感情は全て楽しさに変わっていく。
キャンサーの殺害。この目的を達成する過程で、彼女は名を知らぬ者に背中を預けられ、彼女も背中を預けた。
不思議だった。出会って数時間しか経っていないのに何故命を預けられたのか。理由は一つ。彼女の目的にのった人がいる。彼女の目的を信頼し、彼女を信頼した人がいるのだ。
彼女が選んだ道に賛同した人がいる。
キャンサーの心臓を喰らい、食いちぎる。人を識り、認めた瞬間、彼女は初めて「生きる」実感を得たのであった。
キャンサーの身体が砂糖菓子のように溶けていく。キャンサーの顔が苦痛にゆがんでいた。冷たい身体に触れ、彼の死を確認した彼女はキャンサーの身体に崩れ落ちた。
(やった。私は本当に彼を殺した。)
体の中から力が抜けていく。潰れた瞼がやけに重い。キャンサーの血を飲んだが、喉は乾き水分を欲している。
(キャンサーを殺したんだから……。私、人間に戻れるかなぁ)
起き上がる気力も瞼に喝を入れる気力も無い。ただ、ボォっと砂の粒子を見つめている。
(そうだ。人間に戻ったら、彼に名前聞いて……。LINE交換して……。あと、あと……スカード代、やっぱりお願いして服を買ってもらって……)
土の乾いた空気が鼻孔を撫でる。心地よい風に、彼女の長いまつげが揺れ動いた。
(あぁ。私が生きているってこと、伝えなくちゃいけないのに、どうして……こんなにも)
――世界は、私の敵でいるのだろう――
風が吹き止む頃、命の灯が消えていった。
カグヤと光成が彼女の元へ駆け寄ったのは既に事切れた後である。カグヤはキャンサーの姿が見えないことに警戒し、その場を離れ周囲を確認するためその場を離れた。光成は膝をつき、彼女の身体を抱き寄せた。頬を叩き「起きて。起きて」と声をかけるも、反応はない。試しに胸部に胸を充ててみるも反応はなかった。ほんのりとした人肌の温かさが死から時間を経ていないことを告げている。
人の死を見て、「今にも起きだしそうな」と表現する人もいるが、光成の目には彼女の姿がそのように見えた。全身が泡立つ感覚。この場に留まっているあろう彼女の魂を取り戻すべく、彼は声の限り彼女に呼びかけた。荒々しく頬を叩き、肩をゆする。生きろ。生きろと念じ生を求める。けれども、彼の冷静な部分が囁く。
呼吸停止
心停止
瞼を開けば、瞳孔散大は確実だ。
この三要素は何を意味するのかと。
光成の咽喉ぼとけが大きく上下する。死の三要素を満たしている。蘇生はもう叶わないのだ。
光成の絶望をよそに、戻ってきたカグヤは光成の肩を叩いた。
「主を殺した月駒に未来はねぇ。親殺しは月の世界じゃ重罪だ」
「キャンサーはやっぱり?」
「あぁ。その女がキッチリ殺した」
淡々とした口調のカグヤに光成は顔を見上げ、ゆるゆると首を横に振る。カグヤは亡骸を抱きかかえる光成から視線を外し、それ以上何も言わなかった。
「そっか。君、目標を一つ達成できたんだね」
彼女の勝利を優しくほめたたえる。だが、光成の中で彼女と過ごした時が盆の回転行灯のように思い出された。
短い時間であった。だが、彼女がいなければ光成はカグヤと再会することはなかった。多くの真実を受け止めきれず、ただ「逃げる」ことだけが得意となった人間となっていただろう。現実から目を背けぬよう導いたのは彼女。カグヤと光成の未来を変えたのも彼女だ。
光成の眦から零れ落ちた液体が、彼女の目尻に落ちる。一筋、二筋と頬を伝い零れ落ちるのを見て、姿に光成の感情が喉元にこみ上げる。
「ねぇ、君泣いてるの?」
自分の震える声を耳にし、光成の心臓がギューッと真綿で締め付けられる。心臓から絞り出した液体が眦に再び上り、涙となって彼と彼女の頬を汚す。
「君、言ったじゃん。君のスカート弁償しろって。おかしいよ。カグヤの味方になるだけでチャラになるわけないじゃん……。やっぱり、それ、弁償しなきゃ、意味ないよ――」
光成の言葉が止まる。華奢な身体をキツク抱きしめた。頬からぬくもりが消えている。冷たい頬に、自分の頬をあてがい、必死に熱を分け与える。
(生きて、生きていて欲しかったんだよ)
普通でありたい。普通の人間に戻りたい。と願った彼女に彼が出来るのは、こうやって死を悼み、死を否定し、嘆き、悲しみ、後悔と共に彼女を葬り出すことだけなのだ。
「ありがとう、って言いたかった」
初めて会った彼女は笑顔が美しい女性だった。彼の知っている異性の中でとびきりに美しい女性だった。
「君の願いをかなえたかった」
泥だらけになり、這い上がる姿は勇ましかった。堂々たる姿に命の輝きを見た。
光成はしゃくりあげ、女の瞼にかかる前髪をすくいあげる。穏やかな表情は、光成に自分の心情を伝えているようでもある。
「せめて、名前だけでも……。教えてくれよ」
名前は人物と存在を繋げる楔。名前が無ければ、「人物の存在」は証明できない。だが、光成は名もなき女性の存在を記憶した。記録した。例え、誰もが彼女の存在を否定しても、彼は声高に叫ぶ「力強く生き抜いた名もなき女性がいた」。
時は至った。
彼女の肉体は輪郭を失い崩れ落ちていく。他の月駒達も同じだ。夜空に舞う提灯を幻想的だ。というように、銀の粒子となった月駒の残骸が夜空を舞う姿は幻想的で美しい。死者が魅せる最期の晴れ姿だ。
「ありがとう」
旅立ちを前に、女の声が光成の耳に届いた。慌てて彼女の顔に視線を落とす。しかし、彼女の姿はない。頭頂部も銀の粒子となり、完全に光成の元を去ってしまった。
「待って!」
だが、願いは金叶わない。彼女の魂は肉体から解放され無形の存在へ変化する。地球でも月の生き物でもない彼女達の死は異質である。死と認識されず、生も認識されない。ただ「異質」なあり方を保ったまま扱われていく。
あまりにも悲しい終り方に、彼はこらえた感情が抑えきれず目尻から再び一縷の涙が零れ落とす。
「カグヤ……」
「なんだよ……」
光成の頭に、自分の死がよぎる。
自分が果てるとき、誰かが泣いてくれるだろうか。そばに誰かがいてくれるだろうか。けれども、彼の想像に寄り添う人物は思い浮かばなかった。
夜空を見上げるカグヤのズボンの裾を掴み、消える声で懇願した。
「オレを、一人にしないで」
公園で女のイキモノが生まれた。
同じ公園で女のイキモノは死んだ。
一人で生まれ、一人で死んでいく。
無常の風が生者に吹き付けるのであった。




